冴え冴えとした月を、見るともなしに見ていた。
「月に帰る算段でもつけていたのかな」
突如として沈黙を破って耳に届いた言葉。それで、周囲の闇に溶けて滲み出していた意識がその輪郭をつかみ始める。
「もしかしたら審神者というのは、この本丸で一番孤独な存在かも知れないね」
なんの考えも浮かばない虚ろな心のうちに、その言の葉はすうっと浸み込んで奥底まで凍えさせるようだった。
いったいどういうことか問いかける審神者に、にっかり青江はひとまずゆったりと笑みを浮かべた。
「唯一無二の、人間だ」
少しばかり茶化すような気配があって、それで少しだけ審神者は安堵した。それで、と続きを促すと、青江はしばしの間を挟んだ。
「……僕たちの戦場には、必ず自分以外の仲間がいる。しかし君の戦場には、君ひとりしかいない」
審神者は戦わない。血を流すのも傷つくのも、すべては刀剣男士だけだ。審神者は戦場から最も縁遠い存在だというのに。
「君は、僕たち一口々々の刃生を、思いを、背負っている。僕たちが君に顕現されて戦っているというのは、そういうことで、それこそが君の戦いだ」
――そのとき漠然と、しかし唐突に、審神者は審神者たるものの本当の使命を思い知った。それが孤独なものであることも、険しく辛い道であるということも、同時に。
***
彼らの刃生を、彼らの思いを、背負うということ。
一体どういうことなのだろうか。審神者は考えて考えて、考えに考え、さまざまな試行錯誤を繰り返し、時に深く傷つけ傷つき、七転八倒を繰り返し、しかしながらついぞ結論は出なかった。
そうして今この瞬間、この時をもって、その正体へと至った。
――本日未明、丑寅の不開門より敵襲あり。最終防衛ラインまでの到達予想時間は、およそ数分。
時間遡行軍による寝耳に水の急襲であった。一騎当千の精鋭である刀剣男士も、圧倒的な物量の前にはなすすべもなく、次々に討ち取られ敵の手が審神者へと迫った。
「主君、ご決断を」
前田藤四郎が厳しい声で審神者へと迫る。すでに戦力の大半が失われ、本丸は壊滅寸前だった。
なるほど今なのだ、と審神者は漠然と思った。
彼らの刃生を、思いを、審神者が背負うということは、このことなのだ。
前田、と名を呼ぶと彼は一瞬だけ苦悶の表情を浮かべ、しかし一瞬でそれを消し去り、己の本体を差し出した。そうして自身は、床の間の刀掛台から大刀を手に取る。
服の上から入念に心臓の位置を探り、胸骨の間を意識する。短刀前田藤四郎を鞘から払うと、美しく砥ぎあげられた白刃が現れた。ひとつ息をついて、シャツの前をはだけさせ、鋒を肌にぴたりと当てる。もう一度指先で場所を確認し、刃を押し込もうとした瞬間、
「っやめろ!!」
ばたばたと飛び込んできたものがいて、驚くよりも先に手元に鈍い痛みが走り、腕が弾き飛ばされたと思ったら、前田の本体が遠くへ飛んで行った。
「僕たちの思いを背負うということは、主として立派に死ぬことじゃない。どんなに惨めでも無様でも辛くとも、必死に生きて僕たちの思いをつないでいくことだ。ここで死ぬなんて、僕が許さない」
「っ青江殿、」
「僕が時を稼ぐ。君は主を連れて緊急脱出路へ。もしかしたらそこも安全ではないかもしれないが、万に一つでも可能性にかけるんだ。今はそれしかない」
「いえ、それなら僕が殿を務めます。青江殿が主のそばへ」
必死な形相で食い下がる前田を見て、審神者はここにきて――己の恋心が、彼にまで知れ渡っていたことを悟った。隠し通したと思っていたのは、自分ばかりだった。その思い上がりと、相反する彼の優しさに胸が痛い。
つい、と青江の双眸が審神者へ向いた。その目が優しく穏やかに細められ、しかしはっきりとかぶりを振った。
「親愛なる僕の主。女性の身辺を守るのは、脇差ではなく短刀だと相場が決まっている」
「青江殿ッ!! あなたは主君のお気持ちが――」
「さあ、行って」
前田の言葉を遮って、にっかり青江は審神者と前田の背中をぐいと押しやった。床板を外し、緊急脱出路を開く。ぽっかりと開いた穴から、吹き上げる風が前髪を揺らした。
「青江殿、……」
なお食い下がろうとする前田をしかし、審神者はその手を取って引っ張った。そうすると流石に彼も覚悟を決め、地下へと続く階段を先導して降りて行った。
階段に足をかけようとして、審神者は一度だけ青江を振り向いた。彼は、審神者を見ていた。そこにどんな思いがあるかは、分からない。
意趣返しをしてやろうと、審神者は思った。
この瞬間に、思いを打ち明けてやろうかと。彼は一体どんな顔をするだろう。なんと答えるだろう。いやはや、つい数分前に完璧にフラれてしまったばかりではあるのだけれど。
そんな意地の悪い目論見は、しかし刹那で消えた。
背負うと決めた以上、審神者は審神者で彼の親愛なる主でいるべきだ。それこそがけじめというものだろう。しかしこれだけは、伝えたい。伝えておきたいことがある。
「月が、綺麗だったんだよ」
一瞬だけ、青江が目を見開いた。それって、と口元がそんな言葉を紡ごうとする。間髪を入れずに審神者は口を開いた。
「審神者が孤独だって言ったあの日、月を見ていた理由!」
武運を。そう言い残し、審神者はひと思いに階段を駆け下りて行った。――意趣返しは、十分にできた。この先の未来がどうであっても、もはや何も後悔することはないだろう。
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