「雪名、」
名を呼ぶと、彼女は一拍遅れてから目を瞬き、ゆっくりとこちらを見る。どこか違うところ、まるで別の世界でも見ていたような、茫洋とした目。その眼に何が映っているのか、私は知らない。
ガラス玉のようだった双眸に、にわかに強い意志が宿る。彼女は淡々とした口調で、呪霊の成り立ちやその特性、弱点について語りだした。
悟の六眼とは違う――世界そのものを見通すような、不思議な目。
そこに私という存在は、どんな記号として映し出されているのか。私は知らない。
――いつからだろうか。
私にとって、その名前が特別な響きを持つようになったのは。
沖縄で。――その後の惨劇を知らない私たちが交わした、他愛のない会話。
頑張ってね、という言葉がまだ耳の奥に残っている。
夏油君、と呼ぶためらいがちな声。
早く帰りたいという、彼女にしては弱気な声。
もしかしたら雪名は――私たちの身に起きる異変を、敏感に察していたのかもしれない。察していたとして、彼女に何かできたとも思えないが。考えたって仕方がない、もはや終わったことだ。
あるいは――先だっての任務で。
雪名は呪霊との戦いで、頭を強く打って昏倒したことがあった。彼女のフィジカルや判断力なら、避けられたはずだ。しかしそうしなかった。――巻き込まれた一般人を、救うために。
私は呪霊本体と対峙するのがやっとで、そちらにまで手が回らなかった。金切声で叫ぶ女性の足元では、雪名がぐったりと力なくうつぶせに倒れていて。うっすらと血が流れているのも見えて。
むやみに動かさないほうがいいとは、分かっていた。それでも、息をしているのか。大丈夫なのか。震える手で、彼女の体をひっくり返した。
名を呼んだ。自分でもこんな声が出るのかと驚くほどの声量で。揺さぶらない方がいいから、この声で目覚めてほしくて。
ややあって、雪名は顔をしかめ――億劫そうに目を開けた。
そうしてぼんやりとした視線をさまよわせ、自分の額に手を当てて。青ざめた顔で立ち尽くす女性を認めて、かすれた声を出した。
『皮膚の柔いところが切れただけ。軽い脳震盪。呪霊、払ったの?』
すぐに自己診断を下し、犠牲者が出ていないことを確認すると、冷静な術師として問うてきた。自分の怪我など、まるで勘定にいれていないような、冷徹な口調で。
払った、と一言告げるので精一杯だった。
女性を補助監督に託して戻ってくると、雪名は地面に体を預けたまま、反転術式で治癒していた。
『これくらいなら自力で治せる。……よかったー、反転うまくなって』
すでに傷口はふさがり、生々しい血液が彼女の白い肌を汚していた。そうして彼女は一度横向きになってから、ゆっくりと上体を起こし――目を閉じた。
すぐには立ちあがらない。自分の体のことを、完璧に把握しているから。
『歩ける?』
『問題ない』
だからちょっと待って。そう言って頭を押さえる彼女の姿が、とても小さく見えた。
術師としての判断も、力量も。何もかも一級にふさわしいものであるにも関わらず。――その瞬間こみ上げてきた感情が、なんだったのか。
今でも分からない。
ただ、その強い情動に突き動かされて、彼女を抱き上げていた。
『っ……』
抱き上げた体は、ひどく軽くて柔かった。
術師として日々研鑽を積み、その何気ない打撃の威力を知っているというのに。いや、だからこそこんなに小さな体で、と思った。
拒絶されたら、素直に下ろそうと思っていた。
しかしそんな思いに反して、彼女はぐったりとして、すまないと一言口にしただけで。私の腕を受け入れた。
そこにどんな思いがあったのか、知らない。
けれども決定的な契機がそこにあったのだとすると、それは疑いようもなかった。
――まるで、遅行性の毒のような。
極度の苦痛や疲労は、判断を鈍らせる。思考を鈍化させる。
そうしてその時の私は、疲弊しきっていた。
試験と、度重なる任務。課題。呪霊を払って、取り込んで――呪霊のそれは考え得る限りで、最低最悪の味。
