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恋に落ちた瞬間というのは、正確には分からない。
たとえば、日々が楽しいとか、なんでもないことが嬉しいとか、悲しいとか。とある特定の「人物」の行動が、嘘みたいに多大な影響を与えていると自覚したとき、もしかして、と審神者は思った。――恋をしているのかもしれない、と。
恋心というものを自覚すると、あとはもう早かった。
恋は落ちるもの、とはよく言ったもので、それから先は墜落するようにあっという間だったと、審神者は回想する。
彼の何気ない言葉かけが、嬉しかった。ふとした時に感じる視線、それに含まれた優しさだとか暖かさが、胸を締め付けるほどにいとおしく、また切なくてたまらなかった。
しかし、そればかりではない。「彼」というのは審神者にとって身近な存在――つまり自本丸の刀剣男士で、ともに戦う仲間だ。何気ない彼の一言々々が、審神者に勇気を与え、あるいは叱責し戒めさせ、日々の些細なやり取りの一連が、仕事に対するモチベーションを著しく向上させた。
仕事など誰のためにするものでもない、他ならぬ自分のためだ。あるいは「歴史を守る使命のため」だ。そう言い聞かせてはいるものの、内心では、彼に褒められたくて頑張った。よくやった、良い主だと自慢に思ってもらいたくて、頑張った。
時に寝る間を惜しみ、自分の楽しみよりも優先させ――そうすると彼が労ってくれるのも嬉しかった――、努力は実を結びキャリアアップにもつながった。
そうなると任される仕事は増え、仕事の幅も大きく広がった。毎日くたくたになって寝るだけの多忙な日々が続いたが、充実感はこれまでの比ではなかった。勿論失敗もしたし、責められることもあった。そんな時も、彼の支えがあったから乗り越えることが出来たのだ。
それらの経験が、審神者に確固とした自信を与えた。
自信は、彼ともう少し先に進みたいという願いさえ、彼女に持たせた。しかし――その先、となると審神者は急に自信を失い小さくなったものだ。
勇気が、持てなかった。それは二人の立場と関係性に問題があった。
審神者は刀剣男士の主だ。
いくら彼に対して従者のような感覚は抱いていないとしても、関係性を表す言葉は「主従」。主従というものに馴染みがない彼女と違い、彼の方は審神者を「主」として尊重してくれる。「主」と「従」の間は彼女が思うより、明確に隔てられている。
単純なことだ。主である彼女が愛の告白をしたとして、従の立場である彼らがどう反応するか。この際、フラれるならまだいい。しかし受け入れられたとして、そこに忖度がないと言い切れるのか。
否、と審神者は思う。きっと彼の性質上、忖度のために主の告白を受け入れるようなことは、しないだろう。しないだろう、とは思うが、そこに絶対の自信も持てない。
あるいは、忖度することなく結果フラれたなら、と考えると―それも怖い。そういった第一歩を軽率に踏み出すには、彼女は初恋に身を焦がすのが少しばかり遅すぎた。少しばかり、慎重になりすぎていた。
じゃあどうすればいいのか、と考え悩みに悩んだ挙句、しかし大した結論は出なかった。ただ、審神者は段階を踏もうと考えた。
まるでプールに入る時、足元から水をかけて慣らしていくかのように。相手の考えがどうなのか、まずはそこを確認することから始めたのだった。
審神者と、加州と、彼と。
割とありきたりなメンバーで、夕餉の準備をしていた。何気ない雑談の中で、するりと審神者はそちらに誘導していく。季節の話からホワイトデーの話題へ、ホワイトデーから恋愛がらみの話題へ移り変わった時――ふと、審神者は勝機を見出したのだった。
「そういえば。審神者と刀剣男士が付き合ってる本丸って、あるでしょ」
「あるね。この前の演練の時もいたよね」
加州が乗ってくると、彼もまた頷いた。刀剣男士の誰それと、妙齢の審神者。似合いだったと話す彼に、審神者は確固たる手応えを感じ、さらに攻めた。
「たとえば、審神者が刀剣男士に告白したとするでしょ。刀剣男士の立場的に、主をふることって出来るのかな? 付き合ってるとして、そこに忖度はないのかな?」
理屈っぽく話す審神者に、加州は顔をしかめてみせた。
「うわ出た。そういうところが、主のモテない理由なんだって」
「それはこの際置いといて。実際のところ、どうなの?」
ちらりと、二口に視線を向ける。――二口とも、よもや自分の主がそれについて悩んでいるとは思いもよらないだろう。
うーん、と加州がちょっとだけ考える素振りをみせた。
「でも、刀剣男士ってひとくくりにされても困るよね」
加州が言うと、それもそうだなと彼もまた頷く。
「俺の同位体だって、断るやつもいれば断らないやつもいると思う。顕現された後の環境で、ちょっとした個刃差はあるでしょ。一概には言えないよね」
「じゃあ、私の加州はどうなの?」
「俺ェ……? うーん……。なしかな。第一、主は俺の好みじゃない」
「はぁぁあああん?! いいわよ、続けて」
「いやゴメンって。あ、でもどうだろう。実際告白されたら、ドキドキしてOKしちゃうかも。俺は恋愛なんてしたことないからね、チョロいと思うよ」
笑う加州を可愛いと思うべきか怒るべきか、考えあぐねているところで――
「あちらさんと違って」
加州は何気なく付け加え、意味深な視線を彼に投げた。
赤い双眸がにっと弧を描くと、彼はおい、とどこか照れくさそうに笑う。ドクン、と審神者の心臓が大きく跳ね上がった。
その言葉の意味を考えるまでもなく、加州が声をあげてネタ晴らしをする。
「主、そういえば知らなかったっけ? こいつ、いっちょ前に彼女いるんだよ。最古参の俺を差し置いてさ、生意気だよね。うちの本丸初だよね」
「え……彼女?」
審神者はぽかんとして彼の方を見る。照れくさそうに、しかし穏やかに、どこか愛おし気に――笑う彼がいる。それは彼女が全く見たことのない姿だった。
その後なにを話したか、審神者は覚えていない。
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