もうすぐ寝るか、もうすこしゆっくりするか。
夜も更けて、まどろみに片足をつっこみながら自室でぼんやりとしているときだった。廊下から自身を呼ばう声が来客を告げたのは。
『主、僕だよ』
柔く甘く耳当たりのよいやさしい声は、いとし君の。名乗らなくたって、あるいは声さえかけなくたって分かる。こんな夜更けに訪う相手など、ただのひとりしかいないのだから。
といって、日頃はこうも急にやってくるような相手でもなかったから、審神者は驚きを隠せない。軽く目を見開きながら立ち上がり、障子を開けて出迎えた。
「こんばんは、元気かな」
満面の笑みと上気した頬に目元、そうしてなんとなくずれた挨拶。呼気に交じった濃厚な酒精の臭気は、隠し切れないほど。普段から穏やかに笑んでいる印象はあるものの、今はそれを通り越してしまりのない顔で、何となく呂律も回っていない。なによりふらふらと頼りなく左右に揺れる姿。
一目見て、そうしてどこからどう見ても、誰がどう見ても酔っぱらった男の姿に、審神者は目を丸くした。彼でも――清麿でも、こんな風に酔うことがあるんだ、と。
「大丈夫? だいぶいい感じに出来上がってるみたいだけど」
歩く補助をする意味合いで軽く手を差し伸べてみせると、清麿はその手を取ってぎゅっと握りこんだ。外見の柔和さにそぐわぬ骨張った手。いつもはそうとも感じないのに、血流がよすぎるせいか今は燃えるように熱い。
熱いな、という思いを込めてまじまじと結んだ手を見つめていると、清麿はその視線に気づいて「んふふ、」と軽やかに鮮やかに笑ってみせる。握りこんだ手をぐっと口元まで持ってくると、
「恋人つなぎ」
語尾にハートマークでもつきそうなくらい上機嫌に言って、審神者の手の甲に音をたてて口づけを落とした。
なにこれ。審神者は危うく声を上げそうになって、しかしそれを慎重に飲み込んだ。こんな――こんな面白い状況、早々あるものではない。
あの清麿が、源清麿が。
正気も自分のキャラも見失うほど酔っぱらっているなんて、この先十年過ごしても二度と再びお目にかかる機会はないだろう。
これを愉しまずしてどうする――。この上は、出来るだけ清麿が正気を取り戻さないよう、つとめて刺激しないようにしよう。審神者の中で悪い考えが芽生えた瞬間であった。
彼のあざとい表情も、不意の口づけも。本当は照れて叫びだしたいほどの衝撃をもたらしたものだが、それをぐっと飲みこんで平静を装う。
「手をつなぎに来たのー?」
つないだ手を軽く振ってはノリに乗って、とぼけたことを聞いてみる。
すると清麿は「んーん、」とやけに舌足らずな口調で否定する。可愛い。審神者はそっと顔を背けて口の中を噛み、正気を保つ努力をした。
「じゃあ何しにきたの?」
「用がないと、来たらだめ?」
ぐいぐいと体を寄せながら清麿が言う。
ふわりと柔らかく甘いフレグランスに交じって、刺激するようなアルコールの匂いが鼻を衝く。香りの対比がなんとなくドキリとさせた。
そんなことはない、あるはずがない。ていうかやっぱり可愛い、どうあがいても可愛い。なんだこれは、ふざけないでほしい――。
ドキドキしながら胸中でありったけの悪態をつき、審神者はどうにか叫びだしそうな衝動をやりすごす。
ていうか酒臭いな。どれだけ飲んだらこうなるのか。今更ながらにそんなことを思う。浴びるほど飲むっていうのはこういうことか。
酒豪の彼をここまで酔わせるとは、並大抵のことじゃない――。どういう宴会だったかとか、どういうメンツだったか、どういう酒類が並んでいたのか。分析がまったく関係のないところにまで及ぼうとしたさ中、その酒臭い腕にぎゅうっと包み込まれ、審神者の無駄な思考作業は強制停止させられた。
「別のこと考えてる」
抱きしめられたと思った次には、片手で頬をむぎゅっと包み込まれ、タコ口になるほど容赦なく押さえつけられた。
「ひおふはい(ひどくない)?」
「じゃあ、ちゅーしてくれたら許そうかな」
「ん」
間髪を入れず、審神者はタコ口のまま清麿の唇に押し付けた。いつもだったら「ええ……」とか「いや……」とか言ってしぶるところだが、相手が酔っ払いだと思うと妙に冷静になれるのが人情の不思議だ。
いっそのこと情緒もくそもなくしてやろう、くらいのことは思ったのだ。完全なる腹いせである。
いつもと異なりすんなりと応じた審神者に、清麿は予想外だったのか一瞬呆けてみせたが、次にはへにゃりと実にしまりのない満面の笑みになって、
「可愛い」
と大喜びした。
それはそれで不本意きわまりないというのが審神者の本音だが、酔っ払いなど基本は予測不能の生き物だ。さて次はどんな風に踊る? などと上から目線で楽しもうと思ったのが運の尽き――。
「可愛い、可愛い。食べちゃいたい」
顔や頭を撫でられていたかと思えば、完全に逃げ場を失うくらいに頭部が固定され、酒臭い呼気が唇に触れ。
かと思えば、あっという間に口の中にまで酒精の味とにおいが広がって、ねっとりと丹念に口腔粘膜をなめまわされ、唾液を交換し合い――気づけば腰砕けになってその場にへたり込んでいた審神者である。
「……あれぇ……」
酸欠のせいか、頭はぼんやりとして酩酊したかのよう。状況を把握しようとするが、うまく頭が働かない。
「可愛い、可愛い」
譫言のようにつぶやく清麿が、いそいそと上を脱ぎ捨てたのが分かった。
畳の上に放り出された両足を彼がまたいで、ゆっくりと体重をかけてくる。
「食べちゃうね」
上気した目元には、ありありとした情欲の色が浮かんで、しまりのなかった笑みは、いつの間にか獲物を狙う獰猛な獣のそれになっていた。
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