そういった習慣のなかった審神者が喫煙をはじめたことに、大した理由はなかった。
なんとなく買って、なんとなく吸ってみた。
ただそれだけのこと。
はじめはひどくむせた。激しくむせながらもなんとか一本吸い切ったのは、そのまま捨てるのはもったいなかったから。その時の記憶があまり良いものでなかったため、それからしばらくは手つかずのままだった。
二度目を吸ってみようと思ったのは、徹夜明けだったから。疲れたときにジャンクフードが食べたくなるのと同じような感覚だっただろう。朝日を浴びながら吸った煙草は、(無意識のうちに吸い方を体得していたのか)さほどむせることもなく、思いのほかうまかった。
喫煙所から見た朝の景色が、なんとなく美しく見えたのもまた、よかった。疲れきった体に、ミントのすっきりとした吸い口が染みわたるようだった。
それからほどなくして、徹夜明けに煙草を吸うのが審神者の日課となった。
審神者の仕事で徹夜が見込まれるのは、夜間から始まる手入れのときだ。重傷者が多ければ数日~数週間の長期スパンで手入れしていくことになるが、軽傷者だけなら一気に終わらせてしまうことが多い。
よほど手入れ部屋が混んでいない限りは、身体面への影響を考慮して手伝い札は使わないことが多いから、インターバルを含めると一晩は余裕でかかってしまうのだ。
この日も、軽傷者のみの手入れを一晩かけて終えた審神者は、いそいそと未明の喫煙所へとむかった。外はまだすっきりと明けきってはいない。少しだけひんやりとした朝の空気が頬を打って、眠く疲れきった体に心地よい。
喫煙所は四阿風で、壁は三方しかない。多少の雨風はしのげるが冬は極寒らしく、火鉢が置いてある。今の季節は脇に寄せてあるが、冬はこれにあたりながら煙草をふかしているのだろう。
そこまでするか、と喫煙歴の短い審神者はそんなことを思い、控えめに腰をかけた。建物の構造的に換気は抜群だが、それでも煙草の匂いが染みついている。みんなはどんな煙草を吸うんだろうな、なんてことを考えながら煙草を取り出した。
煙草とライターは小ぶりのポーチに入れて、仕事用の手提げの中に忍ばせてきた。時間があったら一服休憩をしてから奥に戻ろう――そんなことを考えながら、手提げの中に入れたのだった。疲れすぎていたら、一服もせず奥へ戻るばかりだが。
一本咥えて、火をつける。咥えた瞬間にすーっとする、ミントのフレーバーが心地よい。ひと口めは吹かして、吐き出した紫煙を眺めながらぼーっとする。二口め以降は無心に、適当なタイミングで吸って吐いてを繰り返す。油断すると、時折むせることもあって、まだまだ不慣れだと思わされた。
鳥のさえずりが聞こえる。徐々に空が明るくなってくる。朝日が本格的に差し込む前に奥へ戻ろうか。
そんなことを考えていると、地面を踏む音とともに視界に飛び込んできたものがあった。
「主?」
びっくりした顔で、びっくりした声で。立っていたのは、源清磨だった。
まさかこんな時間に誰か来るなんて思いもよらず、そうして、煙草を吸っているところを見られた――罪悪感と言うか、羞恥心と言うか――気まずさで、審神者は慌てて煙草を消そうとした。
すかさず、待ってという声が飛ぶ。
「消さなくて大丈夫だよ。僕も吸いに来たところだから」
清磨はおっとりとした口調でそういい、自身も腰かけた。
「あ……そっか……。ごめん」
いまいち働かない頭をフル回転させ、審神者はおずおずと煙草を口元へ戻した。
源清磨。……こんな所へ一体なにしに? そんなことを考えかけて、彼の発言を思い出す。僕も吸いに来たところだから。審神者はハッとして、食い入るように清磨を見つめた。
「清磨……吸うの? 煙草」
「うん」
「意外だね」
まさか彼が喫煙者だとは。審神者はちょっとした衝撃に打ちのめされ、どこか一点を凝視して固まってしまう。
