現代編 4 - 1/5

 ――今日という日を、どれだけ楽しみにしていたか。
 研究室で緻密に立てられたスケジュールを前倒しして、渋る研究主任と喧嘩して、脅して泣き落としてまで勝ち取った、完全休暇。
 実験のための術式行使は、識の心身に大小様々な負担をかける。ひどい時は寝込む事態にもなりうるし、実際倒れかけて医務室へ連行された。
 それでも翌日は無理をして実験を続け、完全なるオフ日をもぎ取ったのだった。
『あんた、バカ?』
 医務室で――。無理したことについては、夏油にもだが当然家入にも窘められた。しかし、
『まあ気持ちはわかる。もしかしたら朝帰りかもしれないしね、翌日は完全オフじゃなきゃね。ま、頑張りなよ』
 なんて冗談めかした応援をもらったが、それに激しく動揺したのは言うまでもない。
 そんな――まさかそこまでのことは、考えていなかったが。翌日のことを気にせずに楽しみたかったのは、本音だった。
 本当に楽しかった。
 途中でお開きになったのは悲しかったが、それでも――夏油がいた。彼とふたりきりになれるなんて思ってもみず、夢のようなひと時を思い返しては、心も表情もとろけてしまう。
 彼のすべての言葉が、心に、耳の奥に焼きついて離れない。
 彼の声、目線、……そうして触れた手。背中に回った腕。
 近づいたときに、ほのかに香った彼の匂い。思い出して、識は軽い悲鳴を上げてのたうち回った。
「いい匂いだった……」
 口元に手を当ててくぐもった声を出す。
 清涼で、けれども柔らかで、ほっとするような。気取った香水の香りではなく、柔軟剤の類のやさしい香り。洗いざらしたリネンのような、清潔でどこか暖かみのある……。
 恍惚のままぽすっとソファに倒れこ――もうとして、いそいそとコートを脱いでハンガーにかける。流れでなんとなく、出しっぱなしだった鏡の中を覗くと、ほんのりと頬を染めた自分が映った。
 変じゃないかな? 化粧崩れてないかな? 髪型は? すべて終わったあとなのに、今更ながらにそんなことをチェックする。きっと変ではなかった――と思いたい。
 家入にも褒められたし、自分でも入念に準備したつもりだ。最高に可愛い自分に武装して、今日という日を迎えた。
 けれども、彼を前にすると。どうしても引け目のようなもの感じてしまう。
 特級術師にして、外事室副室長という肩書を持つ、夏油傑。――術師としての技量も、組織の中での実力も、人望も、何もかも持った完璧な男。
 学生時代から、五条と並んで将来の呪術界を背負って立つ人間だともてはやされていたが、――実際に、彼の前にはそうした道が明確に続いている。
 かたや自分は、現場への出動もままならない、扱いづらい術師。一級術師という肩書はあれど、日々の大半は研究室に籠って、術式の解明に明け暮れるしか能がない。
 術式が解明されたところで――識は思う。代償の大きすぎる術だ、応用力もなければ運用が難しすぎる。『使えない』という判断にしかならないだろう。
『使えない』術師と、実務能力に長けた人望厚い特級術師。どう考えても、釣り合いが取れない。
 きっとそのうち、夏油は雲の上の人になるだろう。彼の隣には誰がいるだろう。……その時、自分は? 考えると胸が苦しくなる。
 何度も何回も、脳内でしてきたシミュレーションがある。順調に出世していった夏油と、ずっと研究棟に縛り付けられた自分。
 呪術界は古臭い因習にとらわれた世界だ、今はまだ免除されていたとしても、きっとそのうち「しかるべき相手を、」という話になるだろう。夏油傑というほどの男を、上も下も放っておきはしない。
 そもそも――夏油が、現場の術師から政治色の強い部署に進んだのは、意外というほかなかった。これは彼を知る人間なら誰しもが口をそろえて言う。五条も家入も、学生時代の恩師だって。
 彼が何を思って政治を選んだのかは、識にも分からない。けれども、単に権威や名声を求めたのではないということは、識にも分かる。
 しかしだからこそ――なにか大きな目的があるというのなら。そういう選択肢だって、あるのかもしれない。いつだって、完璧に正しい選択をする彼だから。
「……結婚式なんて呼ばれたら、死んじゃうなぁ」
 想像する。
 華やかな招待状には、夏油傑と女性の名前。
 御出席/御欠席の文字。
 随分迷った挙句に、御欠席と、御出席の「御」に訂正線を引いて、出席を丸で囲う自分。
 その日の夜はやけ酒だな。硝子ちゃんは付き合ってくれるかな。悟くんはどうだろう。朝までカラオケか、声が枯れるまで歌おう。
 そんなことを考えて涙ぐみかけて、
「っやだぁ~~~~!」
 力いっぱい叫び、壁に向かってクッションをぶん投げた。柔らかなクッションは、ぽすんと力なく跳ね返って床に落ちる。徒労感を覚え、識はため息を吐いた。
 どうにもならない――けれども、簡単に諦められるものでもない。
「いやでも、」
 識はソファから飛び起きた。飲み会の途中。五条と家入の言葉を反芻する。
『付き合ってんの?』
 傍目にそんな言葉が出てくるということは、そう見えなくもないということ。――確かに、五条や家入と違って、職務上夏油とは毎週、多い時でほぼ毎日顔を合わせることもある。意外とお互いの近況については知っている。学生時代からのアドバンテージも……。
 夏油の柔らかな声が、蘇る。
『私だって今日という日楽しみにしていたんだから、最後まで付き合ってほしい』
 いやあれは、気を使ってのセリフだろうか。
『私と悟、どっちがいいの』
 親友に負けたくないから?
『じゃあ私も『扱いづらく』なろうかな』
 これは一体、どういう意味の。……考えた瞬間、識の脳が処理落ちして止まった。
「……っないないない! 傑くん、ああ見えてお茶目さんだから。そういう……冗談、よく言うもん」
 ふうふうと荒い呼吸を繰り返し、識は長く深いため息を吐いた。胸中に広がる甘い疼きと高鳴りが、切ないけどいとおしい。
「傑くん、……好き」
 こんなこと、口が裂けたって言えない。しかし誰も見ていない今、我慢もできない。諦めきれない。
 ――でもきっと、週明け。研究室で顔を合わせた時には。
 何事もなかったように、同級生の術師で、外事室の管理を受ける研究員として、接するのだろう。近くて遠い。嬉しくて、寂しい。
 それでも、彼がいるから。
 肉体的にも精神的にもつらい実験に、秋月識は耐えられるのだった。

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