早朝のオフィスには、いつも通り夏油以外の姿はない。
パソコンを立ち上げ、起動するのを待っている間――ドアが開く音とともに、出勤したものがあった。
「室長」
外事室室長、芦屋。彼女の出勤も早い方ではあるが、夏油ほど早く来ることはない。驚いて声を上げた夏油に、芦屋は一瞬目を見開き、どこか不自然に視線を外した。
その手に、大判の書類袋を持っているのが見える。ちらりと覗いた『結界管理』の文字。――結界管理局。
夏油が書類を凝視しているのに気づくと、芦屋はそれをさっと自身のカバンで隠した。
「おはようございます。夏油副室長、いつも早いですね」
そう言って芦屋は立ち去ろうとする。オフィスの奥、室長室へ。しかし数歩進んで立ち止まり、振り返る。
「昨日は九州までの出張で、今日は午後出だったと記憶していますが」
「所用です。室長も早いですね」
「私は、……。いえ、あなたは昨日も遅かったはず。ちゃんと休んでいただかなくては困ります」
「お気遣いいただき光栄です」
「っそうではなくて、」
一瞬、芦屋の瞳に感情的なものがよぎる。夏油はそれを冷静に観察している。
「……あまり、勝手なことをしていただくと困ります。あなたは外事室にとって、欠くことのできない存在なんですから」
芦屋の言葉の合間に、パソコンの同期処理が完了した。
「期待に沿えるよう、精進します」
軽く会釈して画面に向き直ろうとした、次の瞬間。
「っあなたが知らなくていいことを、調べる必要はないはずです!」
芦屋が声を荒らげた。
「……どういう、意味ですか」
「言葉通りの意味です。近頃の研究棟や被験者をめぐる動きは……私もよく知っています。けれどもそれは、私もあなたも関与できないことです。あなたが首を突っ込めば突っ込むほど、外事室まで危険にさらされるということをお忘れなく」
夏油は思わず立ちあがった。
「……室長は、なにを知っているんですか」
凝視する夏油から、芦屋が目を逸らす。
「私は知らない。でも……知らされていないことが、あるということです。私が知らされていないということは、上が絡んでいるということでしょう。これ以上勝手なことをされると、私にも庇いきれません。そうなればあなたは、……」
「私の身はどうなっても構いません」
「どうして?!」
芦屋は声を荒らげた。「たかだか……ただの、同級生、でしょ」
そうしてつかつかと、速足で夏油のデスクまで歩み寄ってくる。
「彼女の術式が特異なものであることは、十分理解しているつもりです。解明すべきと同時に……保護されるべきであることも。しかし、上が危険だと判断するのなら、」
「被験者じゃない」
遮るように発された夏油の声は、自身でも驚くほど冷淡だった。
「彼女は……識は、被験者なんかじゃない」
――学生の頃から、ずっと見てきた。
立派な呪術師になれるようにと、研鑽する姿。苦手な呪力操作を鍛えようと、限界まで無茶をしてグラウンドに大の字になった姿。現場から隔離され、研究室に押し込められてなお――いつでも現場に行けるようにと、ストイックに鍛錬を行う姿を。
「呪術師として非術師を守ろうとする、善良な術師だ!」
爆発的な感情が、めったにないほどの大声を迸らせる。その声量に、夏油自身も言い終えて息を飲んだ。それでもなお、彼の言葉は止まらない。
「それを危険と……上が、危険と判断していると……? そんなことは間違っている。だからと言って、識を縛り付けて実験漬けにしていい理由にはならない!!」
おそらく初めて聞いただろう夏油の怒号に、芦屋は身を竦めていたが、――次には、冷静な表情に戻っていた。
「……不明なものは脅威となりやすい。呪いがそうであるように。あなただって、分かっているはずです。因果律に手を加えるなど、普通の術式ではない。ただの人間が踏み込んで領域ではありません」
「特異な術式とはいえ、――」
「彼女の術式について、あなたと論じるつもりはありません」
芦屋は凍えた口調で切り捨て、それ以上を封じた。
「あなたが命令に沿わないというのなら、相応の対応をするまでです。……そうなれば、大切な『識さん』に関するすべての権限を失いますよ」
