急、
いつもより早めに仕事を切り上げると、男はいそいそと帰路へとついた。
いつもは寡黙で冷静沈着なくせに、この日に限ってはいつもより浮足立っていたような――というのは、秘書である中島の談。しかし付き合いの長い中島には、それがどういう時の癖なのか分かっていた。
「多分、娘さんですよ」
慌ててオフィスを後にした社長の後姿を、不思議そうに眺めていたとある社員に、中島がそっと打ち明ける。
「ああやって社長がウキウキしてるのは、娘さんがらみで何かあるときって決まってるんです」
「あれ、ウキウキしてたんですか? なんかいつもより怖かったような……」
「早く仕事を終わらせたくて、集中してたんでしょうね」
「へー、社長って娘さんラブなんですね。意外」
「たしか娘さんがお二人いて、ひとりは結婚してお子さんもいらっしゃったかな。特に下の方の娘さんを溺愛されててね。LI〇Eをはじめた当初なんて、プロフィール画像娘さんの写真だったし」
「っっっなんすかそれ。やば」
「プロフィール画像を何にしたらいいかって聞かれたから、好きなものとか自分の写真とかでいいんじゃないですか~って言ったらあれですよ」
「それ、悪いの中島さんですよ」
「いや、しかもさー。……ここだけの話、社長のL〇NEさ、俺とかには普通なんだけど、娘さんに対してだけなぜかめっちゃおじさん構文なんだよね。ちらっと見えたんだけど、死ぬかと思った」
「えー、おじさん構文――?! あんな超絶イケおじまっしぐらの社長がおじさん構文――――――?!」
――口の軽すぎる中島が、秘書としてふさわしいのかという問題は置いておく。
まさかそんな噂をされていようとは、つゆほども思わないのがこの男――山鳥毛である。
運転手に頼んで娘お気に入りのパティスリーに寄ってもらい、娘お気に入りの生菓子を見繕う。ついでに息子と自分の分も選んで包んでもらうと、ウキウキとした足取りで車へ乗り込んだ。
本日は、大事な大事なことりが実家に帰ってくる日。しかも、なにか大事な用事があるとかで、招集がかかったものだ。正直なところ用向きがどんなものであろうと関係なく、娘が帰って来さえすれば、彼にとってはなんだってよかったのだ。
そもそも――山鳥毛は思う。一人暮らしをしているとは言っても、場所は実家からほど近く、しかも週末は毎日のように帰ってくるのだ。あるいは、マンションのエレベーターを昇るのが面倒くさいからと言って、仕事帰りに実家へ帰ることもある。その毎週末や「面倒くさい」を楽しみにしている身ではあるものの、であれば、別に一人暮らしなどせずに前のように実家で暮らせばいいのに、と思わなくもない。
ある日急に、彼女が一人暮らしをしたいと言って家を出たときには、息子とふたり寂しい思いをしたものだ。子煩悩な彼にとって息子も可愛いものだが、末の娘は特に目に入れても痛くない。
ともあれ、同業者などには「子どもを甘やかしすぎる」と散々に苦言を呈される彼だ。時には厳しくしなければならないとも思う。しかし――前世からの縁で結ばれた娘には、今も昔も変わらず甘くなるのは必定。
ふんふんと鼻歌を歌いながら帰宅し、お手伝いさんに荷物を渡す。
「今日はことりお嬢様がお帰りですね」
勤続二十年になるベテランハウスキーパーの坂本は、幼くして母を亡くした子らにとって母のような存在だ。今日は腕によりをかけて娘の好物を作ってくれているという。――娘の実家への帰省(?)は直近で二週間前にもあったが、そんなことは関係ないのだ。
「国行おぼっちゃまも、今日は残業をせず早くお帰りなんですよ。ケーキまで買って帰られて」
「なに」
親子そろって考えることは一緒のようで、まったくおなじ店で、寸分たがわず同じものを購入してしまっていた。
「似た者親子ですね」
えびす顔でほっこりする坂本に、かすかに咳払いをしてみせる。仕切り直すと、山鳥毛は軽い足取りでリビングへと向かった。
