夏油傑、特級術師にして外事室副室長。
術師としても管理職としても、仕事の出来は非常に良く、どこにも隙がないように見える。しかし一つだけ穴があるとするなら――それは、「遊びを知らない」ということだろうか。
高専卒業後、すぐに特級術師として現場で数多くの任務をこなし、数年後には外事室への赴任が決まった彼は、そのほとんどをひたむきなまでに「仕事」に捧げてきた。今現在もそう。
それゆえ急遽、好きな女性と飲みに行くということになると――非常に困るわけだ。あまり店を知らない。ましてや、デートに使えるような馴染みの店を知らない。そんなもの、存在しない。
夏油はしかし、知識と記憶を総動員して場所を探した。
そうして、いつぞや――現場任務に出た際、一緒に組んだ感じのいい術師に教えてもらった、オーセンティックバーをチョイスした。
かろうじて店名を覚えていたからネット検索し、現在営業中なことを確認してから、こっそりと電話で予約を入れる。お待ちしております、と気さくな返事が返ってきたことに、夏油は心底から安堵した。
とはいえ、――肝心の識は、一軒目を出てからずっと様子がおかしい。
「前のお店、エビのあれがおいしかったなー。脱皮エビ? 塩で焼いただけなのに、あんなにおいしいなんて反則だね」
「傑くんも硝子ちゃんも、お酒飲んでも全然顔色変わらないよね。羨ましい。私、顔どころか腕やお腹まで赤くなっちゃうんだ。悟くんは顔色変わらないけど、明らかに挙動がおかしいもんね」
「それにしても、ちゃんとコートが着れる気温でよかった~。冷えるね。お酒飲んだせいかな、寒くなっちゃった」
矢継ぎ早に言葉を紡ぎ、そうしてその話題は脈絡なく次々に変わっていく。――さっきからずんずんと歩いていくが、道順は知らない様子。それなのにさっさと歩くものだから、何度も夏油からの訂正が入る。
「次のところ、右」
「っ……え、あ。うん。……ってごめん、道も分からないのに適当に歩いて」
夏油の柔らかい言葉に、識は立ち止まって我に返り、目を閉じた。ふーっと、深呼吸をひとつ。
そうしてどこまでも気まずそうに、夏油を見上げる。
「傑くんに、ついて行く。ね」
「そうしてくれると助かる」
そこから先、識は極端に無口になった。
すぐ隣を歩く彼女を、夏油はそっと見下ろす。歩くたびにふわふわと揺れる髪。コートの袖口からは、きゅっと握りしめられたこぶしが覗く。手を伸ばせば捕まえられる距離。けれども、手を伸ばす理由がない。
そうしたとき、お店の看板が見えてきた。
無事にたどり着いたことにほっとしながら、夏油は識を案内する。店舗は地下にある。そこへ続く階段が、恐ろしいほどの急こう配だったことは記憶している。
「地下に降りる。階段、急だから気をつけて」
「うん。……っとわぁ!」
頷いた直後、思ったより段差が大きかったことに驚いたようで、識が素っ頓狂な声を上げる。ふらついた体を、夏油は危なげなく支えた。――瞬間、ふわりと柔らかな芳香がして、夏油はぐっと息をのむ。足元がふらついた気がしたのは、アルコールのせいと言い聞かせる。
「踏み外すと危ないから。つかまって」
「っ……あー、ありがとう。では、遠慮なく」
さほど広くはない階段、ふたり並んで慎重に降りる。
識は夏油の腕の当たりをつかんで、夏油は彼女の肩のあたりを支える。触れたところから――まるで、燃えるように熱い。
階段が終わると、夏油はするりと肩から手を外した。識もまた、すっと手をほどいて離れていく。一抹の名残惜しさを覚えながら、ドアを開く。
店の扉をくぐった瞬間、空気が変わった。
わずかにオーク樽の香りが混じる、低い照明に照らされた琥珀色の空間。壁一面の棚には、なんと発音するかも知らない外国のウイスキーが並び、ラベルの金文字がほのかに光を返す。
天井はむき出しのコンクリートで、余計な装飾は一つもない。その無骨さと、磨き込まれた木のカウンターの温もりが、奇妙な調和をつくっている。
店内の客たちはみな声を潜め、グラスの触れ合う小さな音だけが、かすかに聞こえる。
外の世界のざわめきは、一歩踏み込んだ瞬間に断ち切られる。
まるでここだけ、時間がゆっくり流れているようだった。
「いらっしゃいませ」
出迎えたのは、いかにも気の利きそうな女性のバーテンダーだった。名乗ると、奥のほうへと通される。コースターとおしぼりが置いてあった。
