5
滞在しているホテルに着いた頃には、審神者の涙は収まっていた。
が、
「は……吐く、」
エレベーターの中、審神者は口元を抑えて上体を曲げ、苦し気にそんなことを呟いた。
「っ……! 全く、あなたって人は!」
長義はひどく取り乱したように、審神者の手を引いた。
部屋の前でもたもたする審神者からバッグをひったくり、キーを取り出して解錠すると、トイレまで誘導する。
「う……お、ェエエエエ、うぇええええ、……ぐあ、まずっていうかくさっ! ちょぎくんごめ、帰っていいよ!」
「喋らなくていいから、出せるだけ出す」
「いやいや、んぐっ……ぁああああええええ」
便器に顔を突っ込むようにして吐き戻す審神者を、長義はなんとも言えない顔で見つめた。嘔吐くたびに震える背中をさする。山姥切長義、意外と面倒見がよい。
「もうだめだぁ……酒は飲まない。絶対にだ……」
ひとしきり嘔吐が落ち着いた審神者は、ぐったりとしながら便器を抱きかかえている。
「とりあえず、口をすすいだらどうかな」
長義が備えつけのコップに水を入れて渡す。審神者は緩慢な動作でそれを受けとると、これまたのろのろとうがいをし、洗面台に吐き出した。それを数度繰り返し、再び座り込もうとしたところで、それを背後から長義が支える。
「あぃ……? ちょぎくん、すわりたいです」
「タイルの床は冷える。座るならベッドかソファへ」
そう言って長義は審神者を抱きかかえ、ベッドへと運んだ。
「あぁ~ありがとう……楽ちんだ」
やんわりとベッドに横たえられると、審神者は仰向けになってとろけたように呟いた。
ひどく眠くて、体が重くて。――それなのに、何故だか思い出す。彼のこと、あの女のこと、惨めな自分。にわかに涙があふれてきて、審神者はふたたびエグエグと嗚咽しはじめた。
「くそがぁ……ホテル行ったら……やってんのかあいつらぁ……畜生が」
「下品……」
あまりの下種発言に、長義は頭を抱え込んでしまう。しかしそんな指摘も審神者には聞こえない。
しばらくは声もなくしくしく泣いていた審神者だが、ふと――泣き始めたときと同様唐突に、がばっと体を起こした。あまりの唐突さに、長義は若干引いている。
「なんでよぉ……私ばっかりこんな……。理不尽と思わない?!」
「そ、そうだな。理不尽だ」
「やっぱりね! はぁ……やっぱりこの世は糞。でも……愚痴など吐いたら阿呆みたい。夢さえあれば……いいや!」
「そ? そう、かな」
「馬鹿野郎ー! そこはNo fearだ!!」
「いっ……」
審神者は唐突に長義の頭をはたきとばし、はたき飛ばしたついでに、彼の胸倉をつかんだ。長義は完全に固まっている。先ほどの慣れた振舞いから鑑みるに、酔っ払いの対応はそれなりにこなしてきたのかもしれない。しかしこの種の酔っ払いには、遭遇したことがなかったのかもしれない。
据わった目の主を前に、もはやどう対処していいか。お手上げ状態だった。
「ねえ、ちょぎくぅん……」
「なっ……」
審神者は甘い声をだしながら、しかし長義そっちのけで自分のバッグを漁って財布を取り出した。中から高級紙幣を抜き出し、ずいっと長義に押し付ける。
「ここに十万ある。十万で、ねえ、どう。だめ? いいよね? 答えは聞いてない」
――最低最悪な発言を最後として、審神者の記憶はそこで潰えていた。
その日審神者は夢をみた。最低最悪の夢だった。
散々に酔っぱらった挙句、死ぬ思いで吐き戻し――居酒屋で食べた激辛チョリソーがやばかった。吐いている途中にむせて鼻に入り、鼻の中が激辛。鼻から火が出るかと思った。もう一生ウインナーを食べられないだろう――しかもなぜか、金にものを言わせて長義を買おうとする。そんな糞みたいな夢。
「最悪だなぁ……」
目が覚めて、審神者は呟いた。声はガラガラだった。身じろぎすると頭がガンガン痛み、気だるさでどうにかなりそうだ。
ぐるりと寝返りを打って、――そこに極めて美しい、白皙の面を発見し、彼女の時間が止まった。時が止まるほどに美しい美貌である、しかし問題はそこじゃない。
すっぱだかの 山姥切長義と 一緒のベッドで 寝ている そんな自分も すっぱだか
――なぜだろう。審神者は考えた。もはや自暴自棄だった。かっこいいポーズでしげしげと考え込み、ふっと微笑む。
訳がわからん。夢の続きか? 寝たら覚める? それとも幻術か?
やれやれ、と余裕っぽいことを思いながら、審神者はガタガタと震える。そっとベッドを抜け出し、カーペットの上に落ちている自分のバッグを拾いあげた。財布を取り出し、中身を確認し――そこにきっかり、昨日使わなかった十万円を発見し、胸をなでおろす。
なんだ。あんな下種い援交おじさんみたいなこと、やっぱりしてないんじゃない。ほっと安堵したのもつかの間。
「俺が金で買われるような男だとでも?」
ちょっとだけ眠そうな声を聴いて、審神者は凍りついた。どうしたらいいか分からない。しかし、無視はできない。どうしよう。
考えに考えた挙句、審神者は何気ない動作でそっと床に落ちていた自分のシャツを拾い上げ、羽織った。なんとなく大事な部分は隠したうえで、振り返る。
そこには案の定、山姥切長義がいる。いる、というか起きていた。むき出しの裸を惜しむことなくさらけ出し、クッションに背中を預けて悠然と審神者の方を見ている。寝起きでも、極めて美しいのは依然として変わりなく。
「えっと……。ぼ、ボンソワール?」
審神者のとぼけた挨拶に、長義は美しく笑ってみせた。
「それは夜の挨拶ではないかな」
「……グッモーニン、ミスタ本作」
審神者が言いなおすと、くつりとやはりこれまた美しく、長義は笑う。
「ちょぎくん、とはもう呼んでくれないのかな」
「んんーッ!!」
審神者は頭を抱えて床にうずくまった。――やっぱり、夢ではなさそうだ。
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