「ただいま、」
と声をかけたものの、リビングには息子の姿しかない。おかえりなさい、とスマートホンから目線だけ上げた国行は、目的の人物でないことを確認したためか、再び視線を下ろした。
「ことりはまだ帰っていなかったのか」
「新幹線、遅延してるそうで。急病人やって」
「そうか……」
一旦部屋に戻るのもナンで、山鳥毛はソファに腰かけた。沈黙が流れる。
「……国行は、仕事は頑張っているか」
まるで休日のお父さんみたいなことを聞くと、
「え、ええ……。まあそこそこ」
いきなりどうしたんだ、みたいな顔つきで国行は答えた。そこで会話が終わり、再び沈黙が流れるかと思われたが、
「お父はん、ケーキ買ってきはったでしょ」
ぽつりとした言葉で、かろうじてつながった。
「ああ。まさかお前も買ってきていたとはな」
「たぶんお父はんが買うてきはるんやないかなーて思たけど、ないならないで文句言われるでしょ? あまったら会社に持って行きますんで、お気になさらず」
「そうか。ならよかった」
「さすがにあの人も、朝っぱらからケーキ食べようってトシでもありまへんからなぁ。坂本さんも、モリモリ食べたらええんですわ」
そんな会話をしていると、玄関ホールのところから声がした。坂本の声と、ことりの声。そうして見知らぬ男の声――。山鳥毛と国行、ふたりが不穏な様子で顔を見合わせた。
すわ一大事かと。男ふたりが我先にと競ってリビングを出る。なかば競歩の速度で玄関まで駆けつけると――
「ただいまー。突然なんだけど、結婚するから挨拶に来た。こちら、ダーリンの村正」
キャリーケースを引っ張って、美しき偉丈夫を連れた我が家のアイドルが立っていた。その隣でしっかりとしたスーツ姿の偉丈夫――千子村正は、妖刀よろしくあやしげな笑みを浮かべてみせる。
「こんばんは。お邪魔いたします」
男たちの理性は、銀河のかなたに吹っ飛ばされた。
***
リビングには私と村正、そうして向かいに父と兄。ついさっき、お手伝いの坂本さんがコーヒーとケーキを準備して、ではごゆっくりと去って行った。お茶請けのケーキは私一押しの店の大好物で、早く食べたい。が、なんというかこの重すぎる空気がそれを許さない。
いいや、食べるねッ! 自分の家で出されたものを食べて何が悪い。ていうかそもそも、男連中のこの反応はなんなのか。
「で、さっきも言ったんだけど。私、村正と結婚するから」
「…………」
「…………」
打ち明けたにも関わらず、沈黙継続で一行に話が進まない。まったくもう、らちが明かない。一体どういうことだろう、とちらりと村正の方を向いてみると、彼はさもありなん、という訳知り顔だ。
「ねえ、お父さん」
呼ぶと、父は体をぴくりと揺すった。そう、溺愛してやまないことりちゃんから呼ばれたらどうしても反応してしまうのだ。娘から無視されることはあっても、娘を無視なんて到底できない、恐るべき親バカ。追い打ちでもう一回呼んでやると、父は観念したように顔を上げた。
「……結、婚か。ふたりはつ、つつ……つき、付き合っていたのか」
「ってわけじゃないけど」
さらっと答えると、なぬっ?! みたいな顔つきで父がこちらをみた。男前男士筆頭とさえ思っていた、あの山鳥毛に――こんな劇画タッチのオモシロ顔をさせられる存在は、そうそういないだろう、と自負している。
これまたさらりと結婚に至るまでの経緯と、村正側の家族からは了承を得ていることを伝えると、そうか……と父はがっくりとうなだれた。
「ふたりで考えて……決めたことなら。……パパから言うことはなにもない」
「やったぜ親父ィ。で、国行は?」
「…………」
父がOKなら兄も必然的にOKだろう。そう思って隣の兄の方を見ると、彼はぽつりとなにかを呟いた。小さすぎて聞き取れない。とうとう発声の筋肉さえなくなってしまったんか?