「コート、お預かりしますね」
店員がにこやかに声をかけ、二人分のコートを預かる。
店員が引っ込むと、識は借りてきた猫のように静かにスツールに座り、ちらりと夏油を見つめた。
「すっごいおしゃれ。……傑くんの行きつけ?」
どこか伺うような視線に、夏油は苦笑を返した。
「だといいんだけどね」
「違うの?」
「一度来たことがある程度さ。でも、雰囲気が良かったのを覚えてたから」
「そっか。……傑くん超忙しいもんね。遊んでる暇なんてないよね」
どこか気づかわしげな様子で言った識に、夏油は――口をつぐんだ。
そっちは、なんて。聞かなくとも、彼女が余暇時間を楽しんでいる余裕がないことが、分かっている。
最近は特にだ。――それこそ、彼女が時間を捻出するために無茶をする程度には。
思い出すと腹が立つようで、夏油は必死に考えを逸らした。今はもっと大事なことが目の前にある。
――引導を渡せ、とは言われたものの。
夏油は思い悩んだ。
お互いになんとなく憎からず思いあっているという、現状。この曖昧なままではダメなのだろうか。
彼の中で、識が好きなことと、彼女を守っていくという思いは変わらない。たとえ十年経って、二十年経ってもそうだろう。そのために自分「らしくない」選択までして、生き方を変えた。
識だってそうだろう――。
いかに夏油が恋愛に関して不慣れとはいえ、彼女から向けられる感情が、五条へのそれと同一だとは思わない。そこに特別なものがあるのは、分かっている。……それでは、ダメなのだろうか。
確かに、家入の懸念は分かる。
古臭い呪術師の界隈だ、夏油も識も(そうして家入も五条も)結婚を急がされるというのは多々あることだ。とはいえ、夏油も識も一家相伝の術式ではない。
特に、識は希少な術式だが、おそらく遺伝性はないと思われる。血筋を残せという圧は、少なくとも五条よりはないはずだ。
さらに夏油は考える。言葉を咀嚼する。――押しに弱い、という硝子の言葉が思い出される。確かに、そういった一面があることも知っている。
識は通常、術式の特殊性ゆえに任務への出動要請がほとんどなく、日々、研究棟に詰めるばかりだ。研究者たちが被験者となる術師に向ける視線は冷淡で、何かが始まる気配もないと言い切れる。……冷遇こそされど。
しかし――ひとたび、出会ってしまえば。
識には運命の線が見える。その線で結ばれた人間が、現れたとするなら。彼女は運命を選び取るだろうか。
識が自分の前から去る――考えもしなかったことだ。
一体なぜ。
秋月識が自分の前から去るなんて、到底あり得ないことだと思っていたのだろうか。なぜそこまで、傲慢で思い上がったことを考えらえたのか、ちょっと自分でも意味が分からない。
夏油が深刻そうに頭を抱えそうになった時だ。
「傑くん、」
控えめな声がかかって、夏油の意識が浮上する。はっとして視線を向けると、識は苦く笑ってみせた。
「なんだか、ごめんね」
その謝罪の意味が、夏油には分からない。
なにかされただろうか。特に何もされてない。
しかし識は、夏油には到底理解できないことを、到底理解できないプロセスで申し訳なく思うたちだから。聞いてみるまで分からない。
「何に対する?」
夏油が穏やかに問うと、識はそっと視線をずらした。
「私のわがままにつき合わせちゃって、ごめんなさいってこと」
どこか寂しそうな言葉に、夏油は息を飲んだ。
識は続ける。
「悟くんは……気を利かせてああ言ってくれたけど、明日も早いでしょ。電話もかかってきてたみたいだし。傑くんが忙しいのは、よく分かってるから。……私はひとりでも、大丈夫だよ」
その言葉を何度も口内で復唱し、……何度目かで夏油は意味を理解した。
つまり――無理して付き合ってくれたんでしょ、だからもう帰っていいよ。識はそんな風に感じているらしい。
そんなことを、思わせてしまっただなんて。――彼女の胸中を慮ると、夏油の中に叫びだしたいような衝動が生まれる。そんなこと絶対にないのに。そんなこと、是が非でもありえないのに。
大丈夫なときに、大丈夫なんて言わない。大丈夫じゃないからこそ、大丈夫と言い聞かせて大丈夫にする。これまでも、そうやって彼女は耐え続けてきた。
