四日目。
手入れが深夜にまで及んだことから、審神者は昼からの出勤となった。
道誉がソファにかけて執務室の本を読んでいると、そーっとドアが開き、コソ泥のように主が入ってくる。目が合うと、彼女はうははとわざとらしく笑ってみせた。
「道誉さん、おはよう! 昼過ぎてるけど、起きてから一発目の挨拶は、おはようということにしてます」
「では、おはよう。つまり君は寝起きなんだな」
さらりと指摘すると、審神者はへへへと笑い、そーっと執務机の方に行く。仕事仕事、とやはりわざとらしく独り言ちながら、机の上に無造作に置かれた書類を見て、ため息を吐いた。起き抜けに景気の悪いことだ。
道誉が視線をやると、それに気づいて審神者はすーっと彼の視線上にディスプレイを配置する。まるで隠れるように。
不審に思って席を立つと、審神者はすこしばかり目を白黒させてみせる。
「えっ、はい、どうしました?」
「どうした、はこっちが聞きたい。……おやおやぁ? 今日は、いつもよりあどけない顔立ちに見えるな」
この聞き方はわざとだ。普段よりも彼女のメイクが薄いことに気づいたから。
鋭い指摘に審神者は目を見開き、がたがたと音を立てて机の引き出しを開けると――いかにも野暮ったい、黒縁眼鏡を取り出してかける。そうすると、いつもの敏腕女性社長が一変、冴えない女性事務員のように見えるから不思議だ。
にやにやとする道誉に、審神者は思いっきり顔をしかめてみせる。
「もー、わっざとらしいな! ええそうですよ、寝坊したからがっつり化粧してくる時間がありませんでしたぁー!」
動揺著しいのか、非難の声はひっくり返っている。普段あまり見ない姿なだけに、道誉の好奇心といたずら心はとどまるところを知らない。
「恥ずかしがることはないさ。How lovely you are. 薄化粧でも可愛らしいものだ。ただ、その黒縁眼鏡はいただけない」
「もう、そういうくっさいこと言わないで! 恥ずかし死ぬ!」
力いっぱい返した審神者の、その必死さがあまりにも愛くるしくて。道誉は思わず吹き出してしまう。
そうすると彼女は、あっち行ってー! と外聞もなく声を上げ、道誉の体を押した。椅子から立ってまで、道誉を押しやろうとする。
「ふんぬぬぬぬ重いな?! 道誉さんデカい重い!」
「それが主の本気かい?」
「んぇええええい!!」
道誉が煽ると、審神者がさらに力む。力士の四股のようにがっつりと腰を下ろし、全身で襲うとして――
「一体なにを騒いでいるのかな。騒がしい」
壁にあるドアが開いて、眉を寄せた山姥切長義が登場した。執務室と近習部屋は壁一枚隔て、しかもドアで通行できる構造となっている。あまりにもギャーギャー騒いでいたから、見かねて出てきた、というところだろう。
「うわっ長義!」
審神者は迫真の表情で驚き道誉の体から手を放し――慣性に従って、彼の体に激突した。
「ったい! 道誉さん、硬い!!」
「まあこの体だから。Sorry ‘bout that.」
思わず審神者の体を抱き留めようとするが、それよりも先に、長義が間に割って入った。
道誉に背を向けて、主へと向き直る。
「まだまだ書類は山ほどあるが。随分と余裕のようだね、追加を持参しよう」
「待って待って待ってー! まだ今始めたばかり、これからやるの、ちょっと待って!!」
「ならば座る。手を動かす。騒いでいる暇はないよ」
「サーイエッサー!」
長義に追い立てられて、審神者はしっぽを巻いて執務机へと向かった。
「まったく……」
ここで長義は道誉の方へ体をむけ、はじめて意識したとでもいうように、視線をやった。
「主をいたずらに煽らないでいただきたい。もう一度、規約の第五条を読み直してほしいものだね」
ちくりと刺すと、長義は振り返りもせずに近習部屋へと戻って行った。道誉は肩を大仰にすくめてみせる。忠実な番犬、とでもいったところか。
審神者の方へと視線を向けると、すでに彼女は仕事に取り組んでいた。切り替えの早いこと。かすかに笑うと、彼もソファへと戻り、本の続きに目を通した。
その後、審神者は終業までぶっ続けで仕事をつづけた。
確かにその後も、追加で続々と書類が届いたり、会議があったりと多忙なため、遊んでいる時間はないのだろう。
