理性の沼 - 2/5

 そうして迎えた、近侍制度の試験的導入初日。
 桑名の説明通り執務室横の近習室を訪ねると、山姥切長義に出迎えられた。
「来たか。執務室へ行く前に、簡易的だが打ち合わせをする」
「ブリーフィングか。楽しみだな」
「I hope so.」
 さらっと返した長義は、わざとらしくニコリとしてみせ近習室の中へと道誉をいざなった。
 来客スペースのようなところに案内すると、長義は数枚つづりの書類を手渡す。タイトルは『試験的近侍制度 運用要項』。実に興味深い書類だ。
 長義はどっかりとソファに座った道誉とは対照的に、立ったままの状態から始めた。
「まずは、今回の取り組みについて。桑名からはどのように聞いている?」
「刀剣男士の声にこたえて、近侍の試験的導入を行うと。俺はその第一号ということ。そのように」
「その理解で合っている。では、今回試験的に近侍を行うにあたっての心得を説いていきたいところだが……。まずは、黙読してもらえるか」
「Naturally.」
 道誉は渡された書類へと目を通した。

 本制度は、審神者の身辺警護を主として、刀剣男士の中から一定期間、近侍を選任し、審神者の安全および職務の円滑な遂行を補助することを目的とする。
 併せて、刀剣男士が主務者の業務内容を理解し、本丸の統制および信頼関係を深化させることを目的とする。……云々。

 要するに、これまで通り主の秘書的な役割は近習衆が担い、「近侍」は主の身辺警護を行うということらしい。
 そのほか、任期や守秘義務、行動規範などが明記されている。誰が読んでも分かりやすい一枚だ。
 読み終えて視線を上げると、長義が口を開いた。
「書いてあることですべてだ。任期は一週間。終了後は、報告書の提出とアンケートの回答に協力いただく。任期中、負傷・病気・その他やむを得ない理由により継続が困難な場合、速やかに近習衆へ報告すること。質問は?」
「身辺警護ということは、主の御身を守護することだけ……それ以外のことは、君たち近習衆が担うという理解でいいんだな」
「もちろん。新人の君に主の補佐は難しいだろうからね。職務中は、いついかなる時も主を警護する。八つ時はおやつに付き合い、リフレッシュに散歩すると彼女が言い出したら随行する。それだけだ」
 文字にすると冷淡なように聞こえるが、言葉の響きは存外やさしい。山姥切長義。元政府付きの刀で、特命調査以後本丸配属となった元監査官――。
 しかし今は、主の懐刀とも言える存在だと聞き及んでいる。もっと言うなら、新人時代に様々な功績をあげて、超スピードで上り詰めた、本丸一の出世頭とも。いちいちそれらがうかがえる、完璧なたたずまいだ。
 値踏みするように見つめて、道誉は唇の端に笑みをうかべた。
「Understood. ときに、警護は夜間の身辺警護も含まれるのかい?」
 おどけまじりに問うた道誉に、
「主の勤務中のみだ。第五条の行動規範について熟読してくれ」
 長義はぴしゃりと叩きつけた。
 第五条にいわく――審神者の私的空間への立ち入りは、許可がある場合を除き不可。
 今度こそ道誉は、了解したと答えた。

 

