ストレス解消にはハグが効果的らしい

 親密な関係にある相手とのハグには、ストレス解消の効果があるらしい。審神者と刀剣男士によるハグにも当てはまり、この場合、それ以上の効果が期待できるらしい――。
 現行の作戦による度重なる軍議と部隊の再編制により、肉体も精神も限界にまで追い込まれた審神者は、ふと急に思い出した。いつぞや箸休め程度に参加したストレスコーピングの研修で、穏やかそうな講師がそんなことを力説していたことを。
 そうなるともう、いても立ってもいられるものではない。
 羞恥心や外聞だのをかなぐり捨てる――なんていう段階さえ飛び越した、本能の領域。なんの考えもなければ感慨もない。癒されたいという本能的な欲求のみが存在する。
 ハグを……誰か、ハグを。
 癒しに飢えた審神者は藁にもすがる思いである。しかしそばにいたのは、仕事はできるが小言も多い近侍、山姥切長義。断言する、審神者と近侍以外の何物でもない二人だ。そんな彼らのハグに果たして効果はあるのか。
 長義の小言が行き過ぎると、審神者は「うっせーなマジでこの糞野郎が」と思うこともあるし、長義も長義で、要領がよくないくせに頑固一徹意地っ張りの主に本気で悪態をつくこともある。あるが――しかし、誰よりも信頼はある、はず。本音でぶつかれる数少ない相手と思えば、猶更。
 一方で長義、ガタッと大仰な音を立てて社長椅子から立ち上がった審神者を一体なにごとだと見やった。
「……主?」
 思いつめた様子の主に、本格的に何事だと案じる様子さえある。さすがに覚醒しているのが二十四時間を超えた今、さすがに限界かと。立ち眩みでもして倒れたら危ないと、彼がそっとそばに寄ろうとした瞬間、
「長義、疲れた……」
 審神者は執務机の天板に両手をつき、座った目つきでどこか一点を凝視しながらつぶやいた。その言葉に込められた万感の思い。まるで、長年にわたる逃亡生活に終止符を打ちたい指名手配犯であるかのような。
 そうだろうとも、そんなことは分かり切っている。長義は思う。
 ファンデーションがはげかかって疲れた肌に、目の下のクマ。若干血走ってどこか剣呑な光さえたたえる両眼を見れば、眠気などというものを通り越してもはや倒れる寸前だろうし、気力だけで意識を保っていることは明々白々。
「ちょうど戦況が落ち着いているころだ。少し仮眠でも、」
 とったらどうか、と提案しかけたその刹那、ぐりんと恐ろしいほど鬼気迫る勢いで審神者がこちらを見た。そのあまりの迫力に、さしもの山姥切長義も驚いて目を見開く。かすかに固まってさえいる。
 グロッキー状態の審神者と、まだまだ体力的に余力はある――が、実のところ精神的には疲労ゲージが溜まりまくっている――長義が見つめ合う。
 一瞬の隙も油断も許さないような緊迫感はどうしたことか。一色触発ともとれる空気間のなか、口紅の一切残っていない審神者の唇がゆっくりと開く。
「……ハグして」
 ぽつりと、しかし確実につぶやかれた言葉。徹夜明けのせいか若干かさついた声ではあったが、明瞭な発声は長義の耳その四字を聞き取り、その意味を理解するに十分だった。
「……は?」
 咄嗟に意味が理解できずに聞き返した長義に、審神者は据わった目つきのままもう一度、
「ハグしてって言った」
 と億劫そうにくり返した。それどころか机の下肢空間からするんと抜け出し、つかつかと長義のほうに歩み寄ってくる。そうして、びくりとする彼に構わずバッと両腕を開くと、
「ストレス解消の効果があるから! ハグしてって言った!!」
 と、声を張り上げて言った。まるで舞台女優のような立ち振る舞いだったし、ステージに立っているかのような声量だった。
 寝耳に水の要請を受けた長義が固まっている間――審神者はいささか冷静になった。
 硬直する長義を見たから冷静になった、といったほうが正しい。
 別に恋仲でもなんでもない、付き合う、、、、といえば悪態ばかり吐きあって、、、、、いる間柄の主に、そんなことを言われたら困惑するか――と冷静に俯瞰することができた。
 そこで、とんでもないことを口走ってしまったと羞恥心が芽生えることもなく、ただただ、申し訳ないことをしたなとか、パワハラにあたるかなこれ、などといった感想が浮かんできたのは、それほど疲弊していることの証左になる。
「いや……ごめん。変なことを言った。疲れすぎてて頭パーちくりんになっとるみたいだわ」
 自嘲の笑みを浮かべよろめきながら踵を返した次の瞬間、
「しないなんて言っていない」
 硬い声が聞こえたかと思えば、わっと後ろから抱き寄せられ――審神者の時間が止まった。
 山姥切長義、勇気を出した結果だ。
 確かに、いきなり主から「抱きしめろ」なんて言われたら硬直もするが、それ以上に――この主、こんな支離滅裂な発言が出るほど追い込まれているのか、と思うといっそのこと哀れに思えた。
 たとえば相手が見た目の可愛らしい短刀であれば、その申し出も納得できるし、むしろそっちの方が癒されるのだろうと思う。
 実際彼女が、短刀の誰それから労ってもらったときに「癒される~ありがと~」と、相好を崩してデレているさまを見れば明らかだ。とうの長義自身、見た目が成人男性で可愛くもない自分なぞより、子どもサイズで明らかに可愛い短刀たちの方が癒し効果が高いと思うのだから。
 しかし、現在近侍でしかもそばにいるのは山姥切長義のみ。
 そうして、疲れに疲れ切った審神者は、やむなく長義にすがるほかなかった。――普段、男っ気がなすぎて同性愛者とかいっそのこと無性愛者とまで噂される彼女の枯れ果てたプライベートを思うと、涙が出そうになるというもの。
 ちなみに、ハグの効用については長義もなんとなく聞き及んでいる。信頼できる相手との抱擁にはストレスや緊張感の緩和、幸福感を感じることができるなどのメリットがあるとかなんとか。
 状況的にそうせざるを得なかったとはいえ、男士おとこ山姥切長義、主に選ばれた以上はこの身を捧げてナンボ。それほどの気概で求めに応じ、後ろから主の体を抱きしめたわけだが――。
 このとき、奇妙なほどにふたりの胸中が一致した。

