二年の灰原と七海との遠方の任務で、雪名は負傷して入院を余儀なくされた。
ただ、本人が反転術式を回しながら戦闘していたせいか、肉体的な負傷はほとんどない。――搬送時は一時心肺停止状態だったが、迅速な処置が行われ、一命はとりとめた。
検査の結果、出血や梗塞などの明らかな損傷はないが、一部脳の血流が低下し、意識障害を引き起こしているらしい。
診断名は、遷延性意識障害。
――術式多用が、脳へ重度のダメージを与えた結果だった。
遠方での任務だったことから、入院先は地方の中核都市の病院となった。私たちは暇を縫っては病室へと足を運び、眠る彼女へ声をかけ続けた。
「雪名、今度は私一人で任務へ向かうよ。山奥の山村だ。お土産はなにが良いかな。食事は取れないだろうから、食べ物以外かな。……雪名、変なお土産好きだったよね。変なタペストリーとか、木彫りの熊とか。変なTシャツでもいいかな」
「雪名がいないから、悟も硝子も寂しそうだよ。……もちろん、私もね。夜蛾先生まで、どこか哀愁が漂っているように見える。七海も灰原も。……そうそう。フィールドワークが楽しかったって、灰原が言っていたよ。……私も行きたかったな」
「この前、悟に全部打ち明けたよ。君に言われた通り、全部吐き出した。……気持ちが楽になった。こんなことなら、速く打ち明けていればよかったな」
「私の途方もない考えを、悟は否定しなかった。……もしも、なんてことはないほうがいいけど。その時は雪名もスカウトしようかな。もちろん硝子も。悟の無下限と、私の呪霊操術。物事を正確に分析する君の眼と、硝子の反転術式があれば、怖いものなしだ」
「……冗談だよ。きっと雪名に『馬鹿言ってんじゃねー』って、蹴り飛ばされるのがオチだろうね。そういえば、雪名の『お散歩パンチ』も久しく見ていない。ひとり黙々と訓練していたから、きっと威力も桁違いなんだろう。痛いだろうなぁ……」
「雪名。……君がいないと、」
一瞬、彼女が――笑ったような、気がした。
眠る雪名を食い入るように見つめるが、その表情は微動だにもしない。静かに目を閉じて、規則的な呼吸を続けるだけ。
気のせいか。自嘲気味に笑って、椅子から腰を上げる。
そっと、手を伸ばす。
触れた頬は柔らかく、暖かい。――こんなにも、生きているのに。彼女の眼が開かず、声も聞こえないということが。
たまらなく、胸に重く響く。
「……また来るよ。今度は硝子が来るってさ」
そっと額を撫でる。手を離すのが、名残惜しい。
――しかし、新幹線の時間がある。
明日には、私も任務へと向かわなければならない。後ろ髪をひかれる思いで、病室を後にした。
そうして私は、翌日、地方への任務へと赴いた。
移動のさなか、硝子から連絡をもらった。
雪名が目を覚ましたと。入院から十日目のことだった。
「雪名、……っ」
ひともまばらな新幹線の車内、――声にならない声をあげて、うなだれた。
熱いものがこみ上げ、全身から力が抜け――心地よい虚脱感と、相反する高揚した気分。自分でも、言語化の難しい感情だった。
彼女が目を覚ましたことは、心の底から――全身全霊で感じるほどに、嬉しい。
その場に立ち会えなかったことなど、些細なことで。
しかしその些細なことなのに、――どうしてあと少し早く。私がいる時に、その目を開けてくれなかったのか。私の名を呼んでくれなかったのかと。
言いようのない感情を抱えたまま、現地入りしたのだった。
とある山村で頻発する、村落内での神隠し、変死。その原因と思われる呪霊の祓除――。
それが今回の任務だった。呪霊の等級は、準一級相当。特級となった私にとっては、さして難しいものではなかった。
呪霊の討伐は、つつがなく終わった。
しかし問題は――その後、だった。
これも見てほしい、と言われて案内されたとある屋敷。
奥へ奥へと進んでいくと――そこに、格子で覆われた部屋があった。正確には、部屋の一画が格子で覆われた、いわゆる座敷牢というもの。
かつて、精神疾患の者が他者に危害を加えないように、あるいは他所の目から隠すために設けられた、家庭内の檻。
こんなものがまだ存在していたのかと、驚くより先に。
そこに捉えられた、小さな姿に、目が釘付けになった。
「これは……なんですか?」
檻の中で、抱き合うようにして身を寄せ合う、小さな子供。
暴力を加えられたのか、その顔面は腫れあがり、あるいは皮下出血を起こして、見るのも痛々しい。
――その醜悪な光景に、眩暈がした。
「なにとは? この二人が一連の事件の原因でしょう?」
村人が言う。
――分からないが、断片的に分かった。
この子供たちには、呪力がある。おそらく、術式も。――排他的で閉鎖的なこの村落社会で、この子らはきっと『そういった』扱いを受けてきたのだろう。
「違います」
「この二人は頭がおかしい。不思議な力でたびたび村人を襲うんです」
「事件の原因は、もう私が取り除きました」
「私の孫もこの二人に殺されかけました!!」
女性の言葉に、座敷牢の中から声が上がる。
「っ、それはあっちが――」
「黙りなさい化け物め!! あなたたちの親もそうだった! やはり赤子のうちに殺すべきだった!!」
醜悪な現実が、目の前に広がっている。
――心の奥底では、ほらなと嫌悪する自分がいる。こんなにも見にくい猿どもが。自身の恐怖や怯懦から、呪霊を生み出していることにも気づかず、お門違いににも責め立てる。
守るべき価値が、本当にあるのか。
あの日聞いた、――拍手の音が耳の奥で蘇る。
『もしもの時は、付き合ってやるよ』