「だめに決まっとるやろォオオオオオオオ!!」
国行は絶叫に近い声を上げ、星一徹クラッシュ――ロウテーブルをひっくり返そうとしたが、無垢材と強化ガラスを組み合わせたものが貧弱な彼の腕力で持ち上がるはずもない。しかも、察した父から必死に止められ、なんともむなしい未遂と終わった。
「え、なんで」
本気で訳が分からず素で聞き返すと、
「なんでや! 主はん結婚せえへんって言うたやないか?! 家族だけでぜーんぶ完結しとるから、これ以上望むもんなぁんもないて言うたやないか!! なんで結婚するんやーッ?!」
国行は吠える吠える。私が結婚する必要性のないことを力説したかと思えば、このうえは、私がいかに結婚に不向きかを懇々と諭し始めもした。
「だいたい、主はんに結婚なんて無理やで。ひとりの時間と空間がないと耐えられへんやろ。結婚って四六時中ずーっと一緒におらなあかんのやで? 無理やん! 血のつながった家族でさえ時々うざーって言うて……ほんでもって、こないに広い家なのに、一緒におられへん言うて一人暮らし始めたやないの。大体、片付けも料理もようせんひとが、結婚んん? まずは完璧に一人暮らししてから言えって話や」
「はぁあああ?! それお前にだけは一番言われたくないわ! 私以上に料理も片付けもできない子供部屋おじさんが、いつまでも実家に寄生して家には一円も入れんと給料全部趣味に使いおって! 私はしないだけで料理も片付けもある程度はできるんですぅ。だぁから、姉ちゃんが国俊や蛍を生んだときも、あんたにはお手伝い任せられなかったんでしょ」
「最近はちゃんとお金入れてますぅー! 主はんの入れてた分の二倍は生活費入れてますぅー!! それに坂本さんのお手伝いもようしてますぅー!!」
「うるせうるせうるせ知るかぁあああこのクソッタレが!」
「大体、出会って二秒でプロポーズて阿呆か! そんな生き方して絶対に後悔するわ。今はラリってて訳わからなくなってるかもしれへんけど、冷静になったら絶対冷めるって。お互いよう知りもせんで結婚て。絶対お互いのいやなところが見えて、うんざりするに決まっとるわ。主はんほんま性格カスやからな」
「国行……私のキックボクシングがどれだけ上達したか見てみるか」
「っそうやってすぐに暴力に訴えるところがアカン! DVやで普通に」
「明らかに村正の方が強いからいいのよ」
「いやそうだろうけども!」
白熱する私と国行のバトルに、一同はポカーンとしていたが――ここで新たなる刺客が。
「……確かに、出会ってすぐに結婚とはいかがなものか……」
まさかの父の裏切り! おのれ山鳥毛!!
「はぁあああああ?! 今さっきいいって言ったよね? 言ったのに覆すの?」
「し、しかし……。国行の言うことにも、一理あるというか……」
「ねえお父さん。パパは嘘をつかれるのが一番嫌いだって言ってたよね。それには私も同意する。で、お父さんは今、嘘をついたんだ。へえ。そうなんだ。嘘をつかれるのが一番嫌いなお父さんが、嘘をついたんだ。この私に」
「……………………しかし結婚は…………………………個人だけの問題ではないから………………………………」
――なるほど、分かった。
「じゃあもう、絶縁だ」
私の放った一言に、男連中(といって私以外に男しかいないが)がぎょっと目を見開いた。
「こ、ことり」
「主はん……」
驚愕と絶望の入り混じった顔つきをしているが、そんなことは知ったことではない。
「そこまでして認めてもらえないのなら、そもそも認めてもらえなくてもいい。縁切り上等。今後はお姉ちゃんと蛍と国俊だけが私の家族です、さよなら」
「ことり!!」
「主はん!!」
きっぱりと言い切って立ち上がろうとしたが――腕を引っ張られて立ち止ることになった。腕を引いたのは村正で、その顔は雄弁に「なりません」と語っている。
「主、落ち着いてください。短慮はいけません」
「結構落ち着いてるけど。万が一にこのパターンも考えたから。大丈夫、生活力なさそうに見えるけど意外とあるし、じいちゃんの生前贈与もあって金には困ってないから。今後村正が炎上して社会的に抹殺されて職を失ったとしても、あんた一人くらい養っていくのに十分な収入があるわよ」
「いえ、そういうことではなく」
