呪術総監局 対外戦術局 外部特異事案対策室――通称、外事室。
呪術界の対外リスク管理を一手に担う、最前線の外交・公安組織だ。その業務は多岐にわたり、対呪詛師危機管理、他国・他勢力との情報連携、国内の『異端戦力』管理などがあげられる。よく言えば、内外に渡る連絡・調整員、悪しざまに言えば、呪術界の『都合の良い処理装置』。
汚れ仕事は任務と言い換えられ、見なかったことにしてほしい真実は機密に分類される。
都政のために動けば政治の狗、結界のために動けば天元の狗──外事室とはつまるところ、誰かの都合のために走り回る部門だった。
しかし、その中にひとりだけ『組織仕様ではない』人物がいた。
夏油傑が外事室配属となって四年、補佐役を経て副室長に就任してから二年。政治色の強いこの部署に、現場経験数年で配属されるのも異例だったが、三十よりも前に副室長に昇進するというのはもはや奇跡と称された。
その裏には、特級術師としての期待もあったのだろう。政治も知らぬ現場風情がとやっかむ声ももちろんあったが、そんなものに興味はないし、羨望も嫉妬もすべてはノイズでしかない。
本来夏油傑という男は、政治的な駆け引きや騙し合い、腹の探り合いを好まない性質である。政治の中枢に自ら食い込んでいくなど、彼を知る人からすれば「まさか」と驚くだろう。
しかし守るためには、上り詰めるしかなかった。そうして、それもまだ道半ばだ。まだまだ足りない。守りたいものを守るためには。
起床のアラームとともに目覚め、身支度を開始する。
日々の睡眠時間は長くても四時間、短い日は一時間半――そんな生活がもう何年も続いている。殺人的な忙しさでも、目的のためにはやるしかない。
その使命感だけが、夏油傑を突き動かしているのだった。
外事室の朝は、静かで重たい。
特級術師の執務室とは思えないほど狭い部屋で、夏油傑は報告書を一枚ずつめくっていた。
読み飛ばしても問題のない定例資料の下に、一枚だけ――やけに重いものが挟まっている。
「識の術式反応か。……昨日より増えている」
研究棟から届いた最新のログ。
『中因果』三連続、その後の血中呪力濃度の低下。記憶の混濁。
数字は淡々としているのに、夏油の胸には冷たいものがひやりと流れ込む。――いつぞやの記憶がフラッシュバックする。
微笑んだ次の瞬間に、倒れた姿。白い唇と、上下しない胸。
記憶飛んじゃったと笑う声が、胸に刺さって、耳に焼き付いて、離れない。
――そこに、ノックもなく扉が開いた。
「失礼します、副室長。結界管理局より書簡が」
外事室の若い女性職員が、恐る恐る封筒を差し出す。
受け取って目を通した瞬間、夏油の眉根がぴくりと動いた。
「……原本提出の再要求、か。昨日断ったはずだろう」
「それが……臨時審査を行うので、今日中に、と」
臨時審査。
実質、識の術式を政治卓に載せるという宣告だ。
背中にいやな汗が伝う。
研究棟でも結界管理局でも、識の術式は特級レベルの『危険物』としてのみ認識されている。しかし、危険物もうまく運用すれば便利な兵器となりうる。
否、呪術界のいやなところはそれだけではない。――術式が特殊であればあるほど、『保存』し『繁栄』させようとする。そこに当人の意思など存在していないかのように。
そんなことが、許されるはずがない――。
「分かった。会議室に行く」
夏油は封筒を胸元に押し当て、立ち上がった。
外事室の会議室は、研究棟よりも空気が冷たい。
机の向こうに座るのは室長・芦屋、その隣に結界管理局の分析官。全員が無表情でそこにいる。まるで、感情の存在を許されぬかのようだ。
「夏油副室長。昨日の件は聞き及んでいます」
芦屋の声はひどく冷たい。
「あなたが研究運用規定を無視し、実験を中断した。事実ですね?」
「彼女の体調が限界だった。続行すれば危険、……」
「根拠は?」
芦屋の視線は、夏油の心の奥まで値踏みするように冷たかった。
「……呪力の流れ。痛覚の反応。識の術式は、」
「だから、何度も言っています。あなた個人の『感覚』で止める権限は無いと」
言葉が、刃のように静かに突き刺さる。
横から、結界管理局の分析官が淡々と口を開いた。
「外事室はあくまで『運用監督』です。被験者の保護は任務の一つですが、研究棟の審査権限にまでは及ばない。認識の徹底をお願いします」
「……被験者、か」
その単語が、夏油の中で重く沈む。
識は被験者などではない。
同級生で、友人で、守るべき存在で。
十年前のあの日――己が選択を誤らなければ、ここに縛りつけられることはなかった。
胸に刺さって消えない旧傷が、じわりと疼いた。
「夏油副室長。結界管理局はあなたに原本提出を求めています。黒塗り報告では信用に足らないそうですよ」
夏油は顔を上げた。
「結界管理局が原本を持てば、秋月識の術式は――」
「評価対象になるだけでしょう。危険度判定を行うのは、当然の職務です」
当然。
その言葉ほど、夏油を苛立たせるものはない。
識の生活も、自由も、記憶も、未来も。すべて『当然』の一言で削られていく。
ふいに、指先がかすかに震えた。
封筒がしわになり、低い音を立てる。
芦屋が目を細めた。
「夏油副室長。あなたは優秀です。しかし、――」
そこからの言葉は、まるで処刑宣告のように冷たかった。
「個人的な情で職務を歪めるなら、あなたを監督術師から外すことも検討しなければなりません」
会議室の空気が凍りつく。
夏油は、静かに瞼を閉じた。
守りたい。
だが、守り方を誤れば――識はもっと深い闇に沈む。
政治の前で、術師としての強さなど無力だ。まるでなんの役にも立たない。
特級であることは、権力の前ではただの肩書きにすぎない。
「……承知した」
なんとか絞り出した声は、驚くほど低く乾いていた。
その言葉が、己の敗北を意味すると分かっていたからこそ。
『評価対象になるだけでしょう』
それがどういう意味を持つのか。術式がただただ危険と認定されれば、今以上に彼女の自由は制限される。危険でも有用と判定されれば――その先は考えたくない。
芦屋の冷たい視線と結界管理局の言葉が、いつまでも頭を離れなかった。
まるで鉛を飲んだように重い気分のまま執務をこなし、気がつけば同期会の集合時間近くになっていた。
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