時に愛は - 1/6

 覚悟が足りなかったのだと言われれば、それまでだろう。
 しかし決して、なんの覚悟もせずに審神者になったわけではなかった。
 歴史が改変されるなんてことは、あってはいけないと。
 先人たちが命がけで築いてきたこの歴史を守りたいと、それはそれは崇高な志と高潔な思いを胸に秘め、本丸に入城した。
 歴史修正主義者との戦いには、まことに終わりが見えない。勝利して当たり前であり、逆に敗北を喫すれば「歴史が変わってしまう」――そうして、変わってしまった歴史がどうなってしまうのか、それさえもよく分からない。
 幸いなことに、彼女の刀剣男士たちは皆々よくやってくれた。すべての任務を忠実にこなし、一度たりとも敗北を喫することなく歴史をまもり続けてくれている。正しい歴史の流れを。
 それでいいと思っていた。それさえ出来れば、この戦いに貢献出来ているのだと。それで自分の務めは果たしているのだと、心の底からそれを信じ切っていた。
 しかし実際のところ、戦いというのはそう単純なものではなかった。
 審神者は実際には戦わない。実際に戦うのは、彼女が顕現した刀剣男士たちである。審神者に出来るのはほんのわずかなことでしかなく、戦の大部分を担っているのが彼らだ。
 刀剣男士というのは、この戦争に勝つために投入された「武力」だ。本来は刀剣であり、その本性は武器、そして道具。戦うための道具なのだから、戦うことに関しては特に何のこだわりもなく、そうしてくれるものだと審神者は思っていた。
 しかし、違った。
 あるいは、刀剣男士とは――実在する、あるいは逸話の中に生きる、千年から幾百年ものときを永らえたる存在。人智を超えたもの。付喪の神といえども、神は神。人間のように、些末なことに惑わされる弱さはないのだと信じていた。寛容で、達観していて、人間という者を俯瞰して見つめているような――そんな、想像上の「神」を重ね合わせて、偶像崇拝していた節さえある。
 しかし、違った。
 肉体を得たばかりの彼らは、どうしようもなく「心」というものに苦しんだ。道具であった頃にはできなかったことができるようになるというのは、喜びも苦しみも悲しみも怒りも、あらゆる感情をもたらした。そうしてその複雑な感情というのは、彼らに、道具であればこのような思いをすることはなかったのだと、痛烈に悟らせた。
 道具であった頃、彼らは主に従って敵を(敵以外も)斬った。意思決定はすべて主にあり、彼らは従うだけでよかった。しかし今、彼らは自分の意思決定において敵を(敵以外も)斬らなければならない。それが一体どういうことなのか。
 ――それに気づかされたのは、すでに審神者に就任して二年ほどが経った頃だった。とある刀剣男士からの手紙に綴られた苦悩が、どうしようもなく気づかせた。
 刀剣男士たちが、心と体を得たことで感じる痛み。血を吐くような思いの吐露に、涙があふれた。
 長い長い手紙であった。それを読み解く中で、彼らが不完全な存在であることを知り、また、自身が彼らに完璧な「神」という虚像を見ていたことを知った。
 そうして漠然と、己の無責任さを痛感した。
 自分は彼らを道具としてしか見ていなかったのだと。戦う彼らの思いに一度でも寄り添ったことがあっただろうか。その内面を考えたことがあったか。
 審神者こそ――それを一番にくみ取り、ともに背負わなければならぬ存在であるというのに。それこそが、彼らに「生」の痛苦を負わせたものの責務ではないか。
 審神者としての本当の責務に気づいたとき、やっていく自信がなくなった。どうやって背負えばいい? 背負いきれるとも思えない。しかしすでに賽は投げられた。もはや戦っている、戦いに身を置いている。背負わねばならない。受け止めねばならない。それができぬなら、刀剣男士をすべて刀に還し、自身も審神者という職を辞さねばならない。
 それほどの気概を持って、審神者は職務にあたった。
 もともと、戦に関してはさほど役には立たないから、軍議にはあまり顔を出していなかったが、訳は分からずとも必ず軍議に参加するようにした。彼らがどのように考え出陣するか知るためだ。
 何か思うところがあれば、必ず伝えてもらうようにしたし、自身でも彼らの変化を見過ごさぬように、常に刀剣男士たちに目を配った。
 あるいは、それまではさらりと済ませていた戦果報告も、倍以上の時間をかけて行うようになった。逐一彼らがどう思ったか、どう感じたか、辛いことはなかったか、その逆はなかったか、じっくりと話を聞くようにした。そうすることで、彼らの背負っているものを共有し、解放したかった。
 審神者が変わった、という者がいた。親身になったという者もいたが、以前より笑わなくなったという者もいた。しかし前者の声が嬉しかった。審神者が「親身に」なると、執務室には近侍以外の刀剣男士が入れ替わり立ち代わり訪れるようになった。
 顔を見に来るだけの者、軽くおしゃべりをしに来た者が大半だったが、中には深刻な顔をして来る者もいて、――そうした者からは、時に、深い嘆きや悲しみ、答えの出ない問いを投げかけられたものだ。

 主はなんのために戦っている?