笑ってはいるが、それが作り笑いであることなど明白で。いつか見たようなその笑顔が、痛くて切なくて、……しかし、狂おしいほどに。
守りたい、守らねばと。夏油に強く言い聞かせるのは、こうした彼女の言動にあった。
頭を殴られたような衝撃を受けつつも、夏油は懸命に言葉を飲みこんだ。
そんなことあるはずがないと。感情的にぶちまけそうになって、こぶしを握り締めてやり過ごす。
どうして伝わらないのか。……伝えようとしてないから。
すべて自分が悪いから、仕方がない。
不甲斐ない自分を責め立てる気持ちを、どうにかこうにかやり過ごし、夏油は水を一口ふくんだ。アルコールか怒りかで、熱されすぎた頭を冷やすように。
「……識が実験で無茶をしたように、」
夏油が穏やかに言の葉を紡ぐと、識はゆっくりとこちらに視線を向けた。
目が合うと、夏油はつとめて微笑んでみせる。虚勢だ。自嘲したみっともない男の姿など、彼女に見られたくない。
「私も仕事を随分と前倒ししたんだ。私だって今日という日楽しみにしていたんだから、最後まで付き合ってほしい」
そっと。まるで壊れ物を扱うように柔らかく言った夏油に、識はしばらくきょとんとしてみせた。
二度三度瞬きを繰り返し――最後には、そーっと顔を背けてうつむいた。
「どうした?」
いぶかる夏油に、識は肩を震わせた。
そうしてやっと紡いだ言葉とは、
「は、……反則だよ……」
非常かすれていた。
「反則?」
「悟くんも傑くんも、自分の顔面偏差値がナンボか自覚してない……! その波及効果について一切考慮がない……!!」
やっとのことで言ってのけた識に、夏油もまたぽかんとしたが――言いたいことを理解し、複雑な表情になる。
要するに容姿を褒められているということだが、どうにも――そこで五条と並べられるのは、ちょっとだけ面白くない。ちょっとだけ。
識の素直さは分かっている。
いいと感じたものには、まっすぐな評価をする。そこに、友人に対する照れくささや恥じらいがないというのも。
事実、五条悟という夏油にとって無二の友人を、彼女がそう評価するのも分かる。分かるのだが――そこは、夏油の繊細な男心にも直結する部分だ。
「ふーん。そう」
口から出たのは、あまりにもそっけない声だった。
それを聞いて、識はぴくりと背筋を揺らし、恐る恐ると言ったように夏油を振り返る。その胸中を言葉にするならこうだろう、褒めたのになんで?
あまりにも心のうちが読めすぎる素直さと無防備さが、夏油のいたずら心と負けず嫌いに火をつけた。
カウンターに頬杖を突くと、識にじっくりと視線を寄せる。
これから何を言われるのだろうと、彼女はどこまでもどぎまぎとした様子で窺ってくる。
「で、識は――」
夏油は半眼で問いかける。
「私と悟、どっちがいいの」
「っ……え?!!」
識は目を見開いてのけぞり、勢い余ってひっくり返りそうになった。とはいえ、そこは術師。現場任務は少なくなったとはいえ、ちゃんと体は鍛えているようで、しっかりとカウンターにつかまって事なきを得た。
「ぬぇっ……な、ななな、なんで、」
「単純に。気になっただけさ」
「そっ……そんな……。どっちがいいとか、悪いとか……」
「識はよく、悟に『顔面まで特級だ』って褒めてるね」
「いやっ! それは違くて、……だって悟くんは褒めると扱いやすいっていうか、」
「なるほど。じゃあ私も『扱いづらく』なろうかな」
「ええええっ!」
意地の悪い夏油の言葉に、識は再びスツールから転がり落ちそうなほどに慌てる。
「冗談だよ。問題児が二人もいたら大変だ」
彼女の体の横、触れない程度に腕を添えてやると、識は夏油の戯れに、むうと唇を引き結んで目を逸らしてみせる。
大丈夫だからとでも言うように。夏油の腕から逃げるように、くるりと体の向きを変えて座りなおすと、硝子のコップを手に取って口元を隠す。
かすかな、一呼吸が揺れたかと思えば。
「……すぐるくん」
長い沈黙の後、聞こえるか聞こえないか、ぎりぎりのかすかな声で彼女は答えた。
恥じらいをたたえた横顔のラインと、耳まで赤く染まった肌。伏し目がちの瞼と震えるまつ毛。それらすべてを目に焼きつけて、夏油は目を細めた。
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