理性の沼 - 5/5

 最終日。
 これで最後かと思うと非常に名残惜しい気がして、道誉はこの日、始業ギリギリに執務室へとむかった。
 ノックすると、返事が返ってくる。主の声。彼女の方が先だったようだ。
「Morning,主。今日が最終日と思うと、名残惜しくて出遅れてしまった」
 気障ったらしく道誉が言うと、審神者は少しだけ意地の悪い顔つきをみせる。
「おはよ~うございます、道誉さん。私は今日で最後と思うと、ちょっとばかし気分が楽ですよ」
「なんと。俺の存在は君にとって負担だったと?」
 わざとらしく傷ついたふうを装って言うと、審神者は目を細めて鼻で笑った。
「負担というか~? 道誉さんの意地悪に翻弄されずに済みますからね。はぁ~私も名残惜しい~。今日も一日、頑張りましょ♡」
 名残惜しいと言いながら、満面の笑みだ。少しだけ傷ついて、道誉は主へと詰め寄った。
「せっかく距離が縮んだと思ったのに。実につれないな」
「はっはっは。本丸にいれば、また顔を合わせる機会もあるって」
 軽く言った審神者に、道誉は思わず不服そうな顔を向けた。そうすると彼女は目に見えてびくっとして、挙動不審に視線をさまよわせた。
「あ、いや……。はい。ごめんなさい」
「なにに対する謝罪かな?」
「えー……それは……」
「道誉さんに意地悪を言ったこと、に対してかな」
「はい……」
「では、そのように。Repeat after me, then.」
 ん、と顎でしゃくってみせると、審神者は信じられない……と言った顔つきになる。しかし、じっと笑顔で圧をかけると、審神者はひょえぇ……と小さく鳴いて、
「ドーヨさん、意地悪いって、ごめんなさい」
 子どもが言うような舌ったらずさで、言ったものだ。ふざけ交じりは、せめてもの抵抗か。
「Good.」
 満足げに返すと、審神者は死んだ魚のような目をして顔を背けた。
「これはもう……逆パワハラですな……。ひどい。傷ついた。パワハラ委員会に訴える。あ、長は私だった」
「おや。これは慌てるところかな」
「そうだよー! 貴様を軍法会議にかける!!」
 すぐやられそうな雑魚上官キャラのような口調で言う審神者に、道誉は笑いをこぼした。
 ――実に、名残惜しい。
 道誉はつくづく思う。こんな軽妙なやり取りも、審神者と近侍という距離感だからこそできるものだ。この関係性がなければ、道誉は本丸の平構成員でしかなく、発言権もなければ主へ近づく手段もない。
 実に、名残惜しい……。
 一秒一秒を噛みしめながら、その日を過ごした。
 必要以上に主の傍で、彼女の姿を瞳に焼き付ける。ソファからでは遠いと思い、別室からパイプ椅子を持ってきて、机のすぐそばに陣取った。
「近いことない?」
 審神者は訝ったが、お気になさらずとスルーすると、それ以上の追及はない。
 勤勉な彼女は、仕事モードとなると集中力が半端ではない。負担になる道誉がそばに居ようとお構いなしに、書類をめくり、キーボードを叩き、電話をかけ、会議に出席し、手入れをし、……そうやって目まぐるしく時間が過ぎていく。
 たとえば、考え込むときに口元を手で覆う仕草とか。さらに熟考するときは、こぶしを握って口に当てる。ふんわりと指に乗った唇に見とれてみたりして。
 あるいは、会議のときに話すタイミングをうかがう目線の動き。全体を見渡して、そうして確信が持てると口をはさむ。主には仲裁役だ。ヒートアップしていた刀剣男士も、鶴の一声で鎮静化する。たまに、発言がかぶるとちょっとしょんぼりしてみせるのが、可愛い。
 電話口で。まるでコールセンターのお手本みたいな丁寧なしゃべり方なのに、裏紙に「うんこ」とか「ボケ」と書いて、イライラを発散させている姿。
 ちょっとした行き違いで、本丸内の研修をすっぽかしたとき。歌仙兼定から叱られる姿は、どう見ても子犬のようだった。
 どこぞの棟で水漏れが発生したと聞いて、現場を見に行った帰り。道場を覗いては、白熱する戦いに興奮するさま。息をつめて見守り、決着がつくと、気が高ぶるままに道誉の胸をバシバシと叩き――偶然触れた生身の肌に、ギャアッ! と声を上げてみたり。
 素の審神者を知るにあたって、もっと――という欲が、道誉のうちにこみ上げてきた。もっと見たい、知りたい。
 しかし今日で、最後。
 このまま時が止まれば。――揶揄われて顔を真っ赤にした彼女を追いかけながら、道誉は詮無いことを考えた。

