夏油は走り出していた。
出勤してきた外事室の面々とすれ違う。その剣幕にぎょっとされたが、構っている暇はない。
研究棟へと走りだす。
近づくにつれて、夏油の焦燥感は身内を焦がすように膨れ上がった。いつもは聞こえるはずの鳥の声が、感じる人の気配が、全くしない。いつもは見慣れたその建物が、今はまるで別物のように冷たく居丈高に映る。
研究棟の入口上部のカメラが、まるで夏油だけを追うかのように、角度を変える。
IDカードをタッチするが、
《アクセス権限がありません》
《認証エラー:権限コード 403》
ゲートで認証エラーを食らい、中に入ることができない。インターホンで管理者を呼び出すが、
『入棟許可のない方は、お通しできません』
その一点張りで通話を切られた。さらには警備員まで出てきて、夏油の行く手を阻む。
「失礼ですが。研究棟への立ち入りは、本日、関係者以外禁止になっております」
「私は関係者だ。外事室副室長として、ここに入る権限があるはずだが」
「申し訳ありません。上からの通達で、外事室の権限は一時停止されています」
お引き取りを。
警備員は同じ文言を繰り返すばかりで、頑として夏油を通そうとはしなかった。
「あ、副室長! 室長が、」
オフィスに戻った夏油を水野が呼び止める。しかし、次の言葉を続けようとして、固まった。
水野だけではない。彼を目撃した全員が息を飲み、音さえ立ててはいけないように停止している。
朝の緩やかな喧騒は、夏油の登場により水を打ったように静まり返った。夏油は構うことなく室長の部屋へ、ノックもせずに足を踏み入れる。
「一体どういうことですか?!」
声を荒らげながら登場した夏油に、芦屋は予測していたように一瞬だけそちらに目をやり――そうして、一通の封筒を差し出してきた。
白い封筒だ。表に黒々と印字されたのは「辞令」の二文字。その下に押された結界管理局の公印が、不吉なほどに赤く彩る。
芦屋はそれを指先で押しやりながら、夏油を見ないようにして言った。
「……あなた宛てです」
夏油は入ってきた瞬間の爆発的な怒りを忘れ、どこか呆然として封筒を手に取る。
ずしりと重い。封は固く糊付けされている。
開ける前から、嫌な予感がぞろりと背骨をなぞった。
辞令
(外事第■■号)
夏油傑 殿
あなたは令和■年■月■日をもって、
研究棟における『因果律改変術式研究』の監督業務を解かれ、
当該業務の一切の権限を失うものとする。
なお、後任は結界管理局の所掌とする。
総監部長 印
結界管理局長 印
外事室室長 印
無機質な文字の羅列に、夏油はそれを取り落とした。ぱさりと、軽やかなはずの紙の音が、異様に重たく聞こえる。
「……なんですか、これは……」
「辞令です。それを目にした瞬間を持って、あなたは……」
芦屋の言葉は、夏油の耳に届かない。
――本日をもって夏油傑は、研究棟における『因果律改変術式研究』に関する全権限を失うこととなった。
【第一部 完】
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