「傑くん、なんだかお疲れじゃない?」
やわらかい声を聴いて、夏油は目を見開いた。
「……識」
口から出た声は、自身でもはっとするほど、驚きや猜疑にまみれた音をしている。当然、彼女もそれを聞いて不思議そうな顔つきになった。
「そうだよ、識だよ。秋月識。どうしたの、なんだか幽霊でも見たみたいな顔してる」
「いや、……それは。違う、……そういうわけじゃなくて」
まるでひどく泥酔したときのように、あるいは疲労困憊で動けないときのように。ろれつが回らない。頭も、回らない。
そこに、識がいる。
いつもと変わらないような姿で、穏やかな笑みを浮かべて。――ゆっくりと近寄ってきて、夏油の顔を覗き込んだ。
「やっぱり疲れてる。最近仕事しすぎじゃない? ちょっとは休まなきゃ、体がもたないよ」
「それは……。君の方こそ」
「私はちゃんと休んでるよー」
彼女の手が、そっと――夏油の手の甲に重ねられた。
暖かく、どこまでも柔らかく――涙が出そうなくらいにいとおしい。思わず夏油は、すがるようにその手を握りしめていた。
「っ識……! 私は、」
瞬間――夏油の中を、閃光のような確信が貫いた。
彼女は、こんな風に無遠慮に触れてこない。距離感を重んじる。遠慮なく覗き込んできたり、手を触れたり、――これは、夏油と識の距離ではない。
刹那、握りしめていた手が、まるで違うなにか、……全く別物に見えた。
そっと、識が手を引く。するりと、その手はいとも簡単に夏油の手の内から離れていった。
これは――妄想だ。そうありたいと願った、夏油の願望。名残惜しさよりも、罪悪感のようなものが、胸いっぱいに広がる。
「傑くん、ごめんね」
識が笑った。
どこか、なにかを諦めたような。すべてを知り、すべてを悟ったような、――どこか寂しい、はかなく消えそうな笑い方。
その笑みが、いつも夏油を締め付ける。目を離した次の瞬間、跡形もなく消え去ってしまうかのような。透明度の高い――いつかどこかで見た、深く青い海の中のような。
無我夢中で、夏油は手を伸ばしていた。
「識、行くな」
「ありがとう。…… 」
六文字。
その声は、不快なアラームの音でかき消され――
夏油を現実の世界へと引きずり戻した。
ソファに横になったまま、いつの間にか眠っていたらしい。服も着替えず、シャワーも浴びぬまま。
鉛のように重い体と頭を抱え、夏油は体を起こし、しばし呆然とした。
――そうして時計を確認する。
出勤までは時間がある。それまでのスローさが嘘のように機敏に立ち上がると、風呂場へと急いだ。
彼にしては珍しく、歩きながら衣服を脱ぎ、乱雑に洗濯籠に放り込む。全身に熱いシャワーを浴びながら――夏油は頭の中を一旦リセットした。
上から言いつけられる、不要の任務に会議、雑多な用事。
研究棟から送られる、実際の彼女の状態とは乖離しているであろう、不正と思われる研究データ。
セキュリティ一新を建前に、アクセスできなくなった識個人の生体データ。
突如として書類に増えた、「結界管理局」の承認印。
浴室から出ると、髪を乾かしながら今一度、研究棟から提出されたデータを確認する。
実験内容、実験結果――これまで、軽く十枚は超える内容だったものが、今回はたったの三枚。理論上、「普段通りの研究をしている」ことを示すものだが、あまりにも中身が薄すぎる。
あるいは、添付ファイル――ログの一部は黒塗りとなっている上に、実験の行程表もかなり曖昧なものとなっている。
今までは事細かに、何時にどういった実験を行ったか、リアルタイムの反応はどうだったかという情報が添えてあったのに、今回はそれらが一切なく、総括した結論のみが記載されている。
『かなりお疲れ』
という水野の言葉。――それが本当なら、行程表にある簡素な実験で、彼女がそこまで疲弊するはずがない。今までは、行程表の倍以上の濃度の実験をこなして平然としていた彼女だ。確実に、それだけではないことを示している。
ある程度のところで脱衣所を出ると、夏油は半分以上濡れた髪をぐっと縛り上げた。鏡に映る姿ひどく疲れてはいるが、その目には強い意志が宿っている。
出勤の支度を手早く整えると、夏油はオフィスへと急いだ。
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