Catch me,if you wanna. - 9/20

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 とうとう、祝言が終わってしまった。
 祝言どころか、その後の宴も終わり、――審神者はひとり寝室で夫の戻りを待っている。
 目の前に敷かれた布団(※この日のために新調)には、当然のごとく枕が二つ並べられ、それが夫婦のためのものであることを主張している。枕――この枕を選ぶ際にも、ひと悶着あった。
 なかなか外出できない審神者のために、本丸では通信販売が主流だ。寝具専門のカタログ雑誌――こういうのは紙のほうが見やすいということで、あえての紙媒体――をめくりながら、長義は「へぇ、」と興味深げな声を上げた。
「このデザインは中々いいね」
 気に入っているようなので手元を覗き込み、審神者は思わずのけぞって噴き出した。白と黒のシックな色合いに、印字された「YES」「NO」の文字。他に英文で何か書いてあるが、和訳してみると――まあ、やるか・寝るかということが書いてあるわけで。
「えっ……これ……。え、これが?」
「気に入らないかな?」
「いやっ……」
 ――危うく決定しそうだったが、偶然やって来たにっかりが懇切丁寧にねっとりと枕の用途について教えてくれたおかげで、なんとか免れたのだった。
 山姥切長義、現代の知識に精通しているように見えて、知識にはムラがあるようだ。まあ、俗物的な知識は、確かに刀剣男士として生き行くうえでは必要なさそうだが……。
「頼むから、その記憶は一刻も早く消し去るように」
 すべすべの頬を赤くしただけで飽き足らず、滑らかな首筋まで真っ赤に染め上げた長義など、早々拝めるものでもないだろう。思いだすとちょっと笑えるし、可愛い。
 などと現実逃避した審神者だが、いやそうじゃないだろう……と現実に立ち返ってうなだれた。
 さらり、と零れ落ちた髪からはうっとりするほどいい匂いがする。肌だってそうだ。前日である昨日まで通っていたブライダルエステのおかげで、肌はつやつやピカピカのすべすべ。風呂上がりに塗った香油がまた、挙動のたびにふわりと芳香をかおらせる。
 顏だって、初めて寝化粧というものを施した。加州からプレゼントされた「つけたまま寝られる」というファンデーションを薄くはたき、眉もほんのすこし描いている。
 寝間小袖は、おろしたてのもの。無論その下にはおろしたての――精一杯選んだ――勝負下着。
 それを脱ぐ、ということを考えて審神者は叫び出しそうになった。
 いや、いや、いや。
 記憶にないというだけで、体はすでにそういうことをしている。今更恥ずかしがるのも怖がるのも、変な話ではないか。それに相手は一生添い遂げると誓った殿方だ。なにを臆することがある。
 そうやって必死に気持ちを立て直した、その時。
『失礼するよ』
 襖の向こうから声をかけられた。山姥切長義の声に、他ならない。
「っ……あ、はい、どうぞ」
 声を引っくり返らせながら審神者は返事した。心の準備など、出来ていない。出来てはいないが、ここで待たせてしまっては変に思われると思ったからだ。
 くすりと笑い声が一つ。するりと開いた襖の向こう、長義はうすく微笑んでいた。
「待たせてしまったかな?」
「あっ……やぁ……。全然」
「体は冷えてない?」
「だいじょうぶ」
 なんでもないような口調で話しかける長義に、しかし審神者は意識しまくってしまい、まともに目を合わせることができない。畳の上に正座をして、置物のように小さくなって、視線ばかりをさまよわせて――。
 そうしたとき、ふと、頬にするりとした感触を覚えて、はっとする。長義の指が、頬をゆっくりとなでていた。
「すこし冷たいような気もするけど」
「だいっじょうぶだからァ! 長義髪は乾かしっ……って乾かしてたよね! ごめん準備万端だった! 一応お酒の用意とかしたんだけど、ちょっと一献いっとく?! これめっちゃ高かったでござるよ?!」
 長義の手から逃げるように立ち上がり、審神者は用意していたあれやこれやに手を伸ばした。動揺しすぎて、完全に普段の姿を見失っている。ばたばた暴れて、ともすれば「めっちゃ高かった」酒をひっくり返しそうだ。
 長義は目を細めてそんな審神者を見ると、やんわりと手を伸ばして、せわしなく動く彼女の手を止めた。
「酒なら先ほどの宴で嫌というほど飲まされた。それとも、あなたはまだ飲み足りなかった?」
「いえ……」
 長義の手が触れると、審神者は電源が切れたように大人しくなった。
 手首をやんわりと握られたまま、審神者と長義は見つめ合っている。――ドクン、ドクン、を通り越して審神者の心臓はドンッ! ドンッ! と情熱の和太鼓演奏並みに力強く荒々しい鼓動を刻む。心臓が、痛い。息が、苦しい。
「あ……」
 阿呆みたいにそんなことを審神者が呟くと、それを契機として、長義はぱっと手を離した。
「それでは、寝ようか」
「……あ、はい」
「灯は俺が消そう」
「あ、どうも」
 ――そういうことに、なった。

 明けてその翌日の夜も、同様に審神者は身構えていた。
 昼間、審神者はあれこれと考えたものの、結局結論は出なかった。夫婦とは一体どういうものか、夫婦の閨とはいかなるものか――。執務の合間に、だ。
 審神者も申請すれば、冠婚葬祭のための休暇は取得できる。しかし、審神者と刀剣男士の結婚は事実婚だ。新婚旅行に行く訳でもなければ、あいさつ回りに行かなければならないということもなく、彼女は普通に翌日から仕事の予定を組んでいた。組んだものの、考えることが多すぎてあまり仕事にはならなかったが――。
 当然、初夜はあるものと彼女は思っていた。そのために色々と準備したのだ。それなのにすべてが徒労に終わった。一体なぜか。否、なければないでそれに越したことはないのだが。むしろホッとしている部分もなきにしもあらずだが、かといって永久に逃げられるわけでもない。
 だからきっと、今日はあるだろう。昨日は祝言の後で疲れていたから、夫婦のあれこれがないのだろうと考え、審神者は夜に向けてメンタルの調整を行った。
 ――しかしながら、幸か不幸か、やはり、夫婦の営みはなかった。湯あみした長義が審神者の寝室にやってきて、ちょっと何か話して、一緒に寝た。
 今日こそは来るだろうと思って身構えていた審神者だが、しばらくすると長義の寝息が聞こえ始め、おいおいマジか……と呆然とした。呆然としたついでにホッとして、彼女も寝入った。
 朝起きると彼の姿は横になく(どうやら早朝稽古に行ったらしい)、そのまま朝餉まで会うことはなかった。
 その翌日も。
 そのまた翌日も。
 そうなるともはや、審神者は結婚とはこういうものか? とさえ思うようになっていた。まあそれならそれでありがたいのだが――。しかしそれでいいかと問われると、そうでもないような気がする。とはいえ、夫婦が必ず営みをするかと問われれば、それはNOだ。
 なぜ営みをするのか? 政略結婚の果てに結ばれた夫婦なら、子をなすためだろうし、愛し合って結ばれた夫婦なら、愛情を表現するためだろう。
 この場合、と審神者は考える。後者は絶対にないが、かといって前者のケースでもないふたり(正確には一人と一口)。ならばこのケースではどうするのがベストなのか?
 審神者は今日も、悩ましい日々を送っている。

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