それだけ言って、芦屋は室長室へと消えて行った。
――やはり。
夏油は徐々に、疑惑の輪郭に触れつつあった。
大きな何かが動いている。それは外事室をも飲み込んで、……着実に、進んでいる。
芦屋は確かに、なにも知らないだろう。しかし彼女自身も、何かが動き出したことは気づいている。そうして、『外事室室長』として夏油を止めている。なぜか――自己保身のためだろう。
別にそんなものは、どうでもいい。邪魔さえしなければ。――否、それは百パーセント無理だろう。夏油の行動はあまりにも多くのことを、物を巻き込む。それでも夏油は止められない。
頭は熱しきったまま、しかし思考回路は極めて冷静。
夏油は淡々と作業を始めた。
まずは、研究棟の部署一覧と承認フローを再確認する。
研究棟からの提出資料一覧を表示すると、最新のものから順次開いていく。――まず、一覧のファイル数が普段より確実に少なくなっていることに、気づいて眉を寄せる。
一つずつファイルを開き、承認フローを下までスクロールして確認する。ページ最下部の承認欄に、『結界管理局』の文字が入っている。これは、予想していたことだった。
次の資料も同様に。――内容と承認ルートも異常だ。
まずは、ページ数の少なさ。それに伴う内容の希薄化。内容――例えばこの、呪力反応と心拍数に関するデータについて。
従来なら、
呪力反応:6.23 → 6.41 → 6.38 → 6.52 → 6.49
心拍:93 → 104 → 98
このように、リアルタイムの結果が反映されているはずだが、直近のものは、あまりにも簡素すぎる。
呪力反応:6.0
心拍:100
評価:問題なし
「……こんなに綺麗なデータのはずがない」
――生身の体の反応だ。
ここまで直線的な数値を示すはずがなく、リアルタイムの経過が省略されているということは、そこに隠したいものがあるということだ。
あるいは、PDFデータの編集履歴の不自然さ。
夏油は元来細やかな性格をしている。その性格ゆえに苦労することもあるが、今回はそれが役立った。
提出書類に見られる、記録者の微細な癖まで完璧に覚えていて、その違いに気づけたのだから。
――フォントの違い。
――区切り線のずれ。
――テンプレートの違い。
――印影の電子スタンプの違い。
「研究棟の書式じゃないな。……結界管理局で作り直したものか?」
あるいは、医療班の記録。
――術式負荷:軽度
――呪力消耗:なし
――体調変化:なし
――精神状態:安定
心身ともにオールグリーンの文字が並んでいるが、水野の言葉を信じるなら――信じるほかないが――、心身ともにタフな識が相当疲弊するほどだ。明らかに虚偽の報告だと見抜ける。
さらには、被験者――識の行動履歴までも異常と来ている。
従来の行動ログが、
9:12 実験室移動
10:04 休憩室
11:15 生体モニタ解析
12:00 昼食
14:32 再実験 ……
といったものだったのに対し、直近の履歴だと、
活動:通常
移動:なし
特記事項:なし
「……あいつら、識を軟禁しているのか……?」
夏油は額に手を当て、ぐしゃっと生え際を握りこんだ。結った髪が乱れて落ちてくるが、夏油の調査行動は止まらない。
研究棟内チャットや議事録等の通信ログも確認する。――今までは雑談や注意事項などの関係のない雑音も大量に混じっていたが、直近のものは、全体チャットの書き込み:ゼロ。議事録は一行のみ、『各自確認のこと』――この一文で終わっている。
研究主任の名さえ、一度も出てこず、完全に人間の気配が消えている。
これは人間が作った資料ではない。まるで――記憶を残すなと命令されてできたような、不自然なログだ。
次に、研究棟各部署の通信量変化の比較。
外事室には、研究棟の部署別通信記録を確認する権限がある。本来は業務監査用だが、ここを押さえない手はない。
比較した結果、
実験管理課:通信量が急激に減少
安全管理課:ログの空白や黒塗りが存在
設備運用課:異常値の報告なし
総務情報課:外事室への通信量が減り、結界管理局との通信が3倍に増加