そう言って村正はソファから立ち、そっと横にどけて、床の上に膝をついた。
「いきなりの申し出でさぞかし驚かれたことでしょう。混乱させてしまい、誠に申し訳ありません。今日はこれ以上の話し合いは無理だと思いますので、出直してきます。お二人に認めていただけるまで、何度でも足を運び、許しを請うつもりです。お二人の都合のつくときに、また窺わせてください」
粛々とした態度でそう言い、深々と頭を下げた。あの――村正が。いや、もともと村正は変な性格だが無礼でも非礼でもない。気遣いが出来て礼儀正しいタイプだ。まさかここまでとは……。
「やだ、好き!! 絶対結婚する!!」
「はい。では今日のところは帰りまショウ」
「うん」
私はひしっと村正の腕にすがりつき、逞しいそれにすりすりと頬ずりをした。からの、打って変わって冷ややかな目線を父と兄へと向ける。
「また連絡するから、絶対空けといてよ。ブッチしたら姉ちゃんにチクるから。あ、そうか。今度は姉ちゃんを連れてこよう。それがいい。即決でまとまるわ」
「いえ、そのようなチートアイテムを使うのはいけません」
「村正はまっとうだなぁ~。ま、そこがいいんだけど。じゃあね、首洗って待っててよ」
こうして決戦は次回に持ち越され、村正はその時まで私の一人住まいに泊まることとなった。
近場の鈍器みたいな名前のディスカウントストアに寄って、村正用の生活雑貨と夜の必需品を買いこむと、いよいよ結婚するんだなぁという実感がわいてきた。この先は何の見通しも立っていないけれども、気分はすでに新婚。
意外と頑固だった父と兄は、村正が言うところのチートアイテムを使ってでも承諾させてみせる。そんな野望を胸に、しかし今の脳内には目先の欲望でいっぱい。よ~し、いろいろとヤルぞ~!
~いささか時を遡って~
とはいえ、姉に結婚報告するのはかなりの勇気が要ったわけだ。山鳥毛激似の非常に美しい容姿とは裏腹に、うちの誰よりも豪放磊落で鷹揚に過ぎる姉上だが、なにか逆鱗に触れれば恐ろしくてかなわない。
私が実家で横柄に振舞えたのは、ひとえに姉がいないからに他ならず、彼女がいれば私なぞは借りてきた猫となるほどだ。
この電撃結婚の一報が吉と出るか、凶と出るか。先の見えない暗闇に足を踏み込むのを躊躇するかのごとく、私はスマホを握り締めて臆していた。そんな私を見守る村正に励まされ、
「もしもの時は……一緒に死んで」
ろくでもない遺言を残し、いざ、姉へ。L〇NEで『今通話大丈夫?』と前置きをすると、ちょうど携帯を触っていたところだったのか、秒で既読がついて、了承するスタンプが返ってきた。もはや腹をくくるほかない。通話ボタンをいざタップ。
「ごめんね、いきなり。ちょっとお姉ちゃんに報告があって連絡したんだけど」
『いきなりなぁに? もしかして彼氏でもできた?』
「えっと、半分正解というか……。つまりその、結婚を考えておりまして。というか、もう彼のご家族には挨拶を済ませた次第にて……」
『ことり、写真は?』
「今送りますゆえ、一旦切ります」
声色が変わったのが恐ろしすぎて、迅速に通話を切って村正の写真を撮りまくった。そうして一番映りのいいものを送る。と、これまたすぐに既読がつき、今度は向こうから通話が入った。これも迅速に取る。
「っはい!」
『男前じゃない。名前は?』
「はい、千子村正と申す者。年は二歳下、職業は自営業にございます」
『自営っていうと?』
「書道の先生と、Y〇u Tuber、執筆活動もしている意外と売れっ子であります。覆面で活動をしており正体は知りませんでしたが、偶然知り合いそれと発覚した次第でございますれば」
『あらーロマンチック。やるわね、ことり。どれくらい付き合ってるの?』
「……い……一週間ないくらい」
この瞬間が――一番緊張した。たぶん、村正の実家を訪ねるときよりも、強烈に。だって、村正の家族には粗相をしたって拒否られるだけ(それはそれでキツイが)だろうが、姉上への対応を誤れば、冗談抜きで生死が関わるかもしれないのだから。
ドキドキして死にそうになる私に、そっと寄り添う村正。そう、今は村正がいるから勇気百倍……いや、今少し及ばず。やっぱり姉上が怖い。
恐れおののく私をよそに、次の瞬間、電話口からは軽やかな――そう、まるで鈴を転がしたような可憐な笑い声(二児の母に使うのもなんだが)が聞こえた。とにかく姉は姿かたちから声に至るまで、すべて完璧なのである。妖精さんみたい。自慢の姉です。
