06:審神者として/刀剣男士として - 3/5

「あっ……」
 と思ったときにはもう遅い。不注意で倒した丁子油の瓶から、中身がこぼれて道具箱をはでに汚した。
「っつあ~……やっちゃった……」
 情けない声を上げて審神者は天を仰ぐ。
 しばらく放心してから、ため息を吐きながら腰をあげ、布のタオルとペーパータオルとを持ってくる。何度目か分からない嘆息をつきながら、道具箱の中を拭き上げていく。
 最近こういった凡ミスが多い。道具箱を汚す程度ならまだしも(まだまだ使える丁子油を空にしてしまったのは痛いが)、たまに途方もないミスをしでかすこともあって、審神者は憂鬱な気持ちを引きずっていた。
 ――ひどく心が落ち着かない。
 それゆえ気もそぞろで、集中力が続かない。そうしてこういったミスへとつながっている。今のところは大きな事故は起きていないが、こういったものの積み重ねが、きっと取り返しのつかない事態を引き起こすだろうことは明白だ。
 いつから。――自覚したのは一週間ほど前。
 きっかけは。――これはハッキリとしている。陸奥守と万屋街に出かけて、恋仲と思しき審神者と刀剣男士の姿を見てから。
 はっきりと言葉にしてしまったから。恋をしてみたい、と。
 自分のなかにあったほのかな願望を、明確に言語化してから。その思いを自覚してからずっと、どうにも調子がでない。
 そんな自分の不甲斐なさが、恥ずかしくてたまらない。
 審神者は内省し、気合を入れるために自らの頬を両手で叩いて鼓舞した。
「集中!!」
 こんな時こそ、がむしゃらに仕事に打ち込むべし。道具箱をきれいに拭き上げてしまうと、審神者は腰を上げて執務机へと向かった。
 ひとまず、本丸の状況を確認する。財政面、育成面、最近ぼちぼちと形を成してきた、運営組織について。
 財政・育成については、ひとまずは立て直しに成功したといっていい。
 短刀脇差打刀中心の部隊編成で出陣を重ね、本丸全体の練度の底上げが完了し、供給資材の上限が増えた。これにより手入れ・刀装作成も安定して行えるようになり、太刀以上の大型刀種の育成も進み、同期の審神者たちと比べてもなんら遜色ないレベルまで達した。 
 ――すべては、陸奥守の助言があったからこそ。
 そう思ったとき、頼もしい彼の笑顔と言葉が思い出され、途端に胸の奥がざわついて仕方ない。感動や感激といった類の感情とは違う。もっと面はゆくて胸がどきどきするような――。そんなものを自覚したとき、審神者はハッとして目をしばたく。
「集中!!」
 思わずぼんやりしかけた己を叱咤激励し、再び両の頬を叩いて気合を注入する。一発では足りず、二発、三発、四発……。
「主さん。そろそろ休憩でも……って、なんですかその顔?!」
 お茶を淹れて持参してくれた堀川が、ぎょっとした顔になるほどに赤くなった頬。審神者は目を細めて、眠いから……と言い訳するので精一杯だった。
「眠気覚ましに、ちょっと歩いてきたらどうです? 秋桜がきれいですよ」
 堀川にもらった小さな保冷剤を頬に当てながら、審神者は追い立てられるようにして執務室を出た。
 秋桜畑の前に立って、しばらくぼんやりとして――行くともなしに、審神者は城内を歩く。そうすると、威勢のいい声に引き寄せられて、自然と足が道場へと向いていた。
 木刀のぶつかる鈍い音と、迫力のある気合の声。あけ放たれた戸からこっそりと顔をのぞかせると、手合わせ中の刀剣男士たちの姿が見える。
「懐に潜り込まれたら終いやぜよ! 目ぇで追うな! 体で覚えて反応せえ!!」
 鋭い声が飛ぶと同時に、短刀が急激に間合いを詰めて太刀の懐に潜り込み、急所をとらえた。そこで一旦立ち合いが終了となる。
「体で覚えろって、無茶苦茶言うな」
 尻餅をついたままの体勢で鶴丸が苦く言葉を吐くと、
「目ぇで追うたちどうせ捕まらんき、体に叩き込むしかないがよ。鶴さんやったらできる! わしぁ信じちゅう」
 指導教官を務めていた陸奥守は、腕組みしてうなずいた。
「そこまで言うんなら、教官殿のお手並みを拝見したいところだな」
 鶴丸が脇に退けると、
「僕は続けてでも構いませんよ」
 平野藤四郎は涼しい顔で言う。陸奥守はにっとして、ほいたら、と木刀を手に取って前に出る。
「丁度うずうずしちょったところじゃき。平野、わしの相手もしちゃってくれや」
「はい、謹んでお相手仕ります」
 陸奥守が立つと、平野も木刀を握りなおしてニッと笑ってみせた。
 そうして二口が木刀を差し向け合う。
 息をのむほどの重厚な沈黙が流れ――そうして、なんらかの契機で二口がわっと動く。さすがは短刀平野、踏み込みが速い。長物連中からすると、縮地もかくやという初速の速さが脅威だろう。あっという間に飛び込んできた平野を、しかし陸奥守は焦らず動じずに受け、何合か打ち合った。
 そこで平野が距離を取る。お手本通りのヒットアンドアウェイは、速さが売りの短刀ならではの戦い方だ。しかし陸奥守――そうやすやすとは逃がさない。
「油断大敵!」
 体勢を立て直そうとした矢先、陸奥守が取り出した拳銃、その銃口が平野をとらえる。バーン、と陸奥守は子供の遊びみたいに口で銃声を真似し、平野はなすすべもなく立ち尽くし、膝をついた。
 もちろん撃たれてはいない。引き金は絞っているが、銃声もなければ火薬の匂いもない。しかし平野は、陸奥守が何をしたかが分かったようだった。
「飛び道具とは卑怯ですね」
 困ったような苦笑いを浮かべながら、平野は参りましたと手をあげる。
「短刀の速さぁ、飛び道具と同じようなもんじゃき。銃は剣より強し、じゃ」
 高らかに笑い声をあげた陸奥守に、鶴丸は膝の上に頬杖をついて不服そうにする。
「おい、俺は飛び道具持ってねえぞ。ていうか今のはなんだ、足でも狙ったのかい?」
「その通り! この距離じゃ、狙いは外さん。脚を止めさせたらこっちのもんぜよ」
「ったく、参考にならねえっての」
「なっははは!」
 ――弾けるような笑顔を垣間見、審神者はぎょっとして踵を返し、その場から立ち去る。ほとんど逃げるようにして、走って。
 なんだこれ?! ずんと重く鋭い衝撃の後にきた、耐えがたいほどの動悸。ぎゅうぎゅうと心臓をわしづかみにされるような疼きに、審神者は胸を押さえながら執務室へと直行する。
 不整脈か、心疾患か。健康診断ではそういった指摘はなかったはずだが――。そんなすっとぼけたことを考えながら走っていると、
「おっわ!」
 廊下の曲がり角で、向かい側からやってきた誰かとぶつかり跳ね返され――そうになったが、向こうが支えてくれて事なきを得た。
 ぶつけた鼻が痛い。押さえながら顔を上げると、驚いたような顔の蜻蛉切がいる。
「申し訳ありません! 大事ありませんか」
 顔をしかめて鼻を押さえる主を認めて、蜻蛉切は膝を曲げて心配そうにする。
「っあ、こっちこそごめん! 大丈夫、蜻蛉切は……大丈夫そうだね」
「自分はなんとも。前方不注意でした」
「いやそれはこっちも、本当に。大丈夫だから、本当にごめんね。ありがとう」
 ペコペコとしながら蜻蛉切の横をすり抜けると、審神者はパタパタとさらに走って行く。

