唆す男

「清麿はその気にさせるのが極めて上手い」
 若干苦々しそうに言ったのは、水心子正秀であった。
 そこで聞いたのは、監査官時代のあれやこれやといったエピソード。自分には土台無理だと後込みしていても、清麿にそそのかされると段々とその気になって、ついにはやり遂げてしまう――というのが、水心子の言い分だった。
「そそのかすって」
 笑い含みに審神者が返すと、水心子はじろりと半眼を向けて、わが主はなにも分かっていない……と嘆きの声を上げた。
「貴女には甘い顔をしているかもしれないが、清麿は実のところ末恐ろしい男士だ。油断しているとどうなることか」
 ため息交じりの言葉を聞いて、まあそうね……と審神者は思い返す。思い当たらない節がまったくないわけでもなかった。
 いつぞやの喫煙所で見られた、彼の尋問のテクニック。あれは実に見事だった。強い言葉も口調もなにひとつ使わず、審神者の本音を吐露させてしまったのだから――。

 

 ――これか、と審神者は思った。確信した。
 どこかの彼ではないが。さすがは水心子、本当にすごいやつだな、と。まさかこんな未来を予期していた――わけではなかろうが(そんなの恥ずかしくて死ねる)、とにかく彼の言っていたことは大正解だった。
「んっ、」
 思わず鼻にかかった声が漏れたのは、口づけがゆったりとしかし確実に深くなったから。
 口づけ? なぜ口づけなんてしているんだ、という疑問は数瞬前に置き去りにされている。気づいたら清麿の顔が近付いてきて、頬に頬が擦り付けられて。すべすべの頬だと思っていたら、鼻と鼻がくっついて。そうなると、初めから決まり切っていたかのように唇同士が触れ合って。
 いやいや、そんなはずでは。―—そう、はじめはそんなつもりではなかった。そんな雰囲気でもなかった、まったくなかった。
 なにをしていたかといえば、次の休みにどこに行こうかと話し合っていたところで――携帯端末をいじっていたら、すっと隣に清麿がやってきて、始まったのだ。
 とん、と肩同士が触れ合うほどの距離で。彼の匂いと温かさに包まれてほっとしていたら、次には肩にこてんと頭をのせられて。ちょっとくすぐったくて笑うと、視線を感じて。そちらに視線をやると、彼もこちらを見ていて。目が合った瞬間、笑いあって。
「どうしたの?」
「ううん、別に」
 笑み交じりに清麿はそう言い、すりすりと肩に頬を擦り付けた。猫がするみたいな愛情表現。嬉しくて微笑ましくて愛おしくて、審神者もまた肩に乗った頭にこつんと頭を寄せる。
 そうしたとき、端末の画面を触っていた右手を取られて――清麿の左手に絡められる。指の絡み合うつなぎ方にドキリとしていると、彼の空いた手が手の甲をすりすりと撫で初めて、更にドキドキとさせられる。
「清麿。手を触るの、好きだよね」
 動揺を悟られまいとしてあえて声をかけてみると、うん、と隣の方からうっとりとした返事がかえってきた。
「君の手、……ずっと触ってたくなる」
「そう?」
「可愛い」
 そんなことは――言いかけたとき、すっと右手が持ち上がり、手の甲にしめった柔らかな感触を感じて思わず視線がそちらに行く。ちゅう、と可愛らしい音を立てて口づけをすると、清麿は唇を押し当てながら、細めた目をこちらへ向けた。
 挑戦的で官能的な視線―—ドギマギと、妙な気持ちにさせるには十分で。
「ッ……あ、まあ、ありがと。で、そう。どこ行こうか?」
 今はそんな時間ではないのだと、必死に自分に言い聞かせ、審神者は懸命によこしまな考えを振り払おうとした。携帯端末を清麿に見せ、画面の候補地をいくつか提示する。
「次のお休み、晴れそうだから。景色がいいところに行くのも、」
 いいね、という声は喉の奥に消える。危うく変な声が出かけたわけは、右手の薬指に、やんわりと清麿が歯を立てたからだった。
「ちょっと清麿……」
「どこにしよっか」
 まるでそんな空気なんてなかったかのように、いつもと変わりない口調で彼は返してくる。それに翻弄されながらも、どうにかこうにか審神者は会話を続けようとした。
「えっと、だからつまり、」
「天気がいいなら、外歩きもいいね。天気が悪いなら、お部屋でのんびりしようか」
 ぐっと腰が抱き寄せられ、更に体同士が密着する。まるで流れるように清麿の額が審神者の首筋に触れる。ついと顔が動いて、首筋に唇が寄せられる。
「っっ……え、あの、ちょっと」
「可愛い」
 ふふ、と清麿が笑った。

 