それを飲み込むということは、ヒトの醜悪な業まで飲み込むような行為に思えて。それで自分自身さえどす黒く淀んでいくような気がした。
呪霊は払った。任務は一件落着。しかしいつだって、『必ずしもそうとは言えない』。
呪霊を生み出すのは、人間の負の感情。負の感情はいつでもどこにでもあって、尽きることがない。呪いは廻る。限りがない。
今回呪霊を生み出したのは、以前――雪名とともに赴いた任務で、呪霊被害に遭っていた人間だった。
ありがとうございます、これでこれから、楽に暮らせます。
そう言って別れたのは、もう随分と昔のこと。
そうして今、その人間は誰かを恨むことで『楽』になっていた。その結果生まれた呪霊が、ほかの第三者を苦しめていた。
彼女は言った。呪霊を払ってハッピーエンドにはならないと。
私は言った。呪術師に出来るのは、呪霊を払うことだけだと。
偉そうなことを言っておいて、今度は自分がその言葉に縛られて苦しめられている。無様なことだ。
あの時の呪霊を払っていなければ、今回の被害は起きなかった。
あの時呪霊を払ったのは――結局のところ、誰かの不幸を延命しただけに過ぎなかった。
しかし――結局のところ。私たちのすべきことは、呪霊を払うこと、それだけ。
体力を、睡眠時間を、命を、心を削って。無責任に吐き出された呪霊を、払って――。その先に何があるのだろう。
人の欲望も、怨嗟も、憎悪も。とめどなく生まれて、停滞して、醜悪な呪霊を形作る。便利な掃除屋。
まるで痰壺のような汚らわしい存在に思えて、――おぞけが走る。
見誤るな。術師は非術師を救うためにある。
いつだったか、悟にも偉そうに語った言の葉が、じりじりと心を削り取って行く。
私が守るべき弱者というのは――一体何だろう。弱者の吐き出した呪霊を、強者である私たちが払うということ。
それはまるで、弱者に搾取されているような構図に思えて。
心が揺らぐ。
真っ黒に――塗りつぶされようとした、その刹那だった。
「……夏油君、大丈夫?」
うずくまっていた私の肩を、控えめに触れた者がいて。あたたかな声をかけた者があって。
呆然と顔を上げたその先に、心配そうにのぞき込む彼女の姿があった。
雪名は何も答えない私に、言葉を失った。
再び抱えた膝に顔を埋めると、そっと肩のぬくもりが離れていく。
行くな、という一言が出てこない。
けれどもそれでも致し方がないと思った。彼女だって忙しい。あるいはこういう時、『一人にしておく』という選択肢も取れるほどには、距離感を図る人だから。
安堵と絶望が行き来する中――肩に柔らかいものがふれ、すぐ隣に。彼女が座ったのが分かった。
「……雨、降りそうだね」
柔らかい声だった。
まるで、私のことなどなにも気にしていないような。あるいは、すべてを赦し、受け入れるような。
普段は硬質で、どこか人を寄せ付けない雰囲気を持つ彼女が時折見せる、無条件の許容。
猛烈に、縋りつきたくなった。
けれどもそれができなくて、腕をつかむ手に力を籠める。
「……雪名は、術師として。迷うことはないのか」
伏せたまま問うた私に、彼女はややあってから、まあねと返した。どこまでも軽く、しかし人間臭い温かみにあふれた声で。
「むしろ、迷うことしかない」
「どんな……時に」
「基本いつも迷ってると思うよ。でも、迷うけどちゃんと選ぶ」
「そこに、どんな軸が」
「最悪の事態を回避するってことがマストだな。こういうの、ミニマックス原理って言うのかな。ゲーム理論における合理的選択基準の一つ。あとは、自分にすべきことを……って方向もあるけど、術師のすべきことなんて『呪霊を払う』それ一択でしょ。その中でさらにって考えると、これなんだよなぁ」
「その選択が、……未来の後悔につながっても」
情けない声を出す私の隣で、彼女はくすりとかすかにのどを震わせて、笑った。
ぽんと、背中に手が乗せられる。
「後悔は先に立たないもんだよ。だから選べる。いつだって私はその時取れる最適の行動をしてる。そう自分に言い聞かせてるから」
