おねだり

 はじめは耐えられないと思った。
 絶対に死んでしまうとさえ思った。
 しかし慣れというのは恐ろしいもので、回数を重ねるうちに、死んでしまうとか耐えられないという思いは薄れ、最終的には「まあそういうものか」と心穏やかに過ごせるようなった。
 今、審神者は極めて無防備な状況にある。
 なにをしているかと言えば、つまるところ、清麿に化粧をしてもらっていた。
 清麿は器用だ。
 料理や掃除はもちろんのこと、着付けも髪型のセットもお手の物である。それはいつぞやの任務で彼が女装した際に発揮されたわけだが、流石に化粧は未知の領域だったらしく、そこは審神者が手伝った経緯がある。
 肌理の細かい白い肌は薄付きのファンデーションで十分カバーできたし、元が整った顔貌であるため、そう厚化粧を施す必要がなかった。加工はほんの少しだった割に、出来上がった清麿はなんとも言われぬ色っぽい美人であり――これについては、改めて深く言及する機会を設けたい。
 自分が美しくなるのももちろん、他人が美しくなっていく過程はなんとも興味深いものだ。特に、ひっそりと生唾を飲むような美女となった清麿のそれは、驚嘆の域を通り越してもはや放心するほかなかった。
 そうして、そう感じるのはなにも審神者だけではなかったらしく、清麿も美しく粧うということに興味を惹かれたようだった。
 それからほどなくの準備期間を経て、清麿の器用な事柄リストの中に「化粧」という項目が入るようになった。自身に化粧を施すことのない彼の腕前がどこで発揮されるかというと、それは審神者以外にない。
「ねえ、お願いがあるんだ」
 と可愛らしく甘くおねだりされると、なかなかNOとは言いづらい。
 というか、清麿に対しNOと言えたためしがない審神者である。
 彼の言葉や態度には決して圧力も強制力もないのに、逡巡や躊躇が徐々に取っ払われて、最終的には「じゃあ……」とその気になってしまうのだ。
 そうして、冒頭に戻る。
 はじめのうちは――最終的には耐えたが――耐えられなかった。すっぴんを見られるよりも、化粧をしていく過程を見られる方がよほど苦痛だった。
 しかし清麿が楽しそうだし、なにより仕上がりが抜群に良いのである。自分でするよりも何倍も綺麗な気がして、正直なところ軽い嫉妬心さえ覚えたほどだ。
 審神者が手放しで褒めたたえると、彼も大層喜んでくれて、じゃあまた次もね、ということになる。そうして次も成功すると、その次もということいなって、いよいよ際限がなくなり――結果として、清麿が審神者の専属メイクアップアーティストに就任したわけだ。
 そうやって回数を重ねることで、今では泰然自若と受け入れている審神者である。今日も今日とて手際よく、しかし丁寧に清麿の手が化粧を施していき、最後の仕上げとなった。
「今日はどうする?」
 メイクボックスから抜き取った口紅を、清麿が両手にもって示してみせる。最初は数えるほどしかなかったのが、選ぶに迷うほどとなったのは、専属の彼が買い与えてくれるからだ。
 君に似合うと思って、と言われると貰う以外の選択肢がなく増えていく一方だった。
「清麿のお任せで」
 基本的に審神者の答えはこれが多い。
 社会に出てから何年も化粧をしているが、知識的な部分では清麿に及ばないため、彼に任せるのが最善と知っているからだ。――源清麿という刀剣男士。大雑把な部分は大雑把なのだが、凝り始めるとどこまでも凝ってしまう性分らしい。
 ともすれば雑な審神者の返答に、しかし清麿は上機嫌で紅の色を吟味しはじめた。――負けている、とひっそり思う。
 しかしまあ、何事においても彼に勝てたためしがないため、もはや悔しいと思う余地さえない。あとはもう仕上がりを楽しみに待つばかりで。
「今日はちょっときつめにしたから、強い色でいこうか」
 そう言って清麿は真っ赤な色を紅筆にとった。そんな動作を横目に、審神者は慌てて目を閉じる。
 目元をどうこうするわけではないため、別に目を閉じる必要はないのだが、なんとなく気まずくていつもそうしてしまう。どこを見ていいのか分からないというのもあるかもしれない。
 唇に紅筆の感触を感じながら、仕上がりはどんなものかと想像する。
 きつめの化粧を、とリクエストしたのは審神者だ。清麿の好み――かどうかは分からないが、彼はナチュラル志向であるため、いつもと変わった取り組みではある。彼の施す「きつめの」化粧とはどんなものか、単純に興味があった。
 最後の一筆が唇をすべって、作業の手が止まる。終わったのだろうか。しかしいつもなら、終わったら終わったよという声がかかる。目を開けるべきか否か悩んでいると、なにか迫ってくるかんじがして――
「っ……」
 唇に軽い圧迫としめった感触が触れた。え、と審神者が目を見開くと、清麿は顔の角度をちょっと変えてゆるく唇を啄んだ。口紅が、と審神者がとっさに彼のシャツを握ると、ちゅうと軽やかな音を名残惜しく鳴らせて離れていく。
 目の前の唇。薄く柔らかなそれは紅が移って赤く染まっていた。なんだか見てはいけないものを見てしまったような気がして、審神者はとっさに目を逸らす。
 くつりと、低く笑う声が聞こえた。
「ごめん、あんまり色っぽかったから。つい」
 そう言ってさわりと頬が撫でられる。これはどうにも危険な雰囲気だ。
「あっ……の、口紅、よれたんじゃないかな」
 鏡を。探そうとして顔を右に向けると、そちら側の頬にも手がかかり、やんわりとひどく優しく正面を向かされた。
 笑ってはいる。清麿の顔だ。口元も目も笑みの形を作っているが、どうにも穏やかではない。どきりと心臓が激しく跳ね上がる音を聞いたが最後、彼の唇が吸い寄せられるようにやってきた。
「ちゃんとなおしてあげる」
 唇が触れる直前、言い訳じみた言葉を聞いたが、それが何の免罪符になろうと言うのか。
 ――結局その日は、外出には行かずじまいだった。

 

「おねだりされてるのかな、っていつも思うんだ」
 心地よいまどろみの中、耳元でくすぐるような声が言の葉を紡ぐ。
 なにが、と夢うつつに審神者が問いを紡ぐと、低い笑い声が聞こえ腹のあたりに回された腕に力がこもる。
「口紅を塗るとき。目を閉じるでしょ?」
 今日は我慢できなかったのだ、と清磨はしゃあしゃあと答えた。

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