 そうして長義に連れられて、執務室へと移動する。長義がノックすると、はーいと間延びした声が返ってくる。失礼する、と折り目正しく長義が声をかけて入室すると。
「あ、道誉さんいらっしゃい。この度は突然で申し訳ないけど、試験導入の第一号、よろしくお願いしますね」
 執務机に座った主が、椅子から立ちながら出迎えてくれた。
 にこやかな主に、長義は一瞥をくれて、
「これはこれは。今日はまるで敏腕女性社長、といったいで立ちで」
 皮肉っぽい笑みを浮かべながら彼は言う。
 審神者はむっとわかりやすく唇を曲げて、入ってきた長義の腕のあたりを肘で小突いた。
「いつもは浮浪者みたいな言い方、やめてよ。最初が肝心かなめでしょ」
「自覚があったのか。それは結構」
「もー! まあそんな軽い近習ジョークは置いといて、道誉さん、どうぞどうぞ。無礼な長義はログアウト」
「ログアウトする前に、本日の書類をどうぞ」
 長義がわざとらしく書類の束をどんと執務机に置くと、審神者はまたしてもいやそうな顔をする。それににこやかな笑みを返すと、長義は恭しく頭を下げて、
「それでは、ごゆっくり」
 退出していった。
 審神者は書類の束をぱらぱらとめくり、ため息をつきながら机へと戻る。
「まあ……あんな感じだけど、気にしないで」
「実にフランクな間柄だ。これこそが、本丸全体の空気に影響しているわけだ」
 道誉の言葉に、審神者はえーそうかなと曖昧な笑みを浮かべてみせる。
「それで、俺はどの辺にいたら君の邪魔にならないかね?」
「え、もう適当に。ずっと立ちっぱなしも疲れるだろうから、適当に座ったり、暇つぶし……にはなんないかもだけど、本棚もあるから適当になにか読んでてもいいよ」
 書類とキーボードを自分の近くに寄せた審神者が言うと、ふむ、と道誉は顎に手を当てる。
「規約には、審神者への敬意を忘れず、他刀剣男士との軋轢を避けること、とあるが。そんな風に適当でもいいのかい?」
「いやー敬意とかそういうのは……。削ってって言ったのに……」
 審神者はひとりごちて、渋い顔をする。主の意向は規約には反映されなかったらしい。
「いや本当に、執務室にいて危険なことはないだろうから、少なくともここにいるうちはリラックスしてて。私も、いかめしい顔して立ちっぱなしでいられると、気が散るというか、集中できないかもだし」
 言葉を選んで言った審神者に、道誉は了解の意を示した。
 しばらく立ちながらに、主を観察する。
 すでに彼女は仕事モードに入って、与えられた書類に目を通して机の上に並べている。優先順位をつけているのだろうか。首をひねったり、独り言を言いながら仕分けるさまは、いかにも真面目な主といったおもむきだ。
 一通りの仕分けが済むと、次にディスプレイを近づけて、端末を操作しだす。キーボードを打ち込む速さ。時々止まって画面と書類とを交互に見比べ、考え込み――タイピングを再開して。
 執務室には事務作業の音が静かに響く。
 観察に飽きた道誉が、彼女の邪魔にならないようにゆっくりと動き、本棚へと向かう。極力音を立てないようにして戸を開けると、
『戦略論入門――クラウゼヴィッツから現代戦まで』
『孫子を読む――戦わずして勝つ組織論』
『兵法三十六計 現代翻訳版』
『現代軍事組織論――指揮系統と士気のマネジメント』
 下の段には、
『戦国日本の軍制と武器』
『中世日本の軍勢と宗教』
『君主論』
 ……
 ほかの棚を見てみるが、
『現代の名将たちに学ぶ意思決定』
『日本刀図鑑大全――時代・流派別資料集』
『戦場で生き残るための心理戦術50』
 興味を引かれて手に取ってみると、ふせんがびっしりと張られたものから、まったく新品同然のものまで多種多様だ。
 組織運営論や刀剣に関するものが読み込まれているようで、なるほどなと道誉は思った。この審神者だからこその、この本丸か。
 一冊を手に取り、道誉は読み始めた。
 ほどなくしてから、
「座ってどうぞ」
 審神者の方から声をかけられ、申し訳程度に一人がけソファに腰を据えたのだった。

 