――これから見えてくるのは。
「……誰かが結界管理局へデータを流している。外事室からの情報を遮断……している?」
夏油は呟いて、不快げに次の作業へと移る。
識の個別データのアクセス権限の履歴の調査――。
そこには、研究主任、安全管理課の医療班責任者、……見慣れた肩書のほかに、『結界管理局』の文字が新しく出現している。これは予想通りだった。
最後に、――夏油は認めたくない事実の確認作業に入る。
外事室の権限が、どこを境に削られたのか。その特定だ。
通常、外事室の認証ログには必ず、何月何日・何時何分・どの権限が・誰によって変更されたかが残る仕組みになっている。
夏油はまず、研究棟データベースの「共有権限設定一覧」にアクセスした。
アクセス許可一覧の部分、――外事室副室長の権限を確認する。確認して、夏油は目を細めた。
通常、研究の監視役である夏油には、編集の権限がない代わりに、閲覧の制限はなかった。しかし現在は、閲覧さえも部分的に制限がかかり、限られたデータしか見ることができなくなっている。
権限変更ログを開き、――確信に変わっていった。
【権限変更ログ】
変更日時:●月×日 23:14
変更者:結界管理局・情報安全管理課
変更内容:外事室副室長アカウントのアクセス範囲を一部制限
承認者:局長職
理由:セキュリティ強化のため
確信を持って、権限を変更した担当者を確認する。
変更操作担当:情報安全管理課 第三係
操作端末ID:×××-8A41
操作署名:職員番号 52-731
番号を見れば、夏油には分かる。否、番号さえ見なくとも――研究棟ではなく、結界管理局の人間だと分かった。
何度も出てきた、『結界管理局』の名前。胃がむかむかとするのをこらえながら、夏油は静かに考え込んだ。
点と点を結んでいく。
いったいどこからおかしくなっていったのか。
資料内容の簡略化が始まった日、承認フローが変わった日、外事室の権限が制限された日時、研究棟のセンサー入れ替え日、識の返信が急激に遅くなった時期――そのすべてが、同じ週に起きている。
すべての証拠を押さえながら、しかし、夏油は信じられない思いで眼前の端末に視線を注いだ。
研究棟の暴走であるならば、まだよかったのに。結界管理局まで絡んでいるとなると――いや、セキュリティの入れ替えや承認フローまで変更されているということは、明らかに上層部も噛んでいる。
いったい何のため――。
「識を、……隠すため……?」
いったい何のため――。
底知れぬ焦燥がこみ上げて、夏油は個人用の携帯を手に取った。時間や相手の都合など構っていられない。ほとんど無我夢中で画面をタップし、通話ボタンを押す。
秋月識。
端末を耳に当て、息をつめて待つ。たったその数秒の時間が待ち遠しい。しかし数瞬の沈黙ののち、
『おかけになった電話番号は、現在使われておりません』
機械的なアナウンスが流れる。
「は……?」
夏油は目を瞬き、もう一度かけなおすが――結果は同じ。
次に、メッセージアプリを起動する。メッセージを送るが既読がつかない。通話のボタンを押すが、――呼び出し音が鳴らずにすぐ切れた。
画面の表示は、
『通話が開始できませんでした』
「識……?」
夏油は茫然として端末を置いた。――アイコン画像は、見慣れた空の写真だ。暁の空に、星が一つ輝いている。
明けの明星――いつだったか。
任務の帰りに見上げた天に、ひとつだけ瞬いていた、ひと際まばゆく明るい星。金星。メソポタミアの女神、イシュタルと同一視された星。
『愛と戦の女神。両極端で、二面性があって、……自由奔放で、羨ましいな』
そう呟いた彼女の横顔を、夏油は今でも覚えている。不自由の中にいた彼女があこがれた神。――彼女が、あの女神のように、怒りですべてを破壊してくれたなら。
でもそうではない。だから惹かれたのかもしれない。正反対の、女神に。
透明ではかなく消えてしまいそうな、識の横顔が心臓を突き刺す。
瞬間、夏油の理性がちぎれた。
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