見慣れた校舎と、広い校庭。
じわじわとセミの大合唱がうるさい。――しかしそんな声も届かない、涼しい室内。
卒業前の、最後の夏だった。
「傑くん、ホッチキスの針なんて持ってないよねー」
ダメ元で尋ねた識に、雑誌を読んでいた夏油がふと顔を上げ、しばし中空に視線を巡らせて考え――持ってる、と返した。
「っえ、ホント?! よければ、すこーし借りたい」
「別に返さなくていいけど」
「えへへ、じゃあもらう~」
「ロッカーに入ってるから、勝手に取っていいよ。……下段の筆箱の中かな」
そんな言葉を受けて、識はいそいそと席を立ち、夏油のロッカーへと向かう。しつれいしまーす、なんて声をかけて開ける。
瞬間、識の顔の位置になんともファンシーなものが目に飛び込んだ。――透明のビニール袋に包まれたままの、ぬいぐるみ。
うすい水色で、つぶらな瞳。緑色の葉っぱの塊を抱えた、可愛らしい顔。
「っなにこれ~! イルカ……じゃないね。ジュゴン? マナティ? 可愛いっ!!」
識は思わず手を伸ばし、それを取り出した。
「傑くん、こんな可愛いのロッカーに忍ばせてたんだ」
よしよしと頭を撫でながら識が言うと、夏油は少しばかり目を見開いて――それからそっと視線を外した。
その、瞬間の。
憂いというか――悲哀というか。
(あの時は、なにも知らなかった)
興奮気味の識に、夏油は一拍遅れてから目を細め、口元に穏やかな笑みを浮かべてみせた。
どこかいつもとは違う笑い方だと。――その時は思った。だけだった。
「もしかして、疲れた時の癒しアイテム? 癒されるね~。可愛いもん」
「いや……。任務で遠出したときに、お土産で。渡そうと思って、渡しそびれてたんだ」
「へぇ~、誰に?」
誰かへのプレゼントと知って、そっとロッカーに戻した。
……そんな相手が居たんだ。
胸がつきんと痛んだが、努めて笑顔を作った。彼から見えてはいないけれども、ここで表情を暗くしたら、絶対に悟られると思ったから。
「……」
奇妙な沈黙が流れ、聞いてはまずいことだったかと、識はあたふたと動揺する。そうして筆箱からホッチキスの針を取りだした。
「っごめん、なんでもないよ。針、もらうね――」
「識。君に」
指先から、ころんとケースごと針が落ちる。
「……え……?」
識は茫然と呟き、恐る恐る振り返った。
夏油は小さく、落ちたよと言う。
その言葉に床へと視線をやり、ケースを拾う。
「ぬいぐるみ。識へのお土産」
再度そんな声が聞こえて、識は音がするほど――そうして髪が揺れるほどの勢いで振り返った。
夏油は笑っていた。どこか苦い――何かを押し殺すような表情で。
けれども、気づかなかった。
あの笑みの奥に、どんな形のどんな色のどんな重さが沈んでいたのか、知るよしもなかった。考えようとも、しなかった。
ただ、嬉しかったのだ。自分の勘違いだったことが。……自分へ向けられたものだったということが、嬉しくてたまらなくて。なにも考えられたなかった。
「っ……ほ、んとう?! え、厚かましく要求したみたいになっちゃった?! え、ごめん、」
「違うって。本当に、識へのお土産として買ってきたんだ。……硝子にも買ったんだけど、結局渡しそびれたな」
ぽつりと付け加えられた言葉を聞きながら、しかし識は舞い上がってしまう。そっとぬいぐるみを取って、抱きしめた。
「っっありがと!! 一生大事にするね!」
「それはありがたい」
分かりやすく浮かれ切った識だが、転瞬我に返り、――声を裏返らせた。
「っえ……っと、ちなみに硝子ちゃんには何買ったの? 灰皿とか?」
「入浴剤。任務のあとは世話になっているからな、少しでも体をいたわろうと思って」
「さっすが傑くん~、やさしい。今度硝子ちゃん、いつ来るかな? 前線の任務はないけど、引っ張りだこで大忙しだもんね」
「まあ、会えた時に渡すさ」
「硝子ちゃんも喜ぶと思う」
「……だといいな」
――その笑顔の奥に、なにがあったか。
「……夢か」
けたたましいアラーム音で目が覚め、識はぽつりとつぶやいた。
体も頭も気分も、何もかもが重い。指先に至っては、何枚かフィルムを張ったようなしびれ感があって、感覚が鈍い。
最悪な気分で、むっくりと体を起こす。
二度と戻れない、しあわせな記憶――。しかし……とある一点を切り取ると、後悔と罪悪感とに押しつぶされそうになる。
あの時は、知らなかった。――思い至らなかった。
