寝顔

 廊下に伸びたしなやかな二本の脚を認めて、審神者はふしぎそうに目を瞬いた。
 ひとつの確信とひとつの疑問を持ちながら、足音をそっと忍ばせて近寄り――その正体が源清麿だということを知り、口元をかすかにゆるめてみせた。
 予想は当たっていたが、しかし疑問の方はいまだ解決されていない。近侍ではないはずの清麿がなぜここにいるのか、そうして本日の近侍である大般若長光がどこへ消えたのか。
 さらに言えば、近侍でもないはずの清麿がどうしてこうも安らかに、今ここで横たわって午睡しているのか。
 息を殺し、足音を消し、気づかれないよう最大の注意を払って、審神者は傍らにしゃがんで彼の寝顔を見下ろした。――まことに気持ちよさそうに眠っているところを見ると、そんな疑問も特には気にならなくなってくる。それよりも、審神者の興味本位の方が勝った。
 そういえば、と審神者は思い至ったことがある。清麿の寝顔を見るのは、これがまったく初めての機会だったのだ。
 そもそも彼が昼寝しているところに行き会ったのは初めてだし、一緒に過ごした夜だとて――清麿より先に起きたためしがない。いつも彼の方が早く起きて、場合によっては朝餉の支度さえすべて済ませて待っていてくれる。
 奇蹟的に彼が褥にいるうちに目が覚めたこともあったが、その時だとて、好き放題に寝顔を見られたあとだった。どうあっても、一緒に眠った場合、審神者は清麿よりも先に覚醒できたことがなかったのである。
 そんなこれまでを思い浮かべ、審神者はしてやったりと口角を上げ、しげしげと彼の寝顔に見入った。
 肌の白さ、きめの細かさ。じいっと見つめて、
「嫉妬するわ……」
 などと呟く。
 サラサラで手触りがよいことは知っている。彼があまりにもどこそこ撫でてくるから、お返しに触り返したことがあったのだ。
 その触感は、うっとりとして、いつまでも触っていたくなるような――。それなのに、掌は思いのほか大きくて、しっとりとして、髪に触れられたときに甘苦い煙草の香りがした。
 不意にその時のことを思い出し、カッと頬が熱くなる。いやいやなにを今更、と自分にツッコミを入れて平静を装った。
 眉、目、鼻、唇……。ひとつひとつのパーツは、やはり刀剣男士の例にもれず整って位置まで完璧だ。このまつ毛の長さ。それさえ色素の薄いことを認めて、ほえーなんて間の抜けた声が出る。
 案外気づかないものだな、とも思う。あんなに顔を寄せ合うことがあるのに、あんなに至近距離で見つめ合って――とその時のシチュエーションを思い出し、いやいやそんな余裕はないか、と殊更頬を染めて再びつっこんだ。
 しまいには熱くなってきた顔を、手でパタパタと仰ぎだす。息をとめ、髪が落ちないように耳にかけて、すっと距離を詰める。あまりにも静かすぎて、息をしているかどうか不安になったのだ。
 耳を口元に寄せたとき、
「残念、」
 囁くような甘い声が耳朶をかすめて、審神者はひゃっと声を上げ肩をゆすって身を引いた。慌てて彼の方を向くと、三日月に細められた眼差しと目が合う。
「なっななっ……。お、お、起きてたの」
 慌てて立ち上がろうとした審神者だが、それを制するように手首を取られて動けない。寝起きのためか、清麿の掌は熱かった。
「待ってたんだけどなぁ」
 少しかすれて低い声が、悪戯っぽくおっとり言の葉を紡ぐ。
「ま、待つ? え、なにを」
「君の方からしてくれるのかと思った」
「っえ、」
 薄い唇が弧を描く。手首を握った手が離れ、そっと持ち上がり――審神者の唇を撫でた。
 触れるか触れないかの位置。甘いのに、挑発的な瞳。思わせぶりな仕草に、彼女の背筋がふるりと揺れた。
「…………」
 この場合、なにも言わないほうがいいと審神者は経験則で知っている。阿るように顎をかすかに引くと、ちらりと上目を使って清麿を窺う。一〇〇パーセント間違いなどないと分かっているが、彼が満足げに目を閉じたのを認めて、ここは年貢の納め時と悟った。
 ひええ、とは審神者の胸中の声。実際には一言も発せず、音もなく距離を詰めていく。――ここで欲を出して、清麿のキス待ち顔を拝もうなどという邪心を持たなかったのは、彼女にとって幸いだった。
 そうしたが最後、きっと彼の、獲物を狩る鷹のような目つきの鋭さと獰猛さを前に、平静を保てなかっただろう。
「…………」
 触れるだけで終わった口づけの余韻に浸りながら、顔を離す。何回何十回、何百回としたかもしれない行為なのに、審神者の顔は首まで真っ赤に染まっている。
 恥ずかしくて死ぬ、と頭を抱える彼女の頬を、しっとりとした熱い掌が包み込んだ。瞬間、ふんわりと鼻腔をくすぐる甘くて苦い香り。彼の香りだ。ぎょっとして目を見開くと、真正面から――彼の双眸を受け止めることとなる。
 柔らかい、けれども挑むような。鋭くて獰猛な――。
「もう終わり?」
「えっ……」
「もっと、……だめ?」
 ずいっと顔が近づき、唇との距離がほとんどゼロとなる。柔らかなそれがかすめ合って、もどかしくてたまらない。
「だめ、……。……じゃ、……ない……」
 審神者なりのなけなしの抵抗だったが、大した意味はなさなかった。
 よかった、という彼の安堵は口づけとともに飲み込まれて消える。清麿の手が伸び、障子へとかかった。
 昼下がりの執務室、開け放たれていた障子戸がぴしゃりと音を立てて閉まり、中の様子はうかがえない――。

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