終業を告げるチャイムが鳴ると、はっと顔をあげて道誉の方を見た。
「あ、業務終了! 道誉さん、お疲れさまでした」
そうは言うものの、審神者は席を立つ気配もなければ、仕事道具を片づける様子もない。
「君は?」
問いかけると、審神者はまだ残る、と続けた。
「私は切りのいいところまでやります。道誉さんは楽しいアフターを」
「それなら俺も残ろう。主の身辺警護が務めだからな」
再びソファに腰を落ち着けると、審神者はいえいえと固辞した。
「超勤つかないから大丈夫ですよ。これは、個人的な残業というか」
「ならば俺も個人的な残業だ」
本を読み始めて、これ以上のやりとりを続ける意思がないことを示すと、審神者は戸惑いがちにしながらも、おずおずと仕事をつづけた。
窓から差し込む明かりが完全に消え、夜の帳が下りたころ――ようやく、審神者はおわった、と声を上げた。
道誉が視線を向けると、審神者は椅子にもたれかかって、天を仰ぎはーと溜息を吐いている。
とてもくたびれている時がある。いつぞや誰かが言った言葉が、道誉の脳裏をよぎって口元が緩んだ。
「お疲れ様。これでようやく、君もアフターかな」
「あ、お疲れ様です。お付き合いいただきありがとう。……なんだか疲れたな」
ぽつりとつぶやいた彼女を、道誉はじっと見つめた。疲れ切った顔つきに、昨日の姿がよぎる。そうして、掌の熱も。どこか心が落ち着かなくなって、努めてその考えを振り払った。
「昨日は遅かっただろう。今日はゆっくりと休むといい」
ねぎらいの言葉をかけると、審神者はそっと道誉のほうを向いた。視線が合うと、どこか気まずそうに逸らされる。
沈黙。
何を思っているのだろう。昨日のことだろうか。そうであればいい。
願うような道誉に答えるように、審神者はなんだか、と低く切り出した。
「……昨日は、変なところ見せちゃってすみません」
「変?」
「……なんていうか。ああいうの、自分の部下に……刀剣男士に言うことじゃなかったなって、ちょっと反省しました。忘れてください」
いじいじと手を組んだりにぎったりしながら、審神者はぽつりと言う。
道誉はソファから立って、ゆっくりと彼女との距離を縮めた。
近づいてきた彼に、審神者は少し驚いたようにそちらを見る。逃げたいと、顔に書いてある。しかし逃がしてはあげない。道誉はさらに歩みを進めて、審神者の真向いに立った。
「君は後ろめたいようだが、俺としては」
ゆっくりと言葉を紡ぐ。
彼女は、一体何を言われるのだろうと、どこか戦々恐々とした様子でいる。――昨日は、あんなに立派な主の姿をしていたのに。今はまるで、怯える小兎のようだ。
怖がらせたくはないのだけれど、しかし反して、道誉のなかにいたずら心が湧き上がる。知らなかったその顔を、もっと見たい。けれどもやっぱり、怖がらせたくはない。怖がられて、距離を取られたくはない。
その折衷案として――
「……君の本音が聞けてよかったと思っている。主としての矜持や、責任。華奢な双肩で背負おうとする姿。昨夜の君は、実に気高く美しかった」
真っ向から言葉を吐いてみた。
すると彼女は一瞬目を丸くし、次いで、見る見る間に頬を上気させ、わなわなと体を震わせた。
次の瞬間、――激しい感情の吐露。
「っっっも~~! だからそういうドストレートに恥ずかしい言葉、やめてって言った!!」
「時として正直になるのも、ビジネスでは有用な手だ」
「これビジネスなの?!」
「ビジネスとは生き方にも通ずる」
「もういいです! 解散!!」
審神者は力いっぱい叫ぶと、机の上をざっと片して執務室を出ようとする。
「主、端末の電源を切り忘れてないかい?」
道誉がにやりとして指摘すると、
「消しといて!」
それだけ言って、バタンとドアを閉めて彼女は去った。脱兎のごとき逃げっぷりに、道誉は声を上げて笑った。
笑いながら、昨日分からなかったことが、なんとなくつかめた。
――おそらく、興味。
道誉一文字は、審神者の人間性という深いところにまで、足を踏み入れたくなった。
それは、この近侍制度で得た大きな収穫だった。
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