(なんか、違うことない……?)

 多大なストレスと緊張感を癒す、戦友としてのハグ――。
 これが審神者の求めた者であり、長義自身もそう言ったものを想定したはずだった。しかし、後ろから抱きしめるというこのシチュエーション……なんというか……想像以上に、甘い。
 審神者思う――。これは絶対に違う。
 これアレや、雨の中振り払っていこうとするヒロインを後ろからヒーローが掻き抱いて縋り付くとか、あるいは、小悪魔なヒーローがヒロインを翻弄するために後ろから抱きしめてドキドキさせるとか、そういう……。
 これまで読んできた少女漫画のシチュエーションが脳裏に展開されるに至って、審神者は慌てた。
「ここここここここれは、なんか違うような気が、」
 長義の腕の中で審神者が硬直して言葉を発すると、
「ち、違う?! ハグとは抱擁のことじゃないのか!」
 後ろから珍しく動揺したような声が返ってくる。
「ああああ、合ってる、合ってんだけど、も……っ、つつつつまり、なんてーかこう、……う、後ろからっていうと、なんかちげーっていうか……」
「つまりどういうことかな?!」
「んだからぁ! ちょっとごめん!!」
 審神者は長義の腕をほどくと、ぐりんっと再びものすごい勢いで踵を返し、突進するように長義の胸に抱き着いた。抱き着いたというより、タックルを食らわせたにも近いほどの迫力があったが。
 しかし――結果的に、それは正解だったらしい。バンバン! と死別したと思っていた戦友と再会した、みたいな感じで長義の背中を叩く。ひしっと縋り付くと、なんだかこう――多大なる安心感というか、安堵感というか、そういった柔らかくあたたかな感情に包まれた。
 体温と質感、それからにおい。内勤中はマントが外されているおかげで、より近いところで彼を感じる。ほどよく上品なフレグランスはいい匂いだが、それと混じって体臭というか汗のにおいというか、そういう生っぽさが彼もまた一緒に戦っているのだと実感させられて、強い一体感を覚える。生身の肉体の持ちうる温かさとか質量感とかが、ぐっとすり減った心に迫ってじんわりと満たしてくれる。
「こういうこと……。そう、戦友ともとの抱擁とはかくあるべきなのよ……」
 肩口に顔を埋めて浸る審神者に、ぽかんとしていた長義だったが、数瞬遅れて同調し、彼女がしたように抱きしめ、バンバン! と背中を叩いた。
 よく分からないが――よく分かった。
 確かに、これが正解なのだろう。長義もまたひしと主の体を抱き、己の疲れ切った肉体や精神が徐々に回復していくのを感じ取った。

 

 

(離れるタイミングが分からん……)

 次にふたりの胸中が一致した内容は、これだった。
 ストレス緩和ハグ初心者(???)の審神者と長義は永遠に離れるタイミングを逃し続け、今回の特別作戦における参謀本部長、大倶利伽羅が訪れるまで続いた。
「大倶利伽羅だ、入るぞ。次の編成案だが……。…………?」
 抱き合う主従に、さしもの大倶利伽羅(極)といえど当惑を隠せない。別にやましいことをしているわけではないのだから、慌てるとかえって変だという共通認識があるふたりは、最後の最後まで抱擁を続けた。
「抱擁するとその……ストレス緩和に効果があって。大倶利伽羅もする?」
 起死回生の審神者のパスに、大倶利伽羅がすげなく「要らん」と返したことで、どうにかその地獄のような時間はようやっと終わりをみたのだった。

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