現代編 6 - 1/4

 外事室副室長・夏油特級呪術師に下った任務は――M県T町の封印跡の調査。内容は、『古い祠の倒壊後に発見された、呪力反応の精査依頼』。
 神話にもまつわる場所柄ゆえ、呪力反応があるのは至極当然だが、そういった報告がある以上調査しないわけにはいかない。
 しかし、実際に何らかの事件・事故が起きた、あるいは目撃情報があるというわけではなく、明らかに『特級術師』である夏油が派遣される必要性はない。
 実際現場に行ってみると、残留した呪力も残穢もゼロに等しく、祠の管理者でさえ困惑したものだ。
「東京から……それも、特級の方が?」
 念のため一通りの調査はしたが、これまでに何かが起きた気配も、これからなにか起こるだろう気配も感じられなかった。
「あのう……わざわざ遠いところから起こしいただき、ありがとうございました。あの、お茶でも……」
 恐縮しきりの管理者に、夏油はやんわりと断ってから告げる。
「いえ、こちらの務めですから、気になさらないでください。調査は問題なく終了しました。安心して管理を続けていただければと思います」
 往復十時間の割に、調査自体は十分というあまりにも徒労に過ぎない任務は終わったのだった。

 機内。タブレットを用いて、今回とは別件の書類を仕上げながら(今回の報告書は飛行機待ちですでに書き上げたあとだ)、夏油はかすかに溜息を吐いた。
 近頃、こういった、、、、、任務が多い。
 わざわざ夏油レベルの術師が派遣されたというのに、内容は二級術師――最悪、高専生でも務まるような内容のものばかりだ。
 あるいは、無駄としか思えないような会議や面談。――先日など本当にひどかった。
 政府機関との面談ということで外事室が呼ばれたが、議題は『呪術界の透明性向上について』。
 政府側は資料を忘れるわ、用語の定義が間違っているわで、内容は当たり障りがないどころか、いちいち訂正を入れなければならない始末だ。
 この時ばかりは、さすがに夏油も上層部の思惑を感じずにはいられなかった。
 この不必要とさえいえる任務や会議の要請の結果、どうなったかと言えば。――もはや一月。夏油は識の姿を直接確認できていない。
 個人間でのメッセージのやり取りの頻度も、減った。
 初めは、返信の速度が遅くなったと感じた程度だった。
 律儀な識は返信が速い。彼女が携帯を確認できるだろう時間帯を見計らってメッセージを送っていたため、いつもは、送信するとすぐに既読がついて、間もなく返信が来るという塩梅だった。
 しかしそれが、いつごろからか、大幅に遅れるようになった。
 文面も彼女らしくない。
 いつもは絵文字やスタンプをつけるのが常だったのが、短く簡素になった。疲れているだけなのかと思ったが、それがずっと続き――しまいには、日をまたいでの返信や、既読だけになった。
 五条にでも話せば(話さないが)、
「拗ねてんの? なんか怒らせるようなことしたんじゃねーの?」
 とでも返ってきそうだが――識と自身を取り巻く環境の変化が、そういった感情的な原因とは断定しにくい。信じたくないだけ、という線もあるかもしれないが。
『普段を知らないのでなんとも言えないんですが、』
 自身が研究棟に足を運べない代わりに、水野を代理人として派遣している。水野が言うには、
『遠くから見た限りで、かなりお疲れっぽいですね。でも、研究員たちは呪力もバイタルも安定してるって。実際、提出される資料もそんな感じですよね。なんか変』
 ――そこがまず問題だと、夏油は思う。
 識は虚弱とは無縁だ。華奢な方ではあるが、それでも呪術師として研究の傍ら日々研鑽を積み、トレーニングも怠っていない。
 そんな彼女が目に見えて疲弊するなど、普通ではありえない。申請されている予定以上の負荷をかけて、実験をしている可能性がある。
 そうして、研究棟から提出される、識に関するデータ――。
 一か月前、研究棟のセキュリティセンサー――生体識別同期システムとも――が一新された。それに伴い、夏油の権限では一切のログが認証されなくなった。
 無論、夏油は問い合わせた。
 一体何が起きているのか、なぜこんなことになったのか。外事室として研究を管理するうえで、これでは仕事にならないと。
 上からの回答は、いかにもそれらしいものだった。
 最近、研究棟のシステムに外部からの不正アクセスの可能性が確認された。セキュリティ強化のため、研究棟の生体情報は、一部閲覧制限を設けた――と。
 言葉を失う夏油に、男はさらに告げた。
『副室長も特級職務で多忙だろう? 必要なデータはこちらからまとめて提出する。あなたは報告書だけ見ていればよろしい……という、上の判断です』
 男の身分は――結界管理局、情報安全管理課の係長。
 なぜ結界管理局が出てくる? 夏油の疑惑は、今しがた来た研究棟からの報告書によって、さらに巨大化することとなった。
「なん……だ、これは」
 PDF形式の書類、右上の電子承認欄。
 承認フローがひとつ増えている。
 本来は研究棟から外事室直送だったものが、結界管理局を経由しているのだ。
「なぜ、……結界管理局が絡んでいる?」
 突如として浮上した結界管理局が、夏油の心に黒い影を落とす。ひやりと腹の底から冷たくなるような感覚。――何かが、決定的に間違っている。
 無意識に、夏油は個人用の携帯を手に取っていた。
 ロック画面の通知に、彼女の名前はない。どこかすがる思いでメッセージアプリを開いて短くメッセージを送る。――既読が、つかない。
 腹の奥がぐらぐらとするほどの焦燥感。
 どこにも逃げ場のない密室、閉塞した空間で徐々に呼吸が浅くなる。動けないのに、動きたしたくてたまらないほどの焦りを抱えながら、夏油は返信を待った。
 そのうち飛行機は離陸体制となり、電波が届かなくなる。
 三十分という時間は、三時間にも感じられた。
 空港についてすぐに画面を確認するが、いつまで経っても返事はおろか既読さえつかない。思わず通話しようとして、さすがに非常識な時間だとためらう。
 水野の言う通り、彼女が疲れているのなら――夜は休ませるべきだ。ぐっと携帯を握りしめ、夏油は焼け焦がれるような思いを抱えたまま、タクシーに乗った。

 

 既読がついたのは、夏油が自宅にたどり着いた、深夜二時すぎだった。
 返信は九文字。
『おつかれさま おやすみ』
 傑くん、と。
 やわらかな彼女の声が聞こえた気がして――。
 夏油は深いため息を吐いた。呼気が細かく震える。深く細く吐き出しきって、夏油は机にこぶしを打ち付けた。
 激情が渦巻いている。到底抑えることのかなわないような、しぶきを上げる強い濁流。
 声が、聴きたかった。
 姿さえ拝めぬなら、ただ一言――彼女の声を。

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