『なーにそれウケる、あんたらしいわね~。いいんじゃない?』
おお、神よ……! 私は許された……!! 姉からの祝福はつづく。
『ことりの場合、ゼロか百かありかなしかだろうから、結婚だってそんなもんでしょ。わたしは応援するわよ。父さんや国行にはもう話したの?』
「それはまだ」
『え、大丈夫?』
「え? 大丈夫でしょー。お父さんも国行も私が結婚したらホッとしこそすれ、まさか駄目とは言わないでしょ」
『いや~どうかなぁ。父さんは確実に泣くわよ』
「バスタオル渡しとくから大丈夫」
『案外、国行がうるさいと思うけど。アイツ、死ぬほどシスコンじゃない』
「またまた~! 村正に私の黒歴史を吹き込むくらいが関の山だよ」
けたけた笑っていると、姉の電話口の向こうから男の人の呼ぶ声がした。あの女帝を恐れ多くもちゃん付けで呼ぶのは、義兄以外にいない。昼日中の時間帯に在宅ということは、仕事は休みだったのだろうか。
であれば、せっかくの家族団欒を邪魔してはいけない。どこぞの征服王みたいに豪快な姉だが、それでいて良き妻良き母なのだ。
「ごめん、もうそろそろ切るね! 聞いてくれてありがとう、また都合のいい時に挨拶に行かせて」
『分かった、また連絡するわ。あと、もしも父さんたちの説得が難航するようならいつでも呼んで。力になるわよ』
「大丈夫だって、お姉ちゃんの手を煩わせるまでもないよ~。でも気持ちはありがとね、じゃ」
『うん。お幸せにね』
話し終えた瞬間、私は真っ白な灰になった。緊張した……。
「報告は無事に終えたようデスね」
「うん……。普通に好印象だった……。たぶん、村正がお姉ちゃん好みの男前だったからだよ……」
「ということは、義兄さんも体の大きな方なのですか?」
「ううん。お義兄さんはシュッとしたひと。なんなら身長もそこまで高くない」
「そうなのデスか」
村正はなんとなく納得いかないような顔をしてみせたが、タイプと結婚相手は別ということだ。お互いベタ惚れでいまだに新婚みたいなアツアツ夫婦だから、いいんじゃないかな。
「では、あなたの好みのタイプはどんな男ですか?」
姉夫婦について語る私に、村正がちょっとした変化球を投げてきた。
好みのタイプ。好みのタイプ。しかしそんなものはよく分からない。よく例に挙げていたのが、最低ラインは国行で、最高到達点が父。村正はほどよいところにある気がする。
「村正じゃない?」
「…………」
パチーンと指をはじきながら返すと、村正は一瞬きょとんとしてから、そうですかと呟きそっぽを向いた。
え、もしかして。身を乗り出して彼を追いかける。逃げられる。
やだその反応、ガチじゃない。
「照れたの? 可愛すぎて特別税徴収するわよ」
「そんな横暴な為政者は、いずれ首を刎ねられマスね」
「おうとも。最期の言葉は『可愛いは罪!』ね」
「希代の暗君デスね」
「どんな名君をも狂わせる、恋とは恐ろしいものなのよ」
ガンぎまりの目つきで言ってのけると、村正は白けた目つきをした。「は、なにを寝ぼけたことを」
転瞬――彼の瞳の奥底に、なにかとても言い表しがたい……悲哀、のようなものが見え隠れした。
「逃げろという忠言を聞き入れず臣下と心中するなど、とても名君のすることではありません。名君たるには、生き延びて命をつないでこそです。あなたは名君にはなりえません」
しかしよくよく分析すると、悲哀と同等量の諦観もまた見え隠れして。意外と根に持つタイプだったのね。
「……蜻蛉切にでも聞いた?」
「いいえ。蜻蛉切は教えてくれませんでした」
「じゃあ、桑名かな。結構覚えてるもんだね」
逃げろと言ったのは蜻蛉切だったし、逃げないと言った私を、どうせ最期だからと援護してくれたのは桑名だった。付き合いの長い蜻蛉切はともかく、最後の最後で桑名が寄り添ってくれたのは意外だったな。彼とはそこまで深い誼があったわけでもない……と私は思っていたから。
それもこれも、ぜーんぶ昔の話だ。私の中には記憶というより記録として残っているような感覚だが、村正の表情からすると、その記憶というのは記録より鮮明なものであるのかもしれない。
