なーちりーってバブみ感じない? - 1/3

 なんというかもう――とにかく疲れた。
 何度目か分からない自覚と呟き。どんな装飾の言葉も要らない、ただただ本当に心の底魂の奥底からもたらされた四文字は、今現在の審神者のすべてを表していた。
 空はすでに明けきって、夜の気配が遠ざかって久しい。明け方頃に「空が白み始めた、やばい」と慌てたことは覚えているが、そこからの時の流れはまさしく怒涛で、夜の残滓も全くない明るい空を見て「もう完全に明けたな」と思う感慨さえ残っていない。
 ありていにいえばそれだけ疲れていた。
 しかし、忙しかった。
 昨日の出来事を思い出して軽く胸やけし、いやもう終わったんだと気を取り直す。
 ――本来はあまり推奨されない複数部隊の同時出陣と、一か八かの重傷進軍。進軍については話し合って決めた結果ではあるものの、あの時の緊張感と神にも祈る気持ちは、向こう十年ほど味わいたくないと強く思った。
 幸い一口も欠けることなく刀剣男士たちが帰城したのはいいが、そうなると、審神者を待っているのは超絶怒涛の手入れの数々だ。一部隊だけなら楽に収容できたのに、複数の部隊を同時に出陣させていたため手入部屋が足りない。
 付近の廊下には、収容できなかった刀剣男士たちが何口も、傷ついた体を横たえあるいは壁に凭れかけ、手入れ部屋が空くのを待っている。まるで野戦病院もかくやという様相に、「地獄だな」とこぼしたのは一体誰だったか。
 すべての手入れを終えて抜け殻のようになった審神者を、近侍だけは気遣ってくれた。無理をせぬよう、今日はしっかりと休むように言った彼に曖昧な返事をして、別れたあとに執務室へと向かったのは、少しでも仕事を終わらせるため。
 こんな状態で仕事をしても捗らないのは目に見えているが、明日は明日でまた別の仕事がある。今日の仕事は今日中に終わらせなければ、あっという間に首が回らなくなるだろう。
 書類の整理ならば――戦の采配のように、一歩間違えば誰かが死ぬということはないから、少しでも終わらせておくに越したことはない。

 

 ――そうやって、一仕事終えたあとだった。 
 今から自室に戻ってシャワーを浴びて、……いくらか仮眠が取れるだろうか。このような時ほど、審神者の勤務形態の自由さをありがたく思うことはない。午後からの軍議には顔を出すとして、近侍には昼から出勤する旨を伝えておこう。
 ゆうらりと重い腰を上げて、執務室を出る。しかし数歩歩いたところで自然と足が止まった。理由は特にない。ただただ、足が重かった。まるでなにかがぶら下がっているみたいに。
 立ち止って足元に視線を下ろすと、自身のせいで命を落とした亡者が足元にひしめき合い、地獄の底に引きずり込もうとしている……ということは毛頭なく、作務袴の裾から伸びた脚、すこしむくんだ足背が見えるばかりだ。
 貧相で血色悪く、血管の浮いたそれらを見ていると、なにもかもがいやに思えてきた。一瞬自暴自棄になりかけるが、すぐにストンと納得する。そんなことしたってどうにもならない。――なぜなら、悪いのはすべて自分だから。
 本来推奨されない、複数部隊の同時出陣なんていう荒業をやってのけなければならないのも、それにより手入部屋を溢れさせてしまうのも。そのせいで刀剣男士たちに多大な負担をかけてしまうのも。仕事が終わらなくて、明け方まで執務室にこもっていなければならないのも。
 もとをただせば、ただただ己の要領の悪さに端を発するわけで。世の中が理不尽だとか、上司がモンスターだとか、それ以前の問題だ。もっというなら、自分自身がひたすらに「審神者」という役割に向いていないという、ただそれだけのことであって。
 ならばそういう時、どうやってこの問題を解決すればいいのかといえば。――問題解決のためには、まずは問題の明確化と特定、原因の究明、解決策の立案、実行……。
 問題の大元は、自分自身の要領悪さ、世渡りの下手さ! 馬鹿は死んでも治らないというのなら、もはや生まれ変わって来世の自分に期待するしか。
 だからといって、自分の無能さや不器用さに傷ついて打ちのめされて、死にたいなんてメンヘラムーブをかます段階も、とっくに通り越してただただ虚無になったのが現状である。
 すとん、と審神者の膝が崩れる。その場に座り込み、ぐらりと上体がかしいでゆっくりと廊下に横たわる形となった。きれいに磨き上げられた床板はひんやりと冷たい。頭位が変わったことにより、自然とまぶたが落ちてきた。まるでそう、横たえると目を閉じる幼児向け玩具の人形みたいに。
 こんなところで寝てたら、早起きの刀剣男士に踏みつけられるだろうか。あるいは、こんなところで寝るなんて非常識なと、眉を顰められるだろうか。
 どっちだっていい。起き上がる気力どころか、目を開ける力さえ審神者には残っていなかったのだから。

