疲れているときに限って体に悪いことがしたくなるのは、一体どういう心理だろう。
否、もしくは本能というか生理現象というか。枯渇した糖分を補いたいとか、疲労回復に効果のあるクエン酸を摂取したいとかいうのは分かるが、どう考えても疲労困憊の肉体には毒にしかなりえないジャンクフードを無性に食べたくなったり、タバコが吸いたくなったり。
頼めばこの時間からでも揚げ物を作ってくれそうな男士はいるが、さすがに自身の刹那的快楽のために刀剣男士の睡眠時間を削るのも、自身の健康を阻害するのも憚られる。二秒くらい悩んだ結果、喫煙に踏み切った。
煙管でもパイプでも葉巻でも紙巻きたばこでもない、ノンニコチンかつノンタールの電子タバコ。申し訳程度に健康面へ配慮した結果のチョイスだった。
アトマイザーになみなみとリキッドを追加すると、スパスパと吸いながら喫煙所へと向かう。すでに部隊を解散して近侍も下がらせてずいぶん経つから、周囲に人気はない。どうせ匂いは残らないし灰が落ちることもないから、なにも構うことはない。そうでなくとも、執務室から一番近い喫煙所は審神者と近侍以外の利用者はなく、そもそも喫煙者の近侍がほとんどいないから、私以外に好き好んで近寄る者なんてないわけで。まあ、非喫煙者、とりわけ嫌煙の誰それに見つかると厄介かもしれないが――
足を踏み入れようとして、ふわりと嗅ぎなれた紫煙のにおいに気づいてぎょっと目を見開く。そんなまさかと思いながら、気持ち早足になって喫煙所を目指すと、
「お疲れさん。来ると思ってたぜ」
四阿風の喫煙所、L字のベンチに腰かけたソハヤが手を挙げて歓迎した。思わず立ち止る。
「どうしたの」
無感動な表情で無感動な声しか出せなかったのは、驚きすぎたせい。まさか彼がこんなところにいるとは思わなかったのだ。
彼の率いる部隊が夜戦を終えたのが朝方で、しかし引継ぎやらなんやらで結局ソハヤが詰所を後にしたのは昼過ぎだったと聞いているから。彼だけではない。今回の任務では、部隊長クラスの刀剣男士は全員そんな塩梅だと聞き及んでいる。
連戦に次ぐ連戦を強いているから致し方ないわけだが、その超絶怒涛の地獄の作戦、後始末まで含めてすべて終わったのが、ついさっきだったというわけだ。
疲れているだろうに。そんなことを思いながら立ち尽くしていると、ソハヤがベンチから立ち上がった。そこでやっと我に返ると、その時はすでに目の前に彼がいた。
「大丈夫か。嬉しすぎて放心したか?」
そんな憎まれ口にも、
「あ、……うん」
普段通りのリアクションも取れないくらい――ああ、それほどひどく疲れているんだなと実感する。こりゃ重症だな、というソハヤのつぶやきに、その通りと心の奥底で同調する声があった。
「運んでやろうか? お姫様だっこで」
からかうようにソハヤが言う。ここまで疲れていなかったら、彼の望む愉快なリアクションが取れたのだろうが、もういかんせんそんな元気がない。
「お頼み申す」
恥じらいも戸惑いもなく、ただただ両手を広げて請うと、いよいよ重症だなとソハヤは苦笑した。煙草を灰皿スタンドに押しつけて消すと、軽々と抱き上げてくれた。
ふわりと香ったのは、タバコとかすかなシャンプーの匂い。シャンプーは万屋に売ってあるありふれた量販品だが、ソハヤのにおいと混じることで世界にひとつだけの、私にとって得も言われぬ魅惑のフレグランスへと早変わりだ。夜戦明けで一眠りして、食事をしてひと風呂浴びて……主はグロッキーかな? なんて思いながらここで煙を吸いながら待っていたのだろうか。愛しかないが。
肩口というか首筋と云うか、顔を押しつけてすーっと匂いを吸い込む。肺腑いっぱいに好きな人の匂いで満たされる。幸せってこういうことを言うのではなかろうか。
「いきなり匂いを嗅ぐやつがあるかよ。しかもロングブレスだなおい」
変態行為に引きもせず、ソハヤは肩を揺らして笑った。
「私の肺活量舐めないで。このために鍛えてるってなもんよ」
はぁああ……とため息交じりにもう一回吸い込むと、くすぐってえとソハヤが身をよじる。小柄でもない成人女性を抱えてもびくともしないその肉体、そう、この薄いタンクトップ越しに感じる肉体の逞しさにうっとりとせずにいられない。めっちゃ幸せやがなこれ。
「ねえ、知ってる?」
首に腕を回して肩口に顔を埋めながら某豆の妖怪みたいなフレーズを口にすると、なんだよとソハヤが返す。
「好きな人とハグすると、疲労回復やストレス解消に効果的なんだって」
ふふんとばかりに雑学を披露してやると、ほおぅとソハヤが声を上げた。この間にも、セロトニンだとかドーパミンだとかの脳内物質が産生されているのだろう。やっぱり幸せってこれのことを言うのだ。
そうやってひとり噛みしめていると、側頭部にこてんとかるくぶつけられたものがある。ソハヤの頭だった。
「じゃあこれは知ってるか?」
ソハヤが言う。声が近すぎてちょっとぞわぞわする。くすぐったくて忍び笑いが漏れた。
「なーに」
「好きな人とのハグは、性欲も高まるんだぜ」
下世話なことを言っている割に、口調はどこまでも優しく甘い。これが手口なのか、あるいは単なる冗談か決めかねるところ。
「テトリスを三分プレイすると性欲は収まるらしいよ」
「あいにく両手がふさがってるからな」
「やだあおりたくない! かといってソハヤに付き合う元気もない、一っミリもない!」
首にしがみついてヤダヤダと駄々をこねると、冗談だよと子どもをあやすようにされた。そんなことは分かっているがまあ、一応念のためと言うかなんとうか――
「んな鬼畜なことしねえよ」
笑いまじりのソハヤに、私は食い気味で主張する。
「私は、私自身の対ソハヤに関する忍耐力だけはこの世で一番信用してないからね。そこはソハヤに気を付けてもらわないと」
「……一回ベンチに下ろしていいか?」
テトリスさせてくれ、とソハヤが弱弱しく告げた。
携帯端末で黙々と無料のテトリスゲームをする彼の斜め向かいで、私はベンチにだらけて水蒸気を吸って、吐いて――幸せをかみしめるのだった。
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