万屋での一件は、審神者の心に強い衝撃を与えた。
実際、審神者と刀剣男士が恋仲になるという話は、聞いたことがある。しかし修行時代も含めて、そういった状況を目の当たりにしたのは、あのときが初めてだった。
『別に否定はしないけど、善し悪しだと思うわ』
師は言った。
『惚れた晴れたでパワーアップする子もいれば、逆に身を亡ぼす子もいる。でもそれは人間同士でも変わらないわ。ただ、審神者と刀剣男士は、流れる時間が違うからね。つらいこともあると思うわよ』
そう言いつつ、師匠は恋バナ自体は好きだったし、しきりと弟子に向かって、いい恋をしなさいと言い聞かせたものだ。
いい恋ってなんだろう、と審神者は思う。
すでに成人して数年経つ身だが、彼女はまだ初恋さえ知らない。審神者になるという目標のため全身全霊注いできたというのもあるが、なにより――愛すること愛されるということに対して、彼女は非常に臆病だったのだ。
おそらくそれには、幼少期の別離体験が影響しているのだと分析している。まるで他人事みたいに――。
『こんなことになるくらいなら、自分が引き取るなんて言わなきゃよかったのに! 無責任な人、ほんと嫌い。あの子が可哀そうよ。最初から全然関係ないお家に養子縁組されていれば、こんな裏切りに遭うこともなかったのに』
まるで二回も捨てられたみたいじゃない――。
幼い頃の記憶だ。七五三に母の代わりとして来てくれた叔母が、夜になって祖父母と話していたこと。
それまで、自身が捨てられたなんて考えたことはなかった。しかしその一言をきっかけに、自分は二回捨てられたのだと思うようになった。
おそらくそれ以来、なのかもしれない。
肉親、それも実母からも捨てられることがあるのだから、他人など言うまでもない。勝手に期待して裏切られて傷つくくらいなら、最初から期待せずにいた方がいい。
それでもある程度ひとを信じることができたのは、祖父母や叔母、あるいは担当者となった政府関係者から、惜しみなく愛情を注いでもらえたから。
『母親の情には恵まれなかったかもしれないけど、おじい様やおばあ様の育て方がよほど良かったのね。じゃなきゃ、こんなにまっすぐな子に育たないわ』
強く生きなさいよ、と言った次の瞬間、師匠は、もう強かったわね失敬と笑った。――それが、嬉しかった。
「……なーに笑ってんの?」
そんな声が聞こえて、審神者はハッとする。目を見開くと、顔のど真ん前に加州の麗しの顔があって、びくりとして後ろにのけぞった。
「っ?! ごめん、なに、びっくりした!」
アワアワと慌てていると、水、と冷静な声が聞こえて水道の蛇口レバーが下ろされる。
「無駄に出しっぱなし。俺、そういうのに厳しいよ」
覚えずぼんやりしていたようで、軽い叱責を食らって審神者はしゅんと背中を丸めた。「面目ない……」
夕食の仕込みをしていたことを思い出し、慌てて作業を再開させる。大量のジャガイモを水洗いし始めると、加州は、で、と語尾を上げた。
「なに思い出し笑いしてたわけ?」
「えっ?! 笑ってた?」
「うん。にやーって」
怪しい笑みを浮かべる加州に、審神者は少しばかり頬を染めて気まずそうにした。それを見て、加州はますます意地の悪い笑みになる。
「なに、やらしいこと?」
「ちがうよ!」
「じゃ、なにさ」
「……いや、その。師匠に褒められたことを思い出してね」
こぶしほどのジャガイモを水中でごしごしとこすりながら、審神者はぽつりと言う。
「私の師匠……雪待先生っていうんだけどね。審神者界隈では、もぐりでさえ名を知ってるってくらいめっちゃ著名な人なのね」
「あー、あのど派手な人だよね。この前の演練で、遠目にちらっと見た」
「そう。すごく厳しくて、修行時代は毎日怒られて、冗談じゃなくトイレで涙を流すこともあったくらい」
冗談めかして言う審神者を、加州は興味深そうに見つめる。
「主にもそんな時代があったんだねー。今では刀剣男士を庭に蹴りだすくらいになっちゃって」
「それは、加州と陸奥守がいつまでも喧嘩してるから……! 蹴ってないよ、足を当てて押しただけ」
「世間じゃそれを蹴ったって言いますー。で? その先生、なんて褒めてくれたの」
加州は、野菜の皮を手早く向きながら楽しげに問うた。審神者もまた、つられて頬を緩ませる。
