ずいぶんと暑い夏の日だった。
なにせじっとしていても汗ばむほどで、少しでも歩けば白衣も袴も汗でびしょびしょになるのではと危惧するような塩梅だった。
執務室を抜け出して外を歩くと、熱ばかり孕んだむっとしたにおいが喉を焼き胸をつまらせる。果てしない暑さに吐き気すら催すほど。そうでなくとも——審神者は大層立腹だった。
政府への要請が一切通らない。何かと理由を付けてはのらりくらりと交わされること、五度。今度の今度は我慢の限界だったのだ。
むしゃくしゃした気分がどうにも収まらない。こうなると、まったく関係のないことに対しても、どんな些末なことにさえも、すべてにおいてたまらないほどのイライラが募った。
暑いというだけで人は苛々するものだ。それを隠しもせずに、肩をいからせながらずんずんと歩いていると、自分のものではない別の足音が聞こえた。
立ち止まる。そうするとその足音も止んだ。
怪訝に思って振り返ると、数メートル後方ににっかり青江がいた。ついてきていたのは彼だったらしい。
何故ついてくるのかと尖った声で尋ねると、彼は飄々とした表情で声色で、君の姿が見えたからさと答えた。
少女の顔が曇る。この男士のつかみどころのない雰囲気が、審神者は苦手だった。
ついてくるなと言い置いて歩き出すと、しかしそれに反して後方からの足音はついてくる。もう一度振り向いて一睨みし威嚇するが、にっかりは肩を竦めるばかりで意に介した風もない。
それにますます苛立って走り出す——と、やはり背後の男士も走り出した。
意味が分からない! 気味が悪い! 最低最悪な気分だ! 腹立ちのあまりに「ああもう!」といらだった声を上げようとした瞬間、ふっと——
……周囲の風景が一変した……。
そこは見慣れた本丸の庭園ではなかった。
何もない、薄暗いような明るいような、ただただとにかく気味の悪い、そんなところだった。
なにが気味悪く感じるのかはさだかではない、だがしかし、審神者はそこを気味が悪いと感じたし、ここに居たくないと思った。
踵を返して歩き出そうとする、と、身体を後ろに向けた瞬間なにかにぶち当たって後ろに弾かれそうになった。
しかしそうならなかった。
衝撃に一瞬目を閉じて、目を見開く。そこにはにっかり青江の顔があった。
彼は薄金の瞳を細めて、大丈夫かと柔い声で問うた。
ここはどこだ。
一体なんなんだ。
疑問はあれど審神者の口からはついぞ一言も出てこなかった。異様な雰囲気にのまれて恐ろしいと感じていた、そんなさなかに、少なくとも見知った存在があって安堵したのだ。
しかしほっとしたのも束の間、審神者は更に異様な事に気づいた。
にっかり青江が口を開いている。恐らくと何か喋っている。しかしその声が聞こえない。
彼の声は聞き飽きるほどに知っているというのに、しかしその聞きなれた声が一切鼓膜を振るわせることがない。
妙な具合だった。
彼の声は少しも聞こえない。それなのに、耳に入ってくるのはたくさんの——声。
声にならぬ声。
言葉にならぬ声。或いは怨嗟の声、憎悪の声、羨望、嫉妬、悔恨、苦悶、……地獄の釜の蓋というものを開けたら、こんな声がこだましているのだろうか。
そんな声という声が脳裏に飛び込んでやまない。
目の前でにっかり青江はしきりに唇を開閉させて何らかの言葉を紡いでいる、しかし何も聞こえてこない。
——怖い。魂が揺さぶられる。魂が引きずり出されようとするような、そんな不安と恐怖。
声が、声が脳裏に響く。
声が、声を届ける。
声が、見知らぬ映像を紡ぐ。
亡者が集い救いを求めて手を伸ばす、そんな恐ろしげな絵面——。
手が、手が伸びる。
無数の手が。折り重なるようにして、手が。
一斉に向けられたそれが、何千、何万、何億……蠢き、ひしめき、……怖気の走るような光景だった。
飲み込まれる。
声がもうすぐそばに迫っている。
亡者がすぐそこにやってきている。
腐敗したようなにおいが鼻をつく。
……息も出来ずに、口を大きく開けて瞠目した審神者の前で、にっかり青江が手を持ち上げた。手袋に包まれたその掌が、やんわりと審神者の耳元を、塞ぐ。
ほのかな温もりが耳朶を撫で、優しく圧迫して覆い隠した、その刹那。
ふっと。
ひとまず声が消えた。映像も消えた。鼻を衝く異臭も、なくなった。
大丈夫だ、とにっかり青江が言った、その声も掌越しに耳に入った。
やんわりと耳を覆い隠されたまま、じわじわとその、昏いような明るいような、気味の悪い得体のしれない世界が急速に遠ざかっていった。そうしてほどなくして、見慣れた本丸の庭園が視界の端に映った。
にっかりの手が離れていく。
一拍遅れて、世界の音が聴覚に反映された。アブラゼミの大合唱。
肌を焼く紫外線の熱さ。夏の、本丸のにおい。それらは全て、彼女の見慣れたもののすべてだった。
盆だからね、とにっかり青江が言った。
その唇は面白おかしくゆったりと弧を描いていた。
君はとても美味しそうだから、ひかれてしまったんだろうね。にっかりは冗談とも本気ともつかぬ口調で続けた。
そんな彼を、審神者は目を見開いて茫然と見つめている。
何故だか、見知ったはずの彼がまるで違うもののように映ってならなかったのである。
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