明るく笑い飛ばした悟の声が、聞こえた気がして。意識がはっと現実に戻ってきた。
相変わらず、吐き気のするような光景だ。
しかし、不思議と――どこかひどく、冷静な自分がいた。
「皆さん、一旦外に出ましょうか」
「しかし、」
「出てください。早く」
私の声に、男女は顔を見合わせながらも、不承不承部屋の外へと出て行った。
残されたそこで、座敷牢の子供へと向き直る。
「……君たちは、」
「お姉ちゃんのおともだち?」
私の言葉を遮るようにして、子供のうちのひとりが口を利いた。
お姉ちゃん? いぶかる私に、子供は続ける。
「東京から来た、お姉ちゃん。絶対にたすけてくれるって、約束したの」
「東京から、……来た……? お姉ちゃんって、どんなお姉ちゃんだった?」
「つよいお姉ちゃん! 美々子と菜々子のことね、むかえに行くねって。約束したの。っだから、美々子も、菜々子も……お姉ちゃんのこと、まってて……」
――瞬間、脳裏によぎった名前が、思わず口を突いて出る。なぜ、そう思ったのかは分からない。しかし、絶対的な予感だけが、あった。
「……雪名……?」
私の声に、二人は顔を涙にぬれた顔を見合わせた。心底から、安堵したような。身を寄せ合う二人に、言いようもなく胸が締め付けられた。
なぜ――とは、もはや考えない。
意味がないように見えて、彼女のすることには必ず何らかの『意味』があった。私にも悟にも理解不能な、雪名だけのビジョンが、彼女にはある。それに幾度となく救われてきた、私だからこそ分かる。
「そう、私は『お姉ちゃん』に頼まれてここに来たんだよ。……君たちを、『助ける』ために」
私は携帯を取り出すと、その場で夜蛾先生へと連絡し、状況を報告した。
呪霊討伐は完了したが、非術師に虐げられ監禁されている術師の子供がいる、と。
数秒の沈黙のあと、受話口の向こうで夜蛾先生が低く息を吐いた。
『状況は分かった。……その子供たちに外傷は?』
「あります。打撲、裂傷、栄養失調の兆候。長期間の拘束と思われます」
『……命の危険は』
「現時点ではありませんが、放置はできません」
また、短い沈黙を挟む。
『……よし。現場判断で一時保護を許可する』
その言葉に、胸の奥で何かがわずかにほどけた。
『ただし正式保護は上層部判断になる。村人との衝突は避けろ。まずは子供の安全確保を優先しろ。補助監督を向かわせる』
「了解しました」
『傑』
「はい」
『……感情で動くな。あくまで術師として処理しろ』
一瞬だけ、言葉に詰まる。
「――分かっています」
それだけのやりとりで、通話を切った。携帯を下ろし、座敷牢の二人へと向き直る。
「今からここを出る。怖くないよ。……私がついている」
鍵は粗末なものだった。呪力を込めるまでもない。少し力を入れるだけで、軋んだ音を立てて外れる。
格子が開いた瞬間、二人は一歩も動かなかった。
出ていいのか、分からないのだろう。
「大丈夫」
そう言うと、ようやく――恐る恐る、片方が外へ足を出した。
軽すぎる。
抱き上げた体は、驚くほど軽かった。痩せ細った腕が、私の服をぎゅっと掴む。
――その感触に、胸の奥で何かが軋んだ。
屋敷の外へ出ると、待ち構えていた村人たちがざわめいた。
「何をするつもりだ!」
「その子たちを外へ出すな!」
「村が滅びるぞ!」
誰一人として、子供の怪我を心配していない。
ただただ、恐れている。
それだけだった。
「呪霊はすでに祓除しました」
静かに告げる。
「一連の事件の原因は呪霊です。この子たちではない」
「嘘だ!!」
「そいつらが来てから不幸が増えた!!」
「村から出すな!!」
――分かっている。
彼らは本気で言っている。悪意ではない。恐怖だ。無知だ。
そして、どうしようもなく――普通の人間だ。
胸の奥で、どす黒い何かがゆっくりと滲む。
だが。
悟の声が、脳裏で笑う。
――指先が、ほんの少し震えた。
それを握り込んで、私は息を整えた。
『もしもの時は、付き合ってやるよ』
――まだ、その時じゃない。
「この二人には、呪術師の素質があります」
はっきりと言った。
「高専で保護します。これは正式な呪術師側の判断です」
ざわめきが一段と強くなる。
「連れていくな!」
「祟るぞ!」
「責任取れるのか!」
私は答えなかった。答える必要がなかったから。
遠くから、車のエンジン音が聞こえた。補助監督だ。車が止まり、ドアが開く。
「夏油さん、こちらへ!」
「お願いします。医療処置を最優先に」
後部座席へ二人を乗せる。
その時、小さな声が聞こえた。
「……もう、閉じ込められない?」
胸が、締め付けられる。
「――ああ」
短く答えた。
「もう大丈夫だから」
二人は、ようやく小さく息を吐いた。
車のドアが閉まる。
村人たちの怒号は、まだ遠くで続いていた。
私はしばらくその場に立ち尽くし、空を見上げた。
雲は、低く重く垂れ込めていた。
――この世界は、どうしてこうも歪んでいるのだろう。
まだ、答えは出ない。
永久に出ないのかもしれない。けれども、今はそれでもいいと思える。
しかしながら――この小さな子供たちを、地獄から救えたという事実は。確実に、私の心に大きなものを残した。
私の膝を枕にして眠る子供を見ながら、思う。
――一体、彼女には。
何が見えて、何を考え、……行動したのだろう。
それは本人に聞いてみないと、分からない。
けれども。……救われたのは、この子たちだけではないのは、確かだった。
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