16
差し込んでくる朝日の眩しさに、長義は目を覚ました。
そうしてハッとしたように視線を隣に向け、――かすかな吐息を立てるいとしい女の姿を認め、安堵する。
しかも彼女は、長義の腕枕で寝ている。若干腕の感覚がないが、この幸福感と引き換えなら、腕の一本や二本や三本は安い。
昨晩、ようやっと二人は夫婦となった。
祝言を挙げてから実に数か月。季節がひとつ変わってしまい、花の季節には程遠いが――夫婦の閨(※執務室の次の間)には桜のような花弁が吹雪のように大量に舞い散り、消えて行く。ここだけ常春の楽園のようだ。
ひとひらの花弁が、ひらりと彼女に舞い降りて、その肌にふれて消える。それになぜかたまらないいとおしさを覚えて、ひとひらの触れた頬に口づけた。
長かった、実に長かったと長義は回想する。
――彼女に対する好意を自覚したはじめは、定かではない。
本丸内の刀剣男士たちが続々と修行を済ませるに至って、長義は焦りを抱いた。なぜこんなに焦っている、なにをそんなに焦る必要があるのか、と分析した結果、そこに彼女がいたのだ。
自分も彼女の役に立ちたい、彼女に誇りに思ってほしい。それは明確な、好意だった。
誰にもとられたくない、とは思うものの、しかしいまいち行動には移せなかった。
なぜなら、思い続けた彼女には思い人がいる。長義が常に彼女を見ていたように、彼女の視線の先にも、常にあの男がいた。
彼女は長義よりよほど行動的だった。彼奴によく話しかけ、なにかと交流を持とうとした。なにかやたらと勉強をし始めたと思ったら、その発端は彼奴との会話によるとか――。体を壊すのではないか、と心配するほどの努力は身を結び、彼女は目標を達成した。
彼女は覚えているだろうか。夜な夜な執務室にこもって勉強する彼女に、提出物を持っていく口実に、差し入れしていたこととか。
夜食を食べていたヤツが作ったもの、ついでだから差し入れにと称して持っていったおにぎり(ほか、葛湯、ホットチョコレート、ハチミツ入りハニーミルク……etc.レパートリーは多岐にわたる)実はこれ、長義が作ったものだったことは知るまい。
彼奴を好きな彼女は、輝いていた。本当に美しくて、可愛くて、だから死ぬほど彼奴が憎かった。そんな彼奴に実は本丸の外に恋人がいると知って、貴様の目は節穴かそんな役立たずの目玉などえぐり取ってやろうか、なんて物騒なことを考えた一方で、千載一遇の好機だと喜んだ自分に嫌悪してみたり――。
奴に恋人がいると知ったら、彼女は傷つくだろう。どのように傷つくだろうか。涙を流すだろうか。……もしかしたら自分に振り向いてくれるだろうか。期待して、落胆して、自己嫌悪して、長義は自分でも無自覚のまま「心」というものを知っていった。
そんな時、彼女は現世への出張を決めた。これはまさしく千載一遇のチャンスでしかなかった。長義はやっと重い腰を上げ、本格的に攻めの姿勢に移行した。もはやここで逃す手はないと思ったのだ。
自分を売り込んだ。いかに優秀かを知らしめた。君の隣に立ってしかるべきなのは自分なんだと、実力を誇示した。幸い行先は政府関連施設、管轄は違えど「政府」の流儀を長義は知り尽くしている。ばかばかしいと思っていた因習に感謝だ、全く知らない彼女からしたら、知っているというだけで尊敬を集めることができたのだから。
養成所には彼女に思いを寄せる、身の程知らずの男も少なからずいたが(当然だ、長義が惚れるほどの女だ。人間の男の目に止まらぬはずがない)長義はそれを秘密裏につぶしていった。
勿論、物騒なことは何もしていない。せいぜい、通りすがりに殺気を込めてにらんだり、トイレでかち合ったときにやんわりと牽制したくらいだ。
しかし、なかなか彼女との距離は縮まらなかった。自分はもしかしたら意外と意気地がないのかもしれない、と思い始めたのは、あと数日で出張期間が終わる、という頃だった。なにか動かなければならないと思ったときに、――あの日の、あの事件だ。
彼女は宴会というものが好きだ。酒が好きだ。酒の席が好きだ。しかし、前後不覚になるほど酩酊した姿など見たことがなかった。そんな彼女が初めて――隙を見せた。彼女のあの手の酔い方を見るのは初めてで、最初はなにか仕組まれている(美人局とか)のではないかと疑ったほどだ。しかし、違った。
