Catch me,if you wanna. - 6/20

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 こぽこぽと軽やかな音とともに、部屋の中に芳醇なコーヒーの香りが広がる。
 場所は、審神者の部屋の隣室――つまり、山姥切長義の借りている部屋だ。向きだけが違うその部屋に、審神者と長義がいた。
 テレビには朝の情報番組が映り、アナウンサーが控えめな声でリポートしている。テーブルにはトーストとヨーグルト、串切りのオレンジ。コーヒーはただいま絶賛、長義が淹れているところだ。
 二つ並んだ椅子の一つに、審神者が座り深くうなだれている。
 コーヒーを入れる長義も、そうして項垂れる審神者もまた、湯上り後のバスローブ姿だった。もちろん、それぞれ自分の部屋でシャワーを浴びた。そうしてシャワー後審神者は長義に呼ばれ、彼と一緒に朝餉をとることとなったのだった。
 やばい、と思うばかりで審神者はそれ以上のことが考えられなかった。とにかくやばいのである。とにかくやばくて、それ以上は言えない。
「まるで、いたずらをした後に叱られるのを待つ子犬みたいだね」
 長義はそんなことを言いながら、コーヒーの入ったマグカップを審神者に差し出した。
「あ……り、がとう」
「どういたしまして。さ、食べようか」
 長義も椅子に掛けると、優雅な所作で朝食を食べ始めた。――審神者はそれをなんとも言えない表情で見つめる。
 トーストをかじり、咀嚼し、……ほどなくして飲み込んだ長義が、ちらと彼女へ視線を向ける。
「なにかな」
 静かな問いに、審神者はたじろいだ。何を言えるというのだろうか。頭を抱えようとすると、長義はそんな主を面白そうに見つめた。
 とにかく、審神者には記憶がない。記憶がない以上、なんとも言えない。勘違いであれ、とは思う。思うのではあるが……成人男性と女性が、裸で、同衾。これが何を指すか分からぬ審神者でもない。
 しかし、よく分からないのも事実だ。――審神者は情交というものを解さぬ。つまり男とやったことないのだ。もちろん女ともだが。とにかく処女だ。
 そうして処女を喪失する際には多大なる痛苦に見舞われるという。翌日もその責苦を追うことになると。それなのに、こんなにあっけないものなのか……?
 いや、まったく無傷ではない。体は、確かに重い。半端なく重い。しかしアルコールの過剰摂取のせいのような気もする。そして、全身の節々が痛むのだが、それは二軒目のお店でダーツに興じ、年甲斐もなくはしゃいだせいもあるかもしれない。(普段運動不足気味なので、それしきの活動でも筋肉痛は起こりうる)
 そうしてなによりが、処女の証たる出血。ベッドにはその痕跡が一切なかった。しかし、聞くところによれば一切出血しないケースもあると言い――本当に、よく分からないのだ。自分の体のことなのに。
 とはいえ、だ。
 それをそのまま言ったら、一体どんな反応が返ってくるか。分かり切っている。実は昨日の飲みに行っている段階の記憶、審神者はおぼろげに持っていた。散々無礼なことを仕出かした。もはやこれ以上、好感度を下げたくない。
 回らない頭で必死に考えて、審神者は決めた。話を合わせよう。必死に考えた割に姑息的にすぎるやり方だった。
「ええーっとその……。はは。長義は、はじめて?」
「は……?」
 なぜ、いきなり、そこなのか。
 審神者は我ながら頭を抱えた。全身の毛穴が開き、ぶわっと脂汗がにじみ出る。やばい。やばすぎる。何故そんなことを聞くのか?
「いやーその、……ほら、えっと、私も、……その、初めてなのでぇ……。えー……はは、長義も初めてだったらいいな、というか」
 もう完全にヤッた体で話しているし、なんなら長義に気があるくらいの流れではないか。やばい、やばすぎる。話をどう持っていきたいのか、彼女自身にも分からない。
 ひとり滝のような汗を流して焦る審神者を余所に、長義はふっと――目を逸らし、伏し目がちにした。白いかんばせが、ほんのりと赤みを帯びて、長い睫毛に、けぶるような色香がにじむ。まるで、まるでその姿は、
「……恥ずかしながら、ご指摘の通り。つたなくて申し訳ないかぎりだ」
 純潔を告白する乙女、のようではないか。
 いや、乙女が純潔を告白するというのが、どういうシチュエーションなのかは不明だが。ともかくそれほどに初々しい姿で、審神者は非常なほどに焦りながら、なんなのこの色気はとさらに焦りを募らせた。
 やばい、これは非常にまずい流れだ。
「……あ……はあ、そっか。えー……ああ……。なんていうかそのぉ……。長義はぁ……主、と、そういう……あの……。ワンナイト? な感じのあれはぁ……ダイジョブ、なの?」
「……ワンナイト?」
 長義の声がワントーン低くなった。はい、これ地雷でした。審神者は瞬時に気づき、体を固まらせた。もはや汗がやばい。もう一度風呂に入るレベルになった。
 地雷を踏んでしまったわけだが、それがどこにかかるものか審神者には分からない。必死に言葉を探す審神者の前で、長義は般若みたいになっていき――それから、はあ、とため息を吐いた。
「なるほど。あなたはそういうつもりだったのかな」
「そ、……そういう……?」
「昨晩のことは、ワンナイトな付き合いで終わらせたいと」
「あ……ぁあ……いや……」
 瑠璃色の双眸、その温度は氷点下何度だろう。その視線にさらされただけで、審神者は体の芯から凍りついた。
 石化してものも言えない審神者の前で、長義は身を乗り出し彼女に体を近づけた。小さなテーブルだ、すぐにふたりの距離は縮まってしまう。
 顔が、美しい顔が近づいてくる。唇さえ触れ合いそうなほどの距離になった時、長義はぴたりと止まった。
「ワンナイトで、済まされると思うのかな?」
「…………」
 それはつまり、済まされないということだろう。つまりどういうことだってばよ。もはや呼吸さえままならない審神者に、長義は絶対零度の視線を向ける。
「当然主として責任はとるつもりだろうね」
 責任。責任とはつまり。審神者はごくりと息をのんだ。
「ば……ばいしょうきn」
「君はなんでも金で片がつくと思っているのか」
 さらに長義の視線が冷たくなる。審神者は過呼吸気味になりながらも、長義に縋るような目を向けた。
「……わ、ワンモアチャンス……!」
 震える人差し指をたてると、長義が片眉を上げた。
「大ヒントだ。誠意を見せる、とはどういうことかな?」
「せ……誠意」
 ごくり、と審神者が生唾を呑む。
「つ……つまり……責任をとって……?」
 長義が微笑む。どうやら、正解らしい。審神者の目が泳ぐ。
「……取って……あー……その……。おつ……お、つきあい、する……?」
 反応を見ながら答えた審神者に、長義は実に優雅な所作で手を叩いて拍手をくれた。まるで王族が素晴らしい演奏を賞賛するみたいに、非常にノーブルかつエレガントに。
「よく、出来ました」

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