何かが起きている。
上層部をも巻き込んだ――否、上層部主体か――とにかく、大きな流れのるつぼに、識がいる。冷たく濁った濁流に、しかし懸命に流されまいと爪を立てて、彼女は必死に抗っている。
果たして、と五条は思った。
要点は一つ。その濁流に翻弄されている状況が、彼女にとって本意なのか否かだ。
すべて納得づくであるというのなら、五条や家入が焦って手を出しても無駄だ。むしろ徒労。何の意味もない。
(あの頃とは違う)
なんの権限もなく、なにも知らなかった学生時代ならともかく、識も自分たちも全員がとっくに成人し、自分で考え決定し、行動できる大人だ。何も知らされず、大人に翻弄されるしかなかったあの頃とは違う。
(識が、自分の意思で従っているというなら……)
五条の中の冷静な自分が、一瞬待ったをかける。
すでに、家入は何かに気づき動き出している。――徹底したリアリストでクールすぎるほどにクールな彼女だが、高専時代からの友人が絡むとなると、熱くなってしまうところもある。彼女自身も、そうした自覚があるように。
(しかし、研究棟の動きは明らかにクロだ)
本人の同意があるなら、わざわざデータを改ざんする必要はない。しかも、術師を研究する以上は倫理というものが優先されるべきだから、生体データという、術師の安全に直結する資料の改ざんは到底許されざることだ。
(こんなことは、研究棟の独断で出来るはずがねえ。必ず上が絡んでいる)
そもそも――五条は知っている。
術師にふさわしからぬほど、正義だとか誠実といった道徳を重んずる、秋月識という人間の性を。彼女を知っているなら、こうした不正に関与するはずがないとすぐに分かる。
(傑にも言えねえってことは、……何かを質草に取られてる可能性もあるか)
審議の結果、結論はやはり変わらない。
――データログの改ざんに、薬物投与。
(ねんねさせないと出来ねえようなこと、やってんのかよ)
これまで、識が研究棟でどんな実験をしてきたか、五条は断片的にしか知らない。
伝え聞いたところによると、特異術式の解明という崇高な目的があるようだが、内実はいたずらに彼女に術式を行使させ、疲弊させるというだけのもの。少なくとも、五条の判断ではそれに尽きる。
彼の六眼にも、彼女の術式は一切分析できない。
分かっているのは、自身をもしのぐかもしれない膨大な呪力を有していながら、それが内側で完結し、ほとんど漏出しないこと。
その膨大な呪力はしかし、呪力操作にほとんど転用できないということ。
彼女の『観測』した『因果の線』には、彼女の呪力が流れ、それは六眼を通すと視認できるということ。しかし干渉はできない。その権限は識しか有しない。
彼女が『因果の線』に干渉すると、大小問わずさまざまな『結果』の書き換えができるということ。無論、『結果』のもたらす影響の深度に応じて、代償は著しく跳ね上がるが。――過去、それで識は死にかけたことがある。
未来の書き換えができると言い換えるなら、それはもはや神の領域だ。このような術式は、古今東西類をまるで見ない。もはや、呪術と呼べるかどうかも怪しい。
危ういとは、五条も常々思っていた。五条だけでない。夏油も、家入も、夜蛾も……彼女を見守る全員が。いつかこうした未来が来るのではないかと、危惧していた。
それが今、現実になっている。
『マジか。お前、外事室行くの? あそこ、後処理と政治のオンパレードじゃん。しかも数少ない特級術師、絶対並行して現場任務にも駆り出されんだろ。過労で死ぬぞ』
数年前――夏油が、外部特異事案対策室に引き抜かれたと知ったとき、五条はやんわりと止めた。
能力はあると思ったが、彼の性格的に合わないと思ったから。
夏油傑はやさしい。
しかし決して甘いわけではない。
責任感が強すぎるほどに強く、なんでも一人で背負いこんでしまう。背負いこんでしまえるだけの器がある。そしていつだって、人一倍『正しい』目を持っている。
そんな彼が、汚い政治や腹の探り合いには、疲弊しきってしまうのが目に見えていた。――そうはなってほしくないと、思った。
しかし夏油の考えは違った。
『確かに合わないかもしれないが、それでも……。一術師ではできることに限りがある。いや、あまりにも少なすぎる。私がしたいことをやり遂げるためには、力が必要なんだ。そのためには、汚いことも似合わないこともすると決めたんだ』
あまりにもまっすぐな、純粋すぎる思いがそこにあって。
明言こそはしなかったが、彼のやりたいことというのはすぐに分かった。そのためには、呪術界そのものを変え得るほどの力が必要であることも。
――学生時代から、彼が誰を思い、誰を見続けてきたか。
その思いの深さと誠実さに、五条は眩しさを感じてならなかった。
『傑……。ハゲるかもね』
『失礼だな。私の家系は全員フサフサだよ』
どこかむず痒くなって思わず茶化した五条に、しかし夏油は笑って返した。
高専卒業後、術師として適当に任務を受けていた五条が、高専で教鞭を取るきっかけとなったのは――夏油との会話がきっかけだった。本人にも誰にも、死んでも言わないが。
守りたいものを守るために戦う。人生で大きな意義を見つけた彼が、どこか羨ましくて、――あるいは、そんな彼を後押ししたい気持ちもあって。
強い仲間を育てたいと思った。彼の思想に賛同する、強い仲間を。
『人間、いつ死ぬかなんてわかんないでしょ』
儚い彼女の声が、かすかに聞こえた。――ふざけんな。
(お前が死んだら元も子もねえだろ。傑、闇落ちすんぞ)
身勝手な言葉に眉をしかめ、五条はかすかに舌打ちした。
しかし、怒るべきはそこじゃない。彼女にそんなことを言わせている諸悪の根源だ。
何が起きているかは分からない。
けれども、何らかの力が彼女を搾取しているということだけは、分かっている。
何かを諦めた、識の顔。――術式の影響なのか、もともとの性格なのか。まるで世界の裏側まで見てきたように、物わかりがよくて、どこか物悲しい諦観を纏っていた。
そんな彼女が、なかば諦めながらも、どうしても手放さなかったのが、夏油への思いだ。――それを、五条に託したということ。
これまで、どれだけ実験で疲弊させられようと、術師としてのプライドを踏みにじられようと、へらへらと笑い過ごして耐えてきた彼女が。ここまで分かりやすく、世界を諦めたということ。
(そんな……辛いのか)
極限まで削り取られた呪力と体力、生気のない顔。彼女の姿を思い浮かべた瞬間、ふと。五条は立ち止まる。
無茶はしないと約束したものの――しかし、彼の身内には、かつて味わったことのないほどの激情が、ふつふつとこみ上げていた。
――こいつら、殺すか?
いつぞやの自分の発言が思い出される。あの時彼は、――なんと返しただろう。
事実を知ったら、あるいは、間髪入れずにうなずくのではないか。
軽率にそんなことを考えた瞬間、
『汚しちゃ、だめだよ』
今にも擦り切れそうな言葉が耳の奥で蘇って、どす黒く濁った五条の心を引き留める。
「……ま、まずは証拠集めからだな」
五条は後頭部を掻いて、高専内の自室へと急いだ。
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