 とある刀剣男士が問うた。歴史を守るためと答えた審神者に、なぜ歴史をまもりたいのか、とさらに問いが重ねられた。
 先人たちが命を懸けて築いた歴史を守りたい、それを改変することは許されない、と決まり切った答えを口にすると、――そもそも、と刀剣男士は表情を曇らせたのだった。

 その歴史に、守るべき価値はあるのだろうか。正しい歴史とはなにか。正しい歴史とは一体誰が決めるのか?

 真剣に問いかける彼に、審神者は答えるべき言葉が見つけられなかった。それを疑問に思ってしまえば、戦う意義を見失う。しかし戦うからには、自分が命を懸けて戦うものがなんなのか、それに正当性があるかどうか、確信しておきたい。
 何も答えない審神者に、刀剣男士は見る間に失望したような表情になっていった。それも答えられぬ者を、主に据えているのか。そんな者の下で戦っているのか。伏し目がちの彼の目元に、色濃い失望の念を感じ取って、しかしそれでも審神者は何も答えられなかった。
 彼は、変なことを言ってすまなかったと去って行った。
 その日から、審神者は思い悩んだ。自分が何のために戦っているのか、分からなくなってきた。
 ――とはいえ、この問答は初めてではなかった。過去にもこのように思い悩み、精神を削り取られた経験がある。
 時折、わからなくなるのだ。この戦いはいつ終わるのだろう? 敵の正体はなんなのだろう? 守るべき歴史とはなんだろう? この戦いに意味などあるのだろうか?
 あらゆる問いが浮かんで、最適解を見つけられずにうやむやになっていく。問いは霧のように胸中にとどまって、決して消えることはなく、その細かな粒子が少しずつ心を削り取っていくのだ。

