万屋に着くと、一旦近侍と別れてそれぞれの目的を果たす。目当てのものを手に入れたら、待ち合わせ場所へ――。
その途中、審神者は見知った気配を探り当てた。自本丸のにっかり青江である。
オフの日に自分の刀剣男士と、本丸以外の場所で出くわすというのは、なんだか奇妙な感覚だった。なるべく気づかれたくないが、待ち合わせ場所へ行くためには彼が今しがた入り込んだ路地を通らねばならない。
速足で過ぎ去って気づかれぬようにしよう。浅はかなことを考えて小走りになりかけた審神者の耳が、乾いた高い音を聞いた。
パァン。
強烈な破裂音に驚いて思わず立ち止まり、狭い路地を覗いてしまう。
「あ」
音の出どころは、恐らく、にっかりの頬ないし、その向かいに立った女の掌。要するに、女はその白いたおやかな手で、にっかりの横っ面を張り飛ばしたのだ。
前後の状況は分からない。しかし、男と女、殴られる男、涙を流す女という状況をみれば、それが痴情のもつれであろうことは一目瞭然だった。
(まじか)
驚きと、しかしほのかな高揚――生まれて初めて目にした男女の修羅場に、不謹慎ながら審神者の野次馬心が騒いだ。騒いだところで、しかし長続きはしなかった。
「最低!」
女がにっかりを突き飛ばしたあと、見物人の審神者に肩をぶつからせながら走り去っていったからだ。それも結構な勢いであり、油断していた彼女は軽く吹っ飛ばされるほどの威力があった。
「いったぁ……。なんだいなんだい、詫びもなく」
ぶつかった女に悪態をつきながら立ち上がろうとした刹那、
「好奇心は猫を殺すっていうけどね」
大丈夫? 柔らかな声と共に、手袋に包まれた手が差し出された。
ぎくりとしながら視線を上げると、やはりそこに、自分の刀剣男士・にっかり青江がいる。
「……まあ……尾てい骨を折ったりは、してないかな」
気まずさに目を泳がせながら嘯くと、それは重畳とにっかりは返した。審神者は彼の手を借りずに立ち上がる。
「なんていうかその……。大丈夫?」
プライベートをのぞき見してしまった罪悪感から、親切を装って聞いてしまう。本心では一刻も早く立ち去りたくはあったのだが。
「大丈夫っていうと?」
にっかりはわざとらしくきょとんとして、曖昧なことを言う。強がりなのか。それとも何か嵌めたいのか。意図は分からないが、審神者は努めて誠実路線でいくことに決めた。
「頬。まーその、申し訳ないけど、殴られた瞬間を目撃したわけで」
「へえ、覗きかい?」
「不可抗力です。早く冷やした方がいいと思うよ」
「君に癒してほしいなぁ」
にっかりの軽い言葉を、審神者は手入れという意味合いで受け取った。普段なら、それくらい自分でやれとはねつけるところだが――この場合、彼の言うように「覗き」をしてしまった負い目がある。
不承々々、応と答えようとしたその矢先、
「乙女の柔肌をもって、ね」
もったいぶるような、思わせぶりな口調と視線をもってにっかりはそんなことを言う。
一瞬きょとんとした審神者であるが、ゆるやかにその意味を理解していき、激高しよう、と、した。
が、彼女自身驚くほど一瞬で冷静になる。
これこそがこの者の手口だ。こうやって幾度もてあそばれたことか。激高したが最後、「何を想像したのかな?」とか言って揶揄われるだけなのだ。
不快だ。
百歩譲って揶揄われるのはいいが、この手の揶揄ほど嫌いなものが、審神者には存在しない。
ひくひくと痙攣する蟀谷を指で押さえて、審神者はにっこりと笑ってみせた。その笑みに、にっかりはおやとばかりに眉をあげる。
「そういうのはお店のかわい子ちゃんに頼んだら? 花代を捻出できる程度の賃金は支払ってるつもりだけど」
ごめんあそばせ。精一杯の嫌味を吐き捨てると、審神者は聞く耳持たんとばかりに背を向けて、肩を怒らせながら去った。
「きっついなぁ……」
怒りに任せてずんずんと遠ざかる主の背中を見つめながら、にっかりは頬を指の背でひとつ撫でた。
――なにもかもうまくいかないものだ、とにっかり青江は思う。
刀剣男士として肉体を得てこの世に顕現し、当初は何もかもが愉快で喜ばしかった。
自分の意志に従って体を動かし、自分の思ったことを口に出来る。対話が出来る。自分の言動によって相手が様々な表情を見せる。鉄ごしに感じる人の体温と、生身の体で感じる温度はまるで違っていた。
そうしてその温度が、この上もなく心地よく、たまらないほどにいとしく感じた。否、本当にそれが「いとしい」という感情なのか彼にはいまいち判別がつかない。
けれども恐らく、男が女に抱く感情は、大別するとそういうものなのだろう、とにっかりはそう断じていた。
しかし、いかに普段飄々とした態度を気取っていたとしても、にっかり青江、元は鉄。人の愛し方なぞ知らない。否、刀としての尽くし方もある意味で愛し方に近いものがあるやもしれぬが、対象が違えば参考にはなるまい。
とかく彼には、いとしい人を愛するという方法が分からなかった。
だから、学ぼうとした。学ぼうとするにあって、彼の姿勢は極めて真摯で誠実だった。しかし姿勢は真面目でも、やり方がいささか不誠実にすぎた。
彼は、人の色恋というものを予行演習で学んだ。そうしてあらかた吸収してしまったゆえに、演習を了いにしようと思った。
『ありがとう。たくさんのことを学べたよ』
女への接し方、触れ合い方、肌の重ね方。そういうものの一切を教えてくれた彼女は、にっかりにとっていわば戦友のようなものだった。――しかし当然、相手の方はそうではなかった。
彼としては、至極誠実に付き合っていたつもりだったが、事前の確認が圧倒的に足りなかった。
『この恋は予行演習だけれど、気を悪くはしないかい?』
そんな一言さえあれば、その場で平手を食らうことはあっても、関係が始まる前だ、相手の女性が傷つくこともなかったし、それによる修羅場をほかならぬ彼女に目撃されることもなかった。
まあ、そんな前提条件を出していたら、そもそも関係が始まりさえもしなかっただろうし――なんならその場で平手を食らっていたかもしれないが。
ともかく、だまし討ちのような形になってしまったのは申し訳ないし、こんな仕打ちを受けても仕方がない――むしろこれだけで済ませてもらって重畳かもしれない、という気持ちもある。
ただ、ばつが悪かった。
「人を愛するって、難しいな」
にっかりの低い呟きは、生ぬるい風に飲み込まれて消えた。
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