「雪名は……強いね」
「またそれ。夏油君は弱いの?」
弱い。君よりはもっとずっと、絶望的なくらいに弱い。
けれどもちっぽけなプライドが邪魔をして、それを告白することができない。
まるでここが、教会の告解室のように感じられる。
強く正しい聖職者を前に、口をつぐむ信者のよう――。
「でもねぇ。そうやって悩んだり迷ったりするのって、大事だよ。迷うの悩むのも、優しいからできることだし。色んな可能性を考えて、色んな人の幸いを考えてるから、……色んなものが衝突して、苦しい。特に若いとさ、経験も浅くて判断の基準も未熟だから、余計に悩む」
「……まるで、何十年も生きてきたみたいに言う」
「耳年増ってやつかな。ちょっと違うか」
そう言って彼女は、屈託なく笑った。
それでも顔を上げない私に、雪名はゆっくりと腰を上げた。
「でもまあ。しんどいときに、しんどいって言えるのは超大事だよ。これから先、人生長いんだし。愚痴吐いて、毒吐いて、すっきりして。ぼちぼちやってこうよ」
――行くな。
思わず出した手が、彼女の手首をつかみ取った。
ぴくりと、雪名がかすかに驚いたようにしたのが分かる。
どこに行ってほしくなくて。ひとりにしてほしくなくて。
ひどい顔をしているとは分かっていても。こんな顔を見られたくはなかったけれども。
顔を、上げた。
「……っ雪名、」
笑えるほどに、震えた声が出た。
その名前を、呼ぶのが精いっぱいで。けれども呼ぶことで、なんらかの救いが得られるかもしれないと。あさましくもそう思ってしまった。
――それほどに、大切な響きになっていたことに、後から気づく。
「いや、……その。取り乱して、すまなかった。私はもう、大丈夫だから」
本当は大丈夫なんかじゃなかった。本当は、全く取り繕えていなかった。こんな面を引っ提げて、どの口が。
けれども、そんな言葉が口を突いて出た。長年の習慣とは恐ろしい。
その、瞬間。
柔らかな香りと感触に、体が包み込まれた。遅れてきた、温かさ。
抱きしめられていると気づくのに数秒かかった。
「夏油君、……私がいるから」
震えているのは、私の方なのに。彼女もまた、小さな体を震わせて、縋りつくように私の体を抱いていた。
そうと自覚した瞬間、理性がはじけ飛ぶのが分かった。
無我夢中で華奢な体を抱き竦めて。彼女がバランスを崩して腕の中に飛び込んでくる。そうして体のどこもかしこもが密着し――ようやく、息が吸えるような気がした。
まるで、脳裏に。毒が流し込まれたような――ひどく甘美な倦怠感が、押し寄せる。朦朧とした意識の中で、さらに腕に力をきつく籠めた。
柔らかい。暖かい。
この熱が、欲しい。
「雪名、……」
そう思った、刹那。
胸に、手がかけられた。そうして、思ってもみない強い力で押され――彼女の体が遠ざかり、二人の間に少しばかりの距離が生まれた。
壊れそうな――。泣きそうな顔で、雪名は笑っていた。
「私だけじゃない。みんな、いるからね。夏油君、ひとりじゃないんだよ」
負けるな。
一言そう言うと、呆然とする私の腕をやんわりとほどいて、彼女は立ちあがった。
「……五条君、長丁場の任務から帰ってくるね。今度、彼のおごりで寿司でも行こうよ」
そう言って、立ち去って行った。
――それからしばらく経って、雨が降ってきた。軒下なので濡れることはなかったが、ひどく冷えた。
私は茫然と、彼女の行動と言葉の意味を反芻していた。
なにも分からなかったが、ひとつだけ。
何かが終わった気がした。
けれど、それが何なのかを、私はその時まだ知らなかった。
絶望はなかった。落胆がなかったかと言われると、分からない。しかし、
「みんながいる、か……」
不器用なその一言が、まだ少しだけ。信じていてもいいのではないかと。
なにかを回復してくれたような気がした。
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