 前回はいつだったか。そうしてどうやって回復したか。

 そんなことを考えながら飲む酒は、ちっとも美味しくなかった。
 味がしない。酔いが来ない。刀剣男士たちの、底抜けに明るい声を聞きながら、審神者はグラスを傾けぼんやりとする。
 核並みの爆弾を投下していったかの男士の姿は、宴会場には見当たらない。もともと酒に弱いと聞いていたから、そもそも顔を出さなかったのか、早い段階で切り上げたのか。
 思い出す。――そういえば、前回は酒を入れて腹を割って話し合った。しこたま酔っぱらった審神者は、同じ問いを投げかけた別の刀剣男士の肩をつかんで、熱弁をふるった。
 なんのためにというのは分からないが、祖先たちが戦って勝ち得た未来が今自分の生きている世界であり、それが崩れれば自分もなかったことになるかもしれない。今ある事物をなかったことにするのは、正当ではないような気がする。過去を変えられないからこそ、人は未来を向いて生きていくことができる。間違ったから過去に立ち返ってやり直せばいいというのは、どうにも卑怯だと思う。だから、歴史は守らなければならないと思う。そのために私は戦う。
 呂律の回らない口調で言った審神者に、相手は頷いた。主がいなくなるかもしれないのは困る、と。そうして彼は受け入れてくれた。
 そんなことを思い出し、審神者はため息を吐いた。あれは、「彼」だったから納得してくれたものであり、【彼】には通用しないだろう。【彼】とはまだそこまでの信頼関係が築けていない。
 結局審神者は、トイレに立つふりをしてそっと宴会場を後にした。酒もつまみも、なにもかも味がしなかった。賑々しい刀剣男士たちの声も遠くに聞こえて、まるで自分ひとりだけそこに存在していないような、非常な孤独感さえあった。
 仕事のやり残しはなかったか、と審神者はその足で執務室へ寄った。この孤独感を抱えて、寂しい奥でひとり寝したくなかったからだ。喧噪を遠くに聞きながら、城の奥部へ進んでいく。大広間の声も届かぬそこが、執務室である。
 昼間、執務室はにぎやかだ。審神者がいて、近侍がいて、呼ばれていなくとも誰かしら暇な刀剣男士がいる。暇でないはずの刀剣男士もいて、それを窘める者もいて、笑い声があったり、説教や文句を垂れる声があったり、常に誰かのぬくもりがある。
 それが今、ない。自身の、審神者としての本質を示しているようで息が詰まった。
 それ以上足が進まず、審神者は立ち止まり、結局中へ入ることはしなかった。縁側に腰かけると、柱に身を寄せてぼんやりと天を見上げる。
 ――なんのための戦いなのか。
 結局、答えなんて何年悩んでも出ないままだ。むしろ、このまま一生出しえないのかもしれない。とはいえ、きっと思い悩むのは一時的なことであり、こんな風に宴会を出来る暇もないほど忙しくなってくれば、そんなことを考える余裕もなくなり、一心不乱に仕事をするだけだ。
 そこに審神者の「私」はなく、いかに戦いいかに効率よく勝つかを考える、戦うために戦わせる「機械」がそこにあるだけ。そうして「機械」が「機械」に戦えと命ずる。……本当にそれでいいのだろうか、分からない。ひとつだけ言えるとするなら、悩み苦しむ頼りない主に、刀剣男士たちは決して従わないということだ。
 目を閉じていると、ひたひたとわざとらしい足音がした。本来、刀剣男士たちは戦う者のさがなのか、足音がほとんどしない。わざとらしく足音をさせるということは、相手に気づかせるためのものだ。相手が主であるなら、なおのこと。
 眠ったふりをしようか。誰かは分からないが、相手をするのが少しだけ面倒だと感じて審神者は思案する。しかし、眠ったふりしたところで、世話焼きの刀剣男士なら、なおのことちゃんとしたところで眠るように言うだろう。
 目を開けた、その瞬間。
「残業というわけでもなさそうだね」
 穏やかな声が、心地よく鼓膜を打った。静寂を邪魔しない、夜の闇にすうっと溶け込むようなしっとりとした声だった。審神者は柱にもたれていた頭を上げて、ちらりとそちらへ目線を向ける。
 想像通り、にっかり青江が立っていた。
「……そうだね」
 か細く答えると、青江は審神者の数歩手前で立ち止まった。それ以上会話をつなげることもなければ、それ以上近寄ろうともしない。主の出方を待っているのだろう。
 収まれ、と審神者は高鳴り始めた心臓に命じる。が、口頭の命令など聞いてはくれないのが、この握りこぶしより大きな筋線維の塊である。
「どうしたの?」
 沈黙に耐えかねて、審神者がかすれる声で問いかけると、どうしたんだろうねという曖昧な答えしか返ってこない。一瞬ごまかされたような気になるのだが、実はそれが計算された回答であるのだと――審神者は知っている。
 オウム返しの亜種のようなものだろう。相手に話す気があるなら会話を続けるだろうし、話す気がないならそこで打ち切りとなる。会話を続けるかどうかを相手に委ねる、彼なりのテクニックだと審神者は分析している。
 ――そもそも、こんなところまで彼がやってきたということは、はじめから審神者を案じてのことに違いない。でなければ、近侍というわけでもない彼がわざわざ、それも業務時間外に、執務室へ用のあるはずがないのだから。
 そういうところも含めて、審神者はにっかり青江のことが、たまらなく好きだった。
 もうずっと長いこと、恋をしている。
 誰にも打ち明けたことはない。当人にも、当人以外にも。
 ふと、己の恋心を再度自覚した、その瞬間。
 身内で何かが激しく暴れだすのを感じた。心が、体が、抑えきれない。熱暴走。細胞のすべてが沸騰するほどの熱で、思考回路が焼き切れた
(これはいけない)
 しかし、そう思ったときには遅かった。やめてくれと思うのに、心は恋しいと求めてしまう。
 なんでもないようなふりをして、本当は細かな気遣いにあふれてるところとか。
 思わせぶりなことを言ってみせるけど、出来ない約束はしないとか、決して嘘はつかないところとか。
 飄々として構えているようで、誰よりも周囲に目を配っているところとか。
 ミステリアスな言動の裏に、誰かの心を大切にする優しさがあるところとか。
 その目。掌。声。……好きなところをひとつひとつ数え上げてしまう。
 億劫そうに瞬きをするとき、実は照れているとか。髪の毛を触ってるときは思案しているときの癖とか。もはや、止まらない。止められない。
「好きなの、青江のことが」
 口にした瞬間、泣きたくもないのに涙がこぼれ落ちた。これまで抑えに抑え続けた思いが、ついに堰を切ってあふれ出したのだろう。到底止められるものではなかった。
「こんなこと、言うべきではないと分かってる。審神者が刀剣男士に抱いていい思いではないって分かってる。本当は言うつもりなんてなかった。でももう、抑えきれない。……きっと、これ以上は」
 ――突き放してほしい、と審神者は思った。
 突き放してくれるのではないか、とも思った。審神者と刀剣男士にはふさわしからぬ感情だと。そんな立場にはないのだと、どうか無下にしてほしい。それで諦めがつくのだ。否、ただひとこと、ごめんと言ってくれさえするのなら。

 穏やかな声が紡ぎだした言の葉は。
「僕は、どうすべきなんだろう」
 例えばそれが、戸惑いや拒絶に満ちていた声だったとしたら。それはそれで、彼を困らせてしまったのだ、望みなんてないのだと、諦めがついたかもしれない。
しかし、彼の口から紡がれたのは、戸惑いも躊躇いもない確信的な響きの言葉で。予想外であり、しかしそれは甘美な言の葉でもあった。
 もはや、理性をなくした審神者には己を止めることができない。

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