――血液データ、心拍数、基礎代謝・睡眠時の消費エネルギー
――呪力回路の『濁り』の定量化
――自律神経の乱れ
医務課秋月識という『被験者』に関する、数週間前と――直近のデータ比較だ。
明らかにおかしなグラフの線を見て、家入硝子は顔をしかめている。
「硝子ー。来たよ」
そうしたとき、長身をかがめながらのっそりと顔を出した男がいる。誰もが知る特級呪術師、五条悟だった。
「遅い」
家入が苛立ちながら言うと、ごめんとこの男にしては珍しく本気のトーンで詫びる。それ以上言えなくなって、家入はいらだち交じりに新しいタバコに火をつけた。
「それ、見て。識の数週間前と、直近データの比較。項目は画面見て」
五条はパソコンのモニタを覗き込んで、鼻で笑う。
「わーお。数週間前からもろもろの数値はがっつり下がって……直近は健康二重丸って? んなバカなデータがどこにあるよ。こんなの素人にだってわかる」
馬鹿にしてんのか。五条の声は、底冷えがするほどに冷たくとがっている。
「それで騙せると思ってんのよ、バカどもは。……あとこっちも」
次に提示したのは、研究棟で使用されている薬剤のログだ。こちらは、少々非合法なルートから仕入れさせてもらったもの。
「なにこれ。ドル……ミ……カム? 何の薬」
「鎮静に使う薬だ。胃カメラ飲んだ時、ぼーっとなる薬使ったことない?」
「あー、あれ。……んで研究棟のバカどもは、なーんで識ちゃんにそんなもん使ってんの」
五条はすでに、鎮静剤を識に使っているものとして話を進めている。一応家入は補足を入れた。
「今、研究棟で術式の研究をしている術師は、識ひとりだけ。鎮静剤は識に使用しているものと仮定して、まず間違いない」
「んなこと承知ずみ。硝子がなんの確証もなく、こんなデータ入手するわけないっしょ。これ、結構ヤバイデータじゃないの」
信頼しきった五条の様子に、家入は眉を寄せて目を逸らした。
「まだあるよ。……これは結構前のだけど、識が倒れて医務室に運び込まれたときの問診表」
クリアファイルごと五条に渡すと、彼はそれを見て、乾いた笑い声をあげた。
「まあまあ、がったがたの字。止め・ハネ・払いなし。達筆な方なのにね、あの子」
「あとはこれ、……夏油の直近の勤務状況」
「呪詛師案件、呪詛師案件、会議会議会議、……。……いやこれ、全部傑が行くような案件かぁ?」
「五条」
静かな家入の声に、五条はかすかに頷いた。
「わーってる。……ていうか、今しがた識に会った」
五条の言葉に、家入はかっと目を見開いた。
「識は?!」
いきなり口を開いたせいで、タバコが床に落ちかけて――五条の無下限呪術で事なきを得る。
「あっぶねえ。……結論から言うと、空元気MAX。ありゃ体重もそうとう落ちてるな。体支えた時、紙みてえに薄かった。筋力も体力もだな。ちょっとの距離を全力疾走して、死にそうなくらい疲弊してた」
「クソどもが……」
ドン、と鈍い音を立てて家入のこぶしが机をたたく。ぎり、と奥歯を噛みしめ――激情をやり過ごす家入を、五条は静かに見つめている。
家入がゆっくりと顔を上げると、五条はゆっくりと言葉を紡ぐ。
「……傑からもらったぬいぐるみを、託された」
「それって……マナティの?」
――傑くんからもらったんだ。
識の部屋を訪れた時、嬉しそうに言った彼女の姿が目に浮かぶ。目を見開いた家入に、五条は納得づくで言葉をつづけた。
「知ってたのか。しかも、傑くんを頼む、みたいな遺言めいた言葉まで」
「夏油、知ってんの?」
間髪入れずに言葉を挟む家入に、五条はしばし沈黙した。
「……知らねえと思う。知ってたら、」
「研究棟の奴ら、皆殺しだな」
皮肉めいた笑みを浮かべる家入に、五条もまた口元をゆがめてみせる。
「違いねえ。……ま、そこまでの無茶はしなくとも、使えるもん全部使って抗議するだろ、あいつなら」
「夏油……いや、外事室まで欺くなんて」
――大きなものが、確実に動いている。
家入の視線が動く。しかし五条はかぶりを振った。
「いや、……状況が状況だ。上は傑から識を隠したがってる。確実な証拠がそろってからじゃねえと、あいつも混乱するだろ。それこそ皆殺しルートだ。それだけは避けたい」
「……悪い。少し感情的になりすぎた」
かすかに恥じ入る家入に、五条はふっと軽く笑った。
「ま、親友がこんななってたら、誰でもキレるっしょ。……俺もだよ」
家入はしばし、開け放った窓に向かってタバコをふかしてから――もみ消した。
「……私は、生体データの方をもっと洗ってみる」
「っていうと?」
「今取れるデータは全部改ざんしてあるものだけど、だからこそ穴がある。本来の識のデータと、あまりに乖離しすぎている。偽装の証明をするってこと」
「なるほど。これは硝子じゃないとできないね」
「あとは、研究棟の医者や看護師、薬剤師の方にも探りを入れてみる。末端レベルでも、たぶん何かしらつかめると思う」
「いいね。でも無理すんなよ」
「そっちこそ」
クールに返した家入に、五条はにっと口元だけで笑ってみせた。
「ま、大暴れは傑の出番に残しとくとして。僕は五条家のパゥワーと特級術師としての権限、フル活用させてもらうよ」
さすがの上層部とて、五条悟からの圧を完全無視はできないだろう。――使えるものはなんでも使う。力は使いどころを見極めてこそだ。
「まずは傑をなんとかしなきゃな。……あいつが動けないと、何もできねえ」
「頼む」
「頼まれた」
短い挨拶を終えると、五条は何事もなかったかのように医務室を去って行った。
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