「まあ、いろいろ。本当に涙が出るくらい厳しかったけど、褒める時は大げさなくらいに褒めてくれる人だった。そのおかげで、今の私があるんだけどね」
「そっかー。いい師匠に会えたんだね」
「うん」
審神者が微笑むのを、加州がちらりと盗み見して、薄い唇が弧を描く。
「でもね~。こんなに可愛い弟子だったら、師匠も独り立ちさせるのはちょっと不安だったんじゃない?」
ちょっと茶化して言った加州に、そうかなぁ、と審神者は少しばかり自信なさそうにしてみせた。
「ちゃんとお墨付きはもらったんだけど……。やっぱり、独り立ちするには早かったのかな」
「そうじゃなくて。主、全然すれてないから、保護者がいない男だらけの本丸に放り込むのが不安だったんじゃ、ってこと。あ、ていうか」
加州が目を輝かせた。
「ね、主って恋人とかいるの? 好きな人でもいいけど。そういう感じ、全然匂わせないよね。でも若いんだから、そういうののひとつやふたつ、あるでしょ。どうなのさ」
いきなりポンポンと問いを投げてくる加州に、審神者はジャガイモを取りこぼして驚きをしめした。
「えっな、なんでそんな……。あいや……ご期待に沿えなくて、ごめんね」
苦笑を浮かべながら返した主を、加州はじとっと湿度の高い眼差しでねめつける。
「まさか全然ないってこたないでしょ。主いくつよ。二十歳だっけ?」
「二十一。でも年齢は関係ないよ。生涯童貞・処女っていうのも珍しくない世の中だし……」
「なんっでそんな端から諦めモードなわけ?!」
加州がけたたましく吠えていると、
「加州君、そんな大きな声だしてどうしたんだい?」
燭台切光忠が厨に顔をのぞかせ、驚いたように二人を見やった。
「燭台切いいところに! ちょっとこっち来て、そして仕込み手伝って。聞いてやってよ、主がさ~」
「なになに? もちろん手伝うよ」
燭台切はどこまでも気のいい返事をして、棚からエプロンをとってかけ、いそいそと二人に並んだ。
審神者は不服そうに加州を見て、なんだよ……と小さくこぼす。
「主がさ、なんかもう恋愛なんて……みたいな雰囲気なの。ありえなくない? まだまだこれからだっての」
「まずは主の言い分を聞いてみようか」
冷静な燭台切に諭されて、審神者はじゃあ……と唇を尖らせながら言葉を紡いだ。
「いや別に、恋愛なんて……なんて言ってないよ。縁がなかった、って言っただけ」
「そういえば、主は審神者になるために小さい頃から一生懸命努力したんだって言ってたね。今後は?」
「……ご縁があれば」
「んも~っ消極的! ほしいの、ほしくないの?」
燭台切とは打って変わってガンガンに詰めてくる加州に、審神者はたじたじになる。
「っそりゃあ……一回くらいは……素敵な恋をしてみたいけど……」
照れながら審神者が返すと、加州はぱしんと掌にこぶしを打ち付けた。
「はいきた。いいよ、その調子」
「加州君、ノリノリだね」
「だって主の恋バナ、聞きたいじゃん。で? 主はどんなのが好み?」
「こ、好み……?」
「加州君、ちょっとぐいぐい行き過ぎ。でも、僕も気になるかな」
恥じらいをのぞかせる審神者に、加州はうずうずとした様子を隠せない。燭台切もまた、そんな加州をやんわり窘めつつも、聞きたそうにしている。
そんな雰囲気に耐えられなくなったのは、審神者だった。ジャガイモをボウルにざらざらと移し、これも! と加州と燭台切に押し付ける。
「分かんない、好きになった人がタイプ!! もうこの話終わりっ!!」
そう言って手を拭くと、さっと踵を返した。
「あ、まだ途中!」
加州が逃がすまいと声をかけるが、
「オンラインミーティングの時間だから。アディオス!」
厨の出入り口に立って、審神者はくるりと肩越しに振り返ると、一言そう言って脱兎のごとく逃げ出した。
「逃げられた……」
悔しそうにする加州に、燭台切はジャガイモを手に取って微笑む。
「初心だね、主」
「まったく、変な男に騙されないか心配だよ。ま、そんな男いたら刻んでやるけど」
「同感」
二口は軽く笑い合ってから、黙々と皮むきに取り組むのだった。
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