無防備すぎるほどに無防備な姿で、甘い声を出して、すり寄ってきて触ってきて。大笑いしたかと思えば、泣いてみたり。目の前でゲロを吐かれても――それでも、救いがたいことに、長義は彼女を好きでいるのをやめられなかった。
十万でどう? はさすがに引いたし馬鹿にしているのかとも思ったが、実のところ、かなり心が揺らいだのは事実だ。ていうか、実際それに乗った。無論金を受け取る気はなかったが、やったもん勝ちだ。
むしろ、それをネタに関係を迫ろう――なんて考え、自分の醜悪さに絶望し――しかしながら、結局そこに落ち着いてしまう長義だった。
最低最悪だと思った。が、思っただけだ。本当に恥ずかしい限りだと思った、が、やはり、思っただけだった。どんなに醜くとも、どんなに恥ずかしくとも、誰に顔向けできなくとも、目の前にチャンスがあれば逃さない、もう絶対に逃さない!! 長義は必死だった。
――まあ、そこはトントンではないか? と思う部分が長義にはある。だって、彼女はそれとドッコイドッコイなひどいことを仕出かしてくれた。
・長義の恋心に気づかず、あまつさえ金銭をちらつかせて肉体的関係を迫る
・しかも誘ってきたくせに泣きじゃくって、こちらの罪悪感を煽る
・結局させない
・しかも全部忘れている
やっぱり小一時間考えても、彼女の所業もドン引きレベルだ。自分でなかったら裸足で逃げ出すだろう。割れ鍋に綴じ蓋。彼女には自分しかないと、長義を納得させるには十分だった。
最初は「お付き合い」ということだったが、本丸に還って一足飛びに「祝言」までこぎつけたのは、――どうやら、彼奴がよその女と別れたとうまくいっていないという話を耳にしたからだ。
こういうとき、ゴシップ好きの刀剣がありがたくなる。普段は「なんて低俗な」と小馬鹿にしていたが、この時ばかりは有用な情報をありがとうと敬意を払ったものだ。
もしも彼奴が恋人と不仲だと知ったら、彼女は動くかもしれない。いやいや、まさかそこまで下種な真似はしないかもしれないが、変なところで行動力にあふれる彼女だ、そこまでしてもおかしくない。
酒の席でしこたま酔わせて「ねえ、私にしなよ」なんて――そんなシチュエーション、許せるわけがない。山姥切長義、実は現世出張中にドラマとか結構見ていたし、暇なときは満喫に入り浸ったりもしていたから、割とそういう妄想も逞しかった。
祝言は――あれは、よかった。
かなり急ごしらえではあったが、彼女の初期刀をはじめセンス自慢の刀剣たちがあーだこーだと考えて、本丸内で実に見事な式を挙げてくれた。
白無垢に身を包んだ彼女の姿――虞美人も楊貴妃もクレオパトラも叶わない、天女も裸足で逃げ出す美しさだった、と長義は思い出す。実はその時の写真をそっと持ち歩いているのは、トップシークレットだ。
そのままの勢いで新婚初夜を迎えるつもりが長義にはあったが、――直前で、芋を引いた。山姥切長義、刀剣男士、顕現されて二年。他の刀剣男士と違って、遊郭に繰り出したことがない。勿論女を抱いたことがない。彼女を思って自分を慰めた夜は数知れぬ、ひとり上手。孤高のソロプレイヤー。
まあもう、この際、初夜で審神者が破瓜して(※実は彼女が処女かどうかも長義は知らなかった。処女であればいいなという希望的観測だけがあった)
「え、もしかしてあの晩、やってなかったの……?」
と彼女が気付いたとしても、
「しかしもうやってしまったあとだ、我らは晴れて夫婦となった、よいではないかよいではないか」
「あーれー」
で済まされる(※済まされるか?)。Good end。
しかし怖いのは、
「うわ、長義下手くそじゃん。めっちゃ痛いんですけど」
――これは、折れる。心も刃も確実に折れる。Bad end。
この怯えは結果的に、好きな女が隣で寝ているのに手を出せないという、生殺し以外の何物でもない苦痛をもたらすことになるのだが、長義は奇跡的にこれに耐え続けた。
これは当本丸一下半身が奔放な某男士に言わせると、「奇跡も、魔法も、あるんだな」この一言に尽きる。イッツァミラクル。
しかしながら、夜の苦行を除けば長義と彼女は徐々に愛をはぐくんで――いっている、のだと思っていた。何でもない会話で笑い合うとか、くすぐりあって転がったり、ちょっと一緒に出掛けたり―相合傘をして、