マナティのぬいぐるみをどこで買ったか。どの任務だったのか。
沖縄。――そうしてその後、何があったのか。
「呆れたよね、……傑くんも」
ぽつりとつぶやいた声は、乾燥のせいかガラガラにひび割れている。
彼が何を経験したのかを知ったのは――ぬいぐるみを受け取った、何年も後のことだった。
『星漿体の殺害事件、……沖縄も経由したんだ。大移動だったんだな』
過去の事件のログを読んでいた時に、気づいた。
沖縄。
――渡せなかったお土産。
そこですべての合点がいった。
その前後では識も任務で忙しく、自身に起きた変化も著しく、……いや、そんなこと言い訳にならない。
彼が浮かべた一瞬の哀切。
どうしてあの時気づけなかったのだろう。気づいていたら、あんなに無神経なこと、言わなかったのに。
思い出すと、あの時の自分をぶん殴ってやりたくなる。
傑くんがどんな気持ちで――。
いまだに、あの時のことを謝れないでいる。……いつか謝りたい。けれども、謝る機会があるだろうか。
習慣で枕元に置いていた業務用の携帯端末に、メッセージの新着通知がある。――夏油傑。
今一番会いたくて、……会いたくなくて。そうして会えないその人。
『おはよう。
最近実験が忙しいようだが、ちゃんと休めているか?
私は研究室に顔を出せないが、代わりの者を派遣する。
なにかあれば、必ず言ってくれ。
私からも働きかける』
いつも通り、丁寧で気遣いにあふれた文体。
目の奥がかっと熱くなって視界が滲む。目を閉じて、噴き上げる激情をやり過ごすと――識は思い通りにならない指先で、返信を打った。
『おはよう。
私は大丈夫だよ。
傑くんも体に気を付けてね』
会いたい。……打ち込みかけて、やめる。
きっとそんなことを書けば、彼はすべての段取りも規則も破って、研究室に殴り込みに来るかもしれない。それくらい責任感が強くて、仲間思いで……優しい人だから。
それは限りなく嬉しい想像で――果てしないほどに、識を絶望的な気持ちにさせる。
『君の端末にはね、秋月君』
研究主任の、ねっとりと耳にこびりつくような声が再生されて、顔をしかめる。
『監視アプリを入れさせてもらってる。位置情報やSNSの会話や通話の内容、ぜーんぶこっちに筒抜けだよ。君は守秘義務が守れそうにないからね。もしもそうなったら、個人用の端末も取り上げさせてもらうよ』
調べたところそれらしいものは見当たらなかったが、最新のテクノロジーを使う研究室のことだ。不可視かつ、削除不能のものを仕込んでいるに違いない。きっと識の技術ではどうにもならないものだろう。
直接会って――とも考えたが、会う手段がない。完全に封じられてしまった。
『なんでこんな残酷なことをするんだって、思うだろ。でもこれも国のため、今後の呪術界のために必要なんだよ』
いやだ聞きたくない。
聞きたくないと耳をふさいでも、脳に植え込まれたみたいにその声が消えない。
――君は選ばれた礎なんだ。
――外事室の彼に言いつけてやろうなんて思っちゃだめだよ。君がこんな風になってると知ったら、彼はきっと怒り狂うだろうからね。
――知ってるよ、君。学生時代に『因果の線を無理矢理切って』後輩を助けたんだってね。その時の記録はちゃんと残ってるよ。君がどんな証言をしたかとか、逐一、全部ね。
――えーっと、なんだっけ。『夏油傑が呪術高専を離反する未来が見えた』んだってね。彼は大層後輩思いで、友達思いだからね。
――君がこんな非人道的な実験のモルモットになってると知れば、それこそ怒り狂って、僕たちを全員殺すかもしれないね。彼にはそうできるだけの力があるから。
――そうなれば、彼は大罪人だねぇ。せっかく君が変えた『未来』とやらもおじゃんだ。そうなってほしくはないよねぇ。
そんなこと、識自身が一番許せるはずがない。
命がけで守った未来だ。そんなこと、絶対に――。
『大丈夫だよ、ありがとう』
短くそう締めくくって、識は送信を完了させる。私用端末を置いて、のそのそと着替え始めた。
「……なにこれ」
洗面台の鏡に映った自分は、まるで別人のようにやつれて、生気がない。
「うけるー……」
お湯が出るのを待つのも面倒で。冷たい水で、顔を洗った。――指先が痺れるほどの痛みが襲ったが、それこそが生きている証のように思えて。識は、乾いた笑い声を上げた。
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