 

***

 

 さざ波の音が、聞こえる。
 一定のようでいて、一定ではないリズム。寄せては返しを繰り返し、時折大波が押し寄せた派手な音も入り混じって。
 音の次には映像も。
 白く綺麗な砂浜。透明度の高い水と、燦燦と降り注ぐ陽の光。
 海だ。そう認識すると、審神者の足はひとりでに波を踏み分け歩き出していた。水位はあっと今に脛を超え膝を超え、気づいたときには海の中だった。息はできないはずなのに、ふしぎとまったく苦しくない。
 当然だ、夢のなかなのだから。
 苦しくない代わりに、信じられないほど心地が良かった。安堵感と、幸福感。冷たいはずの水温は肌なじみがよく温かく、まるで全身を抱きしめられているかのように心が安らぐ。遠い昔の幼い頃に戻ったみたいに、母に抱かれて安心する、といったような塩梅だった。
 ……かえりたい。
 審神者は強く思った。しかしそれは、一人暮らししていた現世のアパートでも、生まれ育った実家でもない。もっと遠く――根源に。そう願った瞬間、ほろほろと体がほどけていく感覚を味わった。
 皮膚がめくれて肉が剥がれ落ち、骨がほどけて細胞のひとつひとつが分解していく。そうして己という存在がすべて、この海中に溶け出して、そうしてこの母なる海と一つになる。
 個としての意識があり、しかし同時に、世界のすべてが組み込まれた全としての知覚が存在し、途方もない安堵と全能感を覚えた、次の瞬間。

 

「主ー、大丈夫かい?」
 やわらかな声が耳朶を撫でて、審神者の意識を浮上させた。眼精疲労で痙攣するまぶたをどうにか押し上げると、心配そうにのぞきこんでくる幼い顔が見える。
 ピンク色でやわらかな髪と、小さなかおからこぼれ落ちそうな大きな目。全体的にやわくあたたかな色彩と、なめらかな曲線を描くシルエットの持ち主は、北谷菜切だった。
「こんなところで寝てると風邪ひくよー。それとも、もしかして倒れてこのまま?」
 熱はないかな。そういって小さな掌が審神者の額に乗る。刀を握っているはずのそれは、そうと感じさせないくらい柔らかくて愛おしい。
 熱はないねー、よかった。そう言って離れていくのが名残惜しいほどに。
「昨日はおそくまで頑張ってたそうだねー、お疲れさま。この格好だと奥にも戻ってないみたいだね。もうしゃべる気力もないかな? おれが運んでもいいけど、この身長じゃ引きずることになるから、大きい刀を呼んでこようか」
 一言も発さない審神者に、北谷菜切があれこれと気を回す。ぼんやりとして声も上げない姿にさすがに異変を感じたのか、彼が立ち上がりかける。それを察して、ようやく審神者は動きをみせた。
「大丈、夫」
 とっさに伸ばした手が、ちいさな彼の手を掴む。手首をつかんだつもりが、目測を誤って――というか、思った以上にその面積が狭くて、掌ごと包み込んでしまう結果となった。暖かさと、やわさ。そうして幸福感。掌越しに伝わる幸せな感情と感覚に、審神者は呆然自失となりかけた。
「……主?」
 その声で我に返り、大丈夫だからともう一声しぼりだす。徹夜明けで、おまけに疲労困憊の声帯からは、かすれた声しか出なかった。
「ひとりで、帰れるから。心配してくれてありがと」
 大丈夫な姿を見せなければ、と立ち上がろうとして、手をつないだままではそれができないことに気づく。けれどもどうにも、その手は離しがたい。
 一体どうしてしまったんだと、自分自身を猜疑しながら、今一度大丈夫と告げる。これは彼に向けてというよりも、自分に向けての側面が強かった。それを契機として、ようやっと手がほどける。
「……じゃ」
 ぎこちなく笑って立ち去ろうとすると、主、と背中越しに呼ぶ声が聞こえて足が止まった。振り向いた先、北谷菜切は案じるような表情でそこに立っている。
「      」
 思案げな表情で、なにかあたたかい言葉を向けてくれたが、残念ながらなんと言ったか――。次に目覚めたとき、審神者には記憶がなかった。

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