 ――それから二人の唇が合わさるのに、そう長らくの時間はかからなかった。
 気づいたら、口づけあっていて。気づけば、唇を割って舌が侵入してきて。敏感なところをなめられて、力が抜けて。あっと声が漏れかけたところ、とうとう中まで入り込んだ舌が、舌と絡まり合って。
「舌、だして」
 まるで魔法のように――その言葉に従ってしまう。恥ずかしくないわけはないのだが、抗うという選択肢がなくて。
 おずおずと控えめに舌を出してみせると、清麿もまた舌を出した。誇示するみたいに、唾液の絡んだ舌を唇から垂らして、――なめとろうと舌を伸ばしてくる。
 伏し目がちの双眸には、はっきりと色情の色が見え隠れして。いっそのこと暴力的なほどにいやらしくて、咄嗟に舌をしまって顎を引こうとする。
「だーめ」
 逃げないで、と顎が掴まり固定され、唇が触れ合うほどの距離で窘められる。甘い囁きが脳をとろかす。
 舌、と低い声が催促すると、反射のように従っていた。
「いい子」
 熱い舌が、ねっとりと表面を撫でる。それだけで体の芯まで熱くなって、頭がぼんやりとしてくる。にゅるにゅると這い回ったかと思えば、舌ごと口に含まれてじゅうっと吸い付かれる。酸欠では言い表せないほどに酩酊し、思わず清麿の肩のあたりにしがみついた。
 荒い息を繰り返していると、こつんと額同士がぶつかった。
「ねぇ、」
 可憐なリップノイズを鳴らして、唇に軽いキスが。目を細めると、甘えるようにちゅうちゅうと押し付けては離れを繰り返し、止んだと思えば、くすくすと笑う声が耳に入った。
 ゆっくりと目を開けると、清麿は微笑んでいる。目を細めて、口角をゆったりとほころばせて。転瞬、その笑みに強烈な劣情が混じった。体の芯がうずき、きゅうっと熱を持つような。
 べ、と音がしそうなほど生々しい動きとともに、清麿の唇から舌が覗いた。
「君からも」
 何を求められているのか、一瞬意味が分からなくて目を見開いて――しかし唇を舐められたことで、意味を解す。
 カッと頬に熱気を感じ、咄嗟にそんなことはできないと拒絶しかける。が、はやくはやくと催促するように舌先で唇をツンツンとつつかれて、逃げ場などないことを悟る。
 見様見真似で舌を伸ばして――柔らかく熱く湿った舌に絡みついたとき、耐え難い衝撃が脳天から背筋を一直線に走り抜けた。アイスをなめとるように、あるいはそれよりも卑猥に激烈に、求めてしまう。絡め合った舌が気持ち良くてたまらなかった。
「んっ……ふ、」
 激しくて息が上がり、苦しさに鼻から声が抜ける。
 もはや気のせいでは済まされぬほどに、頭も体もくらくらとしていた。耐え切れず、思いっきり口で息を吸い込む。刹那、間髪を入れずに両頬が固定され、驚きに目を見張る間もなく、ふさぐようにして深々と口づけられた。
「っ……ひぃよ、あっ」
 顔を背けて一瞬だけ隙間ができた瞬間に、抗議の声を上げる。名を呼ぼうとして、まったく体裁をなさなかった。そんな声ごと食べられるみたいに、再び隙間なく埋められて。
 清麿が口づけに満足した頃、審神者は独力では座位さえ保持できないほどになっていた。
 彼に体を預け、やんわりとしがみつき、はふはふと浅い呼吸を繰り返す――忘我の境地でとろんとしていると、腰に回った腕に急に力がこもったのが分かった。
 一体なんだろうと緩慢に考える。かすかな浮遊感とともにゆっくりと視界が反転し、気づいたときには、天井を背に清麿の体が覆いかぶさっていた。
「……デートは?」
 なけなしのプライドを動員して聞いてみる。畳の上に放り出された手に、彼の両手がそっと絡みつく。すりすりと指先が手の甲を撫で、ぞぞぞと背筋に甘い衝撃が押し寄せる。
「やめる?」
 口元に浮かんだのは、意地の悪い笑み。聞かれているのはデートではなく、この行為のことだ。
 首筋に立て続けにキスが降ってきて、最後には鎖骨の真ん中にちゅーっと吸い付くような感触が。それが強くなり、しまいにはちくりとした痛みを伴って離れていった。
「痕、ついちゃった」
 指先でそれを撫でながら、清麿は目を細めて審神者を窺う。柔らかいくせにどこか強烈な、挑むような目つき。
 どうする? と低い声が問いかける。―—答えなど一つしかないと分かり切っていて聞いてくるのが、どこまでも卑怯でどこまでも意地が悪い。
 やめないでとは到底口にできなくて、その代わり、結んだ手に力を籠め――爪を立てるほどに強く握り返すことで、返答とした。

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