刀剣男士の身体機能は外見年齢とイコールではないため、短刀でも飲酒喫煙は可能である。清磨は年齢不詳な外見年齢ではあるが、彼が刀剣男士である以上、喫煙することになんら問題はない。
問題はないのだが――なんとなく、そう思ってしまった審神者である。なぜかは分からない。柔らかい印象だから、だろうか。それをいうなら、一期一振にも同じような印象を抱いているが、彼が喫煙者だからと知っても特段驚きはしなかった。
いったい何だろう、と考えていると。ちょっといいかなと控えめに声をかけられた。
「僕の煙草、けっこう匂いがきついんだ。吸っても大丈夫かな?」
煙草の銘柄を言われても、喫煙歴が浅く知識もさほどない審神者にはピンとこなかった。それよりもなによりも、動揺している彼女に深く考える余裕などない。二つ返事で返したものだった。
彼が取り出したのは、円柱状の缶。見たこともないパッケージだった。手慣れた手つきで咥え、火をつけ――その瞬間、何とも言えない甘い匂いが広がる。まるでお香を焚いているかのような。くらりとするような甘さに、審神者は目を細めた。
「大丈夫?」
清磨の問いに、こくりと頷いて返す。酩酊したような感覚に、いかんいかんと頭を振り、もう一本取り出して口にくわえた。火をつける。
くすりと。笑う声がした。
目を上げると、はす向かいに腰かけた清磨が目を細めていた。
「意外だね、か。その言葉、そっくりそのままお返しするよ」
「……え?」
「君が喫煙者だってこと。全然そんな風に見えない」
いたずらっぽく笑って言った清磨に、なぜだか妙に心臓が落ち着かなくなる。徹夜明けの回らない頭で必死に考えて――女性の喫煙者は男性に比べて少ないから、というところで納得した。なにがどうなってそこに繋がるかは、本人にもよく分ってはいない。
「まだ板についてないのかな」
「吸い始めたのは最近?」
「うん。一か月か……二か月くらい。数日に一回か、数週間に一回くらい。ヘヴィスモーカーの逆で、ライトスモーカーかな」
ぼんやりとしながら答えると、しばし沈黙が生まれた。気になって清磨を窺うと、彼はしげしげと審神者を見つめていた。
なにか悪いことを言っただろうか。どぎまぎしていると、そっかあ、と清磨はいまだしげしげと見つめながら返した。
「どういうときに吸うの?」
「大体徹夜明けかなぁ。すっきりする感じがよくて」
「ああ、手入れしてたんだね。お疲れ様」
「ありがと。清磨はえらく朝早いね」
「僕もおんなじ。遠征から帰って、なんとなく寝付けなくて。さっきまで報告書を仕上げてたんだ」
「お互いお疲れさまだね」
「ね」
――会話としてはその程度だったと思う。もう少し話したかもしれないが、徹夜明けの頭ではその程度しか覚えていなかった。
喫煙所を出たときにはすっかりと日が昇り切っていて、審神者は紫外線から逃げるように足早に奥へ戻った。軽く腹に何か入れ、シャワーを浴び、布団へダイブ。いつもはそれで泥のように眠るのだが、その日はなぜだかなかなか寝付けなかった。
耳を澄ますと、清磨の穏やかな声が耳元でグワングワンと何度も再生された。いたずらっぽい笑みとか、やんわりと細められた目元とか。
あるいは、煙草を吸う所作。白い指先に挟まれた紙巻きたばこ。閉じた瞼の奥に幾度となく表れる。
何となく、可愛い感じの刀剣男士だと思っていた。源清磨のことだ。
――しかし、煙草を吸う姿はどうにも男臭くて。尻のおさまりが悪いというか、落ち着かないというか。これまで感じたことのないものに動揺し、始終胸がどきどきとした。
おそらく、それが原因だったのだろう。
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