生き延びてほしくて。あんな形で命を落としてほしくなかったのに、結局犬死したと知って、どう思ったのだろう。それを考えると、結構つらいものがある。
「なぜ逃げなかったのですか」
最初は、逃げて必ず生き延びようと思ったんだよ。でもそんな状況では全然なくて。私ごときを助けるために、それはそれはたくさんの仲間が死んでいく姿を見て、しかし結局はなにもかもてんで駄目で。
「大将の器じゃなかったからかな。仲間がたくさん死んで、心が折れちゃったんだよ。もう、まったくもって駄目だったの」
ぽつりと返すと、村正はぐうと唸るようにして目を閉じ――かろうじて、
「……そうですか」
と返した。過去にとらわれていたのは、私だけではなかったんだなあと安心したと同時に、もうやめにしたいとも思う。
そう、だって今の私は審神者ではないし、村正は刀剣男士でもない。歴史を守るため、のような重責はなければ、ただただ、互いを愛し助けるために生きていくことが、許されているわけだ。
「もう置いてかないでしょ?」
「当然です」
私の問いに、村正ははっと顔を上げて答えた。力強く。断固たる意志を持って。
「今度は、私があなたを看取りますから」
「でも男と女じゃ五歳以上寿命が違うからなー、たった二歳差だけど大丈夫?」
「そのために体を鍛えているのです」
「そりゃ頼もしい」
~そして今少し時を早める~
そうして六月某日、決戦の火蓋が切られた。
またしてもスーツ着用の村正と実家を訪ねると、本日はリビングではなく応接室に通された。革張りのソファと大理石のテーブルがやけに威圧的に見えるのは、この張りつめた空気のせい。結婚反対の意志は変わらず、という宣戦布告だろう。
こちらも掌にパシンとこぶしを打ち付けて、やったろうじゃないのと意気込みを見せる。父も兄も一様にそっと目をそらして気まずさをアピールしたが、もう遅い。
最悪は、二対二のタッグマッチで決着をつけるしかないか。開幕と同時に父をつぶす。国行は戦力外だから後回しだ。脳内で戦闘シミュレーションを繰り返す。
(一方的に)一触即発の空気のなか、ソファに腰を下ろそうとした、その時。インターホンが鳴って来客の存在を告げる。それを聞いて、真向いで父と兄が顔を見合わせ、国行が静かに席を立ちその場を後にした。
一体何事かと思っていると、ほどなくして国行は客人を連れて戻ってきた。その客人というのも、
「ことり、ひさしぶりだね。げんきそうでなによりだ」
私たち三きょうだいにとって、恐怖レベルで言うところの大魔神クラスの怖ェ大人、母方の叔父の――小豆長光だった。
まさかと父を見ると、さっと目を逸らされる。おのれ、不利をさとって応援を呼ぶとは卑怯な……!! 三対三の泥仕合で勝敗を決めようというのか。ならばこっちは蜻蛉切を召喚するぞ。
「おおまかなはなしは、義兄(にい)さんからきいているよ。れいせいなだいさんしゃがいたほうがいいだろうから、どうせきさせてもらうよ」
どうやら、頭の中に思い描いた地獄の泥仕合は回避できたらしい。叔父は超絶に怖いが、一番ニュートラルな立場で物事を考えられそうだから、人選としては最良だ。
「千子村正……。こうやってまみえることになろうとは、つゆほどもおもっていなかったな」
「ええ、ワタシもです。あなたがまさか主の叔父とは」
「もうきいているとおもうが、ことりのしゅっさんごすぐにあねがなくなって、しごとでいそがしい義兄(あに)にかわって、ことりのせわはわたしがしたものだ。かのじょのことは、むすめのようにおもっている」
ぐっと挨拶がわりに握手を交わすふたり。え、聞いてないが。みたいな顔つきで村正がこちらを見てくる。そう……確かに、言ってない。だってまさか、叔父が出てくるなんておもってないんだもの。――というか、叔父。わざわざあんなことを口にしたということは、こちらの旗色は結構わるかったりするのか。
一抹の不安を残しながら、かくして、結婚にまつわる家族会議が開催されるところとなった。
「それではまず、おたがいのいいぶんからかくにんしていこう。まずはことり」
「反対されようが村正と結婚するから。この意思は変わらない。以上」
「つぎに村正」