 

 こういったことが、一度や二度ではなかった。
 あるときは、遠目に陸奥守を見つけて。畑で泥だらけになって笑いあう姿にくぎ付けになり、胸が痛くなったり。
 あるいは些細な優しさに、どうしようもなく胸が苦しくなったり。
 気づけば、彼の姿を探している自分がいて。けれども、見つけ出してこの目に映し出して、直視して、しきれなくて目をそらして。それなのにしつこくまた見て、感情を乱して。
 丁度いまもそう。新しい丁子油の瓶を開けようとして、なかなか開かなくて――。
「ん、がががががが! っだー開かない!!」
 蓋をあぶるか、と厨に持っていこうとしたとき――タイミングよく、彼が現れた。
「主、困っちゅうみたいやの。わしに貸してみぃ」
 にやにやとしながら手を差し伸べた陸奥守に、審神者は慌てふためきながら、瓶を手渡す。――変なところを見られただろうか、恥ずかしい。そう思うのに、――困ったときに、いつもそっと助けてくれる。その実感が、なにより嬉しくて。
 どぎまぎとしていると、陸奥守はいとも簡単に瓶の蓋を開けてくれた。にっと笑いながら、
「どーじゃ?」
 まるで手柄を誇示するようにそう言う。
「っあ、ありがと……」
「主の細こい腕には荷ぃが重たかったろうの。こんな時こそ、わしの出番じゃき!」
 笑う彼の顔を、まともに見ることができない。どきどきとしていたさなか、
「ちょっとごめんよ~。次郎さんが通るよ~」
 米俵を肩と小脇に抱えた次郎太刀が、危なげもなくのしのしと歩いていく。
 その姿に圧倒された審神者がぽかんとしていると、陸奥守は、
「さすがは大太刀……」
 こちらも圧倒されたようにぽつりとつぶやいた。
 何気なく審神者が陸奥守を見上げると、その視線に気づいたのか、彼はばつの悪そうに審神者を見て、目をそらす。
「一緒にしたらいかんがぜよ。むっちゃんは打刀、次郎先生は大太刀じゃきの」
 どこか必死な様子に、審神者がぷっと噴き出すと、陸奥守もすぐに笑いをこぼした。しばし二人で笑いあう。――気恥ずかしいような、けれども嬉しく温かいような。
 これまで感じたことのないような、その感情。
 すべての引き金は、陸奥守だったと審神者は気づく。

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