 

 そうして、名残惜しい一日が、終わる。
 無情にも鳴り響く終業のチャイムに、審神者はディスプレイから顔を上げて、おわり、と声をかけた。あまり聞きたくなかった言葉だ。
 彼女はすっと椅子から立って、傍らに控えた道誉の前までやってきた。笑顔だ。憎らしいほどに。
「道誉さん、一週間お疲れさまでした。お試し近侍、どうだった?」
 にこやかに聞いてくる主に、道誉は少しばかり眉間に力をこめ、しかし観念したように力を抜いた。
「実にいい時間だった。名残惜しく、一日一日があっという間だった。願わくば、延長したいくらいだな」
「あ~ん残念、次が控えてるんですな」
「嬉しそうに」
 いささか仏頂面で言うと、審神者はビビりちらすかと思ったが、想像に反して微笑んでみせる。
「いやでも、私も結構楽しかったですよ」
 そんな一言に、道誉は思わず動きを止める。
 そんな彼にかまわず、審神者は執務机に手をついてもたれかかるようにし、意地悪だったけど、と付け加える。
「でもやっぱり……こうやって過ごす時間が長いと、見えてくる一面ってたくさんありますね。うちは組織で動いてるから、私が近習や幹部以外の刀剣男士と蜜に関わる機会って、本当に少なくて。だから、組織が出来上がった後に顕現された子たちとは、飲み会くらいでしか話したことがなかったんです」
「そう……か。それで、俺のどんな一面が見えたと?」
 呆然としながらも道誉が食いつくと、審神者は、え~と少し照れくさそうにしながらも、そうだなぁと考える仕草をみせた。
「たとえばー……。道誉さんの、ご飯の食べ方が綺麗とか。あと、めっちゃ気が付くタイプだなとも思いましたよ。石田くんの手入れの時とか、目配せしただけで気づいてくれたでしょ。正直驚きました。あとは―……まあやっぱ、意地悪だなと。初対面のとき、まじでめっちゃ怖いひと来たー! って思ったんだけど、意外と茶目っ気があるといいますか。それでちょっと安心しました。なんていうか全体を通すと、道誉さん、めっちゃシゴデキのタイプですね」
 腕を組んで、ウンウンとうなずきながら審神者が言う。
 彼女の口から紡ぎだされる、自身の姿。彼女が見た、自分の姿。そこに温度があって、感情があって。にわかに気分が高揚していくのを、道誉は感じる。
「お褒めに預かり光栄だな。では俺からも、君への気づきを言っても?」
「えーなんだろ、怖いな」
 審神者はおどけたように言いつつ、笑って言葉を待った。
 そんな彼女を、道誉はまっすぐに見つめて――目をそらさない。
「なぜ、多くの刀剣男士たちが近侍をしたいと熱望するのかが、よく分かった。なるほど、君は実に魅力的な女性だ。主としての顔と、管理者としての顔、そうして時折見せる、素の顔。そのいずれもバランスがいい」
 まっすぐな言葉に、審神者はぎょっとしてみせる。しかし道誉はやめない。これは明確に彼女へ伝えなければならない言葉だ。
「強くて、弱い。けれどもしなやかだ。傷ついても、涙しても、受け流すしなやかさ。実に美しいと思った」
「え、泣いたっけ……?」
 審神者は疑問を口にするが、やはり道誉の言は止まらなかった。
「知れば知るほどに、もっと知りたいと思う。そんな魅力を、君は持っている。正直に言うと、目が離せない。この意味が分かるかい?」
 視線の先、彼女は驚くでもなければ恐れるでもなく、どこか呆然としたように立ち尽くしている。
 道誉は椅子から立ちあがった。ぎしりとパイプ椅子が軋む。その音が生々しく夕暮れ時の執務室に響いた。
 距離を詰め、手が届くほど近くへと歩を進める。たった数歩の距離。けれどもそれが、厳然として立ちはだかっていた距離だった。
 手を伸ばす。大きな手が近づくと、審神者はハッとして身を竦める――触れようとして、しかし手を止める。
 今はまだ、その時ではない。
 道誉はこぶしを握り締めた。――分からなくてもいい。今は、まだ。
「この本丸は実力重視だったな」
 そう言って、一歩下がる。足の長い彼の一歩は、審神者が安堵できるほどの距離を稼ぐことができたようだ。
 体を横に向けると、道誉は唇の端をくっと持ち上げた。
「いつか、君のそば近くに。Farewell…… my beloved.」
 横目で一瞥すると、道誉は胸に手を当て、恭しく頭を下げて執務室を出た。

 

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