「結婚したいという思いは彼女と変わりませんが、ワタシはことりさんの家族から認められ祝福されたうえで、結婚させていただきたいと思っています。確かに、我々は出会ってまだひと月と経っていません。今初めて知ったことがあるように、お互いの理解も足りていない部分が多々あります。出会って間もなく、互いのことをよく知りもせずに結婚を決めて、後々後悔するかもしれないという、お父さんやお兄さんのお言葉も尤もです。相互理解を深めるために交際期間が必要ということであれば、そうさせていただきたいと思っています。とにかく、認めてもらえるように誠心誠意を尽くしていく所存です」
叔父は村正のことばを穏やかな表情でもって、時折頷きながら聞いている。父は一瞬そわそわとした顔つきをしたが、これはおそらく「君にお父さんと呼ばれる筋合いはない」みたいなことを言おうとしたが、村正の誠実すぎる態度になにも言えなくなったパターンだろう。兄だけが、神妙な顔つきでいる。
「……と、かれはこのようにいっているが」
叔父に振られ、私はようやく当事者意識を取り戻した。
「……村正が大事にしたいと思うことは、私も大事にしたい」
「では、『はんたいされても』というぶぶんはてっかいするね」
「そのように」
「ではつぎに、義兄さん」
「……正直なところを言えば、いきなり結婚すると聞いて、ずいぶんと驚いた。しかし、理由もなく反対するわけではないということを、分かってほしい。まだ出会ってひと月も経っていないそうだな、ならばこのように性急に結婚を急ぐ必要はないと思うんだ。それとも……なにか急ぐ理由があるのか? その、……子どもとか」
「ことり、村正。どうだろう」
司会の問いに、ふたり揃ってかぶりを振る。そんなことまで考えての決断ではないし、できちゃったわけでもない。
そうすると、父はほっとしたような表情をみせた。
「それなら、彼の言う通りもうすこし交際期間を経た上で……互いを知り合い、よく話し合って決めた方がいい。そうして決めたことなら、私は反対しない」
「交際期間ってどれくらいよ」
鋭く問いかけてみると、父は気まずそうに視線をそらした。
「……きみはどの程度を想定しているのかな」
村正にパスし、
「判断はそちらに委ねます」
見事に躱されて撃沈する。――しかしここで、伏兵が。
「ほんなら、交際期間はこの先一生言うたら、一生結婚せえへんのですか」
国行の憎たらしい言葉に、思わずティーカップぶん投げたろかくらいに思ったが、察した村正に手を掴まれて阻止された。
そのうえで、何も言うなとばかりに視線を合わせられ、口を噤まざるを得なくなる。では、ここは村正に任せるとする。
「そうなると話は変わってきますが、ひとまずは何が駄目なのか、何が足りないのか、どうすれば結婚に足るのか、その理由を問い続け、それに対する最適解を出していきたいと思います」
「どうしても駄目や言うたら?」
「納得のいく理由であれば改善できるように取り組みますが、到底理不尽で納得のいかない理由であれば、その時は……」
そこで言葉を区切って、村正が私の方を見た。少しだけ悲しそうな顔つきをしている。彼は本当に、双方の家族に認められ、祝福される結婚というのが理想なんだな。――それもこれも、私のためなんだろうけれど。
なんだろうけれど、何事にも限度というものはあって。
「私は始めから、認めてもらわなくてもいいと思ってるから」
「残念ながら、我々の好きにさせていただくことになります」
村正がきっぱりと答えると、向い側で父と兄の顔色が変わったのが分かる。父が兄を睨み、睨まれた兄がばつの悪い表情になる。――そんなとき。
「では、わたしからもひとついいだろうか」
突如として、司会の叔父が参入してきた。警戒する私に、叔父は穏やかな表情のまま、わたしのたちばはかわらないよ、とやんわりと付け加える。
「はんだんをにいさんたちにまかせるということだが、きみたちじたいはどうおもっているのかな。そうごりかいをふかめるためには、どれだけのきかんがひつようだとおもう?」
問いを受けてそろりと村正の方を窺うと、彼は小さくうなずいてみせた。ここもやはり、村正に任せることとする。
「結論から言えば、数日あれば十分かと」
大胆な村正の言葉に、当然のように父と兄は驚愕を示し、一方で叔父は冷静にそうかいと一旦受け止めた。
「では、そのこんきょは」