 執務室のドアがノックされる。声をかけたのは、前田藤四郎だった。
『主君、そろそろお昼になさいませんか?』
 姿を現した近習に、審神者はやっと顔をあげ、それから時計を見て、ああと声を上げた。文字盤はすでに13時近くをしめしている。
「もうこんな時間か……。ごめん道誉さん、お腹減ったよね。そろそろお昼にしましょうか」
 さっと机を片づけた審神者が椅子から立つ。自分の腹具合はともかく、主の昼休憩については少し気がかりに思っていたところだった。
「この場合、俺の方から声をかけた方がよかったかい?」
「どうぞどうぞ。集中すると食いっぱぐれることもあるので、ありがたいです」
 審神者が答えると、前田はおっとりと微笑んで、そうですねとも言わんばかりだ。この分だと、いつまでたっても昼休憩にしない主を心配して、わざわざ声をかけにやって来たのだろう。
「お昼はどうなさいます?」
 前田が問いかけると、審神者はうーんと首をめぐらせる。
「道誉さん。私はここで食べようと思うんだけど、道誉さんはどうします? 食堂に行っても、ここで食べてもどっちでも。食事は用意しますので」
「What a treat! では、ご相伴にあずかろうか」
「じゃあ前ちゃん、よろしく」
「かしこまりました」
 前田がそう言って退室すると、審神者は応接セットの方へと移動した。除菌タオルでロウテーブルを拭くと、どうぞ座って、と道誉へ促す。
「といっても、食堂のごはんを持ってきてもらうだけなんですけどね」
 審神者はいたずらっぽく付け加えた。
「二人分なら、俺も行った方がいいかな?」
「いえいえ、ワゴンで持ってきてくれますよ」
「至れり尽くせりだな。申し訳ない」
 恐縮してみせると、審神者はくすりと笑みをこぼした。
「余裕があるときは、出前を取って近習の子たちと一緒に食べることもあるんですよ。ごめんなさい、今日は忘れてた」
「なんと……。近習たちはうらやましいな、君と楽しくランチタイムか。確かに、不満の声も出るはずだ」
 冗談めかして道誉が言うと、審神者はいえいえ、と手を振って否定する。
「いやそんな、和やかなランチタイムは稀ですよ。今は仕事が落ち着いてるからこんな感じだけど、修羅場のときはもう悲惨……。おにぎりをお茶で流し込んで終わりーみたいな。まじのガチで余裕がなかったら、クッソまずいプロテインバー一本、ってときもあるから」
「それでは、俺は実にいい時期に選ばれたというわけだな。光栄に思う」
「いえいえ。でも、顕現されたてでテスト導入に付き合わされるって、それもちょっとアレですよね」
「アレ?」
 道誉が聞き返すと、審神者はなんていうか……と言葉を探る。
「だって、道誉さんは別に今の制度に不満があるとかじゃないでしょ? 近侍したーいっていう、奇特な刀剣男士の声に答えての取り組みだから、顕現して日の浅い道誉さん的にはどうなのかなって思って」
 奇特。その言葉にわずかにひっかかりを覚えて、道誉は背もたれから背中を浮かせた。
「なるほど。では、本丸には奇特な刀剣男士が大半を占めるわけだな。募り募って新たな制度を導入するに至るほどに」
「うーん……。そうなのかなぁ?」
 考え込むふうの審神者をじっと見つめ、道誉はあるひとつの仮説を立てた。――どうにも、彼女は自身の主としての価値について、無自覚なようだ。これほどまでに慕われているというのにも関わらず。
 しかしそれでは、この本丸の刀剣男士たちも報われない。道誉はどこかしら、老婆心のようなものを抱いた。
「君は、なぜ多くの刀剣男士たちが近侍をしたいと思うか、考えてみたことはあるかい?」
 ずばり聞くと、審神者は目を丸くしてみせた。
「なぜ……。さあ……。知られざる主の生態に迫る、みたいな」
「ではなぜ、知られざる主の生態に迫りたいのか」
「知的好奇心?」
「ハァ。その答えは実にNonsense. 君は、自身が思っている以上にわが刀たちから愛されている、という事実に気づいた方がいい。その方が、君にとっても刀にとってもハッピーだろうな」
「あいっ……」
 道誉の言葉に、審神者は咄嗟に口ごもり、そうして激しく視線をさまよわせた。
 いったい何と返す?
 じっくりと観察する道誉の前で、彼女はしばらく落ち着きなく周囲を見渡してから――口元を手で覆ってうつむいた。
 ややあってから、ゆっくりと顔が上がる。その目元には、どうにもたまらんという表情が浮かんでいる。ほんのりと、目元も赤く染まっているように映る。
「……道誉さん、すごいこと言いますね」
「俺は感じたままに、感じたことを口にしただけだが。Just a feeling.」
 さらりと返すと、審神者ははー……と溜息を吐いた。分かりやすく照れているようだ。
 さて、次はどう返す?
 愉快極まりないといった風情で、道誉は審神者の出方を待った。
 そうしたとき――。
『主君、失礼します』
 ワゴンの音とともに前田藤四郎が到着し、さっと審神者が立ちあがる。待っていたとばかりに。
「よっし! じゃあご飯にしましょう。前ちゃん、ありがとう」
「主君はおかけください」
「いいのいいの。早く食べたいからさ! さ、道誉さんもじゃんじゃん食べて。昼からもがんばろー!」
 必要以上に元気よく給仕を手伝う審神者を、道誉は隠した口元でにんまりとして見つめる。
 ――なかなか面白い……そうそう、あれだ。味のある主、かもしれない。
 初日は、そんな感想につきた。

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