「もうちょっと寄ろうよ、濡れてるじゃん」
「あなたが風邪をひいてはいけない」
なんて会話をした日には、スキップしそうなほど浮かれたし、彼女が自分の好物をそれとなく覚えていてくれたと気づいたときは、抱きしめて全身くまなく口づけしたいくらい、愛にあふれた。いやもう口づけでも足りない、頭から食べてしまいたいと思ったくらいだ。
セックスしてえ。
そのとき強く、長義は思った。身もふたもないし最低最悪だが、とにかく、好きなのだ。好きすぎるのだ。しかも夫婦なのだ。好きなのはいいが――別に、セックスしてしまっても構わんのだろう? ならいつやるか。今でしょ。
もはや決意した長義を、誰にも止めることはできない。
そんなときに、昨日の――強烈な一手。
まさかの離婚宣告! 頭が真っ白になった。訳が分からなかった。そこでもまた彼女には痛烈に傷つけられたわけだが、結果的にそれはお互いのすれ違いが原因だと知れた。
まあ許さんこともない。
長義はちらりと彼女を見下ろし、――にへら、と顔が緩んでしまったのを、慌てて手で隠す。彼女は起きる気配もないが、一応そこは、締めてかからねば。
そう――。とうとう、ふたりは結ばれたのだ。
夢じゃ、なかった。愛はそこにあったー!! 思い出そうとすると、自分ばっかり喘いで彼女は泣いてばかりだったような気もするが(※「痛い」と「やだ」しか聞いてないような)、ぎゅっと抱き着いてきたのは、控えめにいっても非常に可愛かった……。
背中がひりひりするのは彼女の爪の痕だろうか、熱い風呂に入ると沁みるだろうが、それさえも愛おしい。
はーもう、好きだ。控えめにいっても好き。
長義は涼しい顔をしながらそんなことを思い、いまだに眠り続ける彼女に覆いかぶさった。彼女のいい匂いに、自分の匂いが混じっている。GOOD! すべすべの頬に今再び唇をつけて、吸い付こうとする。
そうしたとき、折あしく審神者は目を覚ました。
「…………」
「…………」
時が止まったよう、とはまさにこのこと。
審神者にしてみれば、目が覚めたらいきなり長義が噛みつこうとしているような塩梅だ。訳が分からない。
「……た、食べてしまいたいなと」
長義は、言い訳した。それが言い訳になるかどうかは甚だ疑問であるが。
「……カニバリズム?」
審神者は、真面目に返した。寝起きで働かない頭のわりに、考えて返した方だった。
長義は真っ白な頭でなにかと打開策を考えたが、――面倒になった。
それよりもなによりも愛したい。もう一回は駄目だろうか。自分は元気だ。あなたは?
「人肉に興味はない」
「それを聞いて安心した……。目の錯覚だったってことにする」
素知らぬ顔でとぼけた長義に、審神者もまた同調した。しかも、図太くも二度寝を決めこもうとする。
それが憎らしくて、長義は彼女の頬をむにぃとつねった。
「はにふんほぉ」
審神者は実に迷惑そうに顔をしかめて抗議する。心底から迷惑そうだ、もうそろそろすると悪態のひとつやふたつ、飛び出しそうなくらい。
「あなたが憎らしくてたまらない。本当に、死んでほしいくらい」
嘘だ。
憎いのは本当だが、それ以上に愛おしい。何を犠牲にしてもいい、この国の人間すべての命と引き換えにしてもいいから、もう最終的に歴史が変わってしまってもいいから、生き延びてほしい。――もはや彼女を前にすると刀剣男士としての誇りさえ揺らぐ。山姥切長義は、全身全霊で骨抜きにされている。
「ええ……寝起きから辛辣……。やだよ、生きる」
「その殊勝な心掛けは結構。俺のために、俺だけのために、身も心も一生奉げなければならないのだから。なにはともあれ、生きてくれ」
髪をなでながら囁くと、審神者は眠そうに目を細めて――うんうん、と呟いた。そうして、目を開けてじいっと長義の目を見つめる。じっくりと、黒い眼が長義の瑠璃を見つめる。
なにそれ好き。
涼しい顔の下、長義はいよいよ愛溢れて止まらない。
審神者が、ことさら楽しげに目を細める。
「そういうところ、可愛いよね」
まるで長義の本心を見透かしたみたいに、そんなことを言った。
【了】
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