「我々は出会って間もないですが、それでもわずかな時間の中で、本質は少しも変わっていないことを認識しました。生い立ちについてはまだまだ知りえぬ部分も多いですが、互いの人間性にだけはゆるぎない信頼があり、それを含めて愛し合っています。今生での未知の情報を補完するだけなら、さほどの時間は要しません」
「なるほど……。おたがいのことはしりつくしているから、ということか」
叔父が深い納得を示した一方で、どんっと鈍い音がし、次いで国行が右手を後生大事に抱えて悶え転げた。――大理石のテーブルを思いっきり叩いたら、そうなるでしょうよ。
「っっ!!」
言いたいことは分かる。それは詭弁や、とかそういうことなんだろう。
「……主はんと村正はんが、仲良うしてはったのは知ってます。だぁれも入りこめん絆、みたいなんがあるのも。そんなふたりが出会って、結婚って言うのも……分からんでもないし、なるべくしてなった、みたいな気持ちもあります」
必死に手を振って痛みを逃しながら、国行は涙目になってぽつぽつと呟いた。
「じゃあ逆に聞くけど、それでなんで反対なのよ」
ずけっと聞くと、
「……だって、寂しいですやん……」
国行は蚊の鳴くようなか細い声で、答えた。え、さびしい? この答えには、一瞬父も呆然とし――ついで、遠い目をしてそうだな、みたいな顔つきで深くうなずいた。
「主はん、結婚せえへんて言うたやん……。主はんが結婚して家出てしもたら、一緒にゲームしたり、夜中にB級ホラー見てゲラゲラ笑ったり、アニメや漫画の考察でろくろ回したりでけへんし、オタクイベントも一緒に行かれへんやん……。お父はんだって、よう分からんなりにスマブラさせられて、ぼろっかすに負かされてるけど、みんなでゲームできるのを喜んではるし、姉さんお嫁に行ってからただでさえも寂しがってるのに、主はんまで行ってしもうたら、それこそ認知症まっしぐらやで?」
「まだまだそんな年ではないのだが……」
国行の行き過ぎた発言に、父は頭を抱えながらつっこんだ。司会者席で叔父は、会議終了みたいな晴れやかな顔つきでいるし、村正に至ってはなんとも言えない顔つきになっている。――なんなの、このカオス。
「……つまり、寂しいから嫁に行くなってこと?」
「せやからそう言うてます……」
「国行も彼女作りなよ……」
頭を抱えながら私が言うと、
「自分が見つかったからって、そないなこと言うて! ちょっと前まで、あんたもこっち側の人間だったやん?! なんでそんな残酷なこと言えんねん!」
国行はもはや顔面を崩壊させながら泣きついてきた。――まあ確かに、それも一理あるか。彼女作れは余計だった。
「ごめん……国行。浅はかだった」
「謝るくらいなら結婚なんてせんといてや……」
「いやそれは無理」
「なんでなん!」
「いやもう決まったし、したいからするよ」
「いやや寂しい!! 自分、主はんが思うてる五万倍シスコンやねん、主はんがおらんと生きて行かれへん!!」
「うわきっしょ、国行きっしょ」
「きしょくてええから行かんといて!! ぼさっとしとらんと、お父はんも止めてや、大好きなことりが嫁に行ってまうで?!」
「えっ……。……確かに、国行の言うことにも一理ある……」
いちいち息子の言に揺らぐ父の姿の、なんと情けないこと――。叔父に至っては、出されたロールケーキを食べては舌鼓を打ち、ティータイムを満喫している。村正に、きみもたべるといいなんて勧めたりして。いや、それより止めてよ叔父さん……。
「ことり、行かないでくれ。生い先短い父のためにも……」
「主はんに結婚は無理やって。戸籍汚す前にやめときや」
必死に縋りつく父と兄。さっきの家族会議はすべて茶番だったということか。私の怒りが一瞬にして限界突破し、すぐにでも星一徹クラッシュを決めそうになった、その刹那。
「彼女がお嫁に行かなければ、解決するのですか?」
村正が口を開いた。そうして誰が何を言うよりも先に、
「ではワタシが婿入りし、同居します。それで文句はないでしょう」
すっぱりさっぱりと言い切り、父の、兄の、叔父の、そうして私の――度肝を抜いたのだった。
ま、それでこそ千子村正。さすがは私が見込んだ配偶者よ。そういったところで、ざっと済みたり。
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