――世界には無数の線が張り巡らされている、と彼女は言った。
因果、因縁、運命。
人と人、人と物、物と物。
はじまりとおわり。
過去と未来。
それらを結びつける細い線が、この世界を形づくっているのだと。
初めてその話を聞いた日、夏油は曖昧に笑った。そんなもの、見えはしないと。
しかし、彼女は真剣だった。まるで自分には本当に見えているかのように。
自分には見えはしないのだけれども――。
夏油傑は今日も、その線を信じて進む。切れないように。失わないように。
自分には見えずとも――きっと確実に続いていると、信じて。
呪術高専の広大な敷地内、研究棟までの道のりは徒歩で十五分。
学生の時分は学校の敷地から、そうして今では対外戦術局棟から。何度となく通った道のりは、もはや眠っていても行き来できる。
十月下旬。
晩秋の寒さはしかし、黒いコートが完璧に遮断して特になにも感じない。冷たい風が、髪を揺らす。視線をずらすと、桜の木が風に揺れているのが見えた。赤く色づいた葉――見事な紅葉だ。
近頃ぐっと冷え込んだ影響で、紅葉は見ごろを迎えている。通いしな、彼女はこの赤い葉を見ただろうか。あるいはもっと奥まった場所に行けば見られる、鮮やかな紅葉や銀杏の木を。
そんなことを考えている間に、研究棟へ着いた。
虹彩認証とIDカードでゲートを通ると、受付に声をかける。
「外事室所属、特級術師の夏油傑だ」
身分を名乗る。
新人と思しき受付嬢は、その名を聞くなり緊張ぎみに背筋を伸ばした。ご案内しますという言葉を断って、夏油は地下へと続くエレベーターに乗り込んだ。
目的地は地下二階、通称『因果律研究室』。
因果律に干渉できるという特異な術式を持った、たった一人の術師のためだけに、十年ほど前に新設された部門。縁脈操術と名付けられた特殊な術式の解明のためだけに、日夜研究に邁進している。
……といえば聞こえはいいが、実質は術師をモルモットにして隔離しているようなものだ。
そうして、その術師は夏油の同級生でもある一級術師、秋月識。
彼女が高専に入学してから十年以上、研究は続いている。しかし、その全貌はいまだ明らかになっていない。
研究室に『実験中』のランプが点灯しているのを見て、夏油の足が速くなる。軽くノックすると、ガラスごしに研究員が気づいてドアを開ける。かすかに開いたドアに手をかけ、ぐいっと押し開けて夏油は中に入る。
無機質な空間――。その真ん中に、頭や指先に測定器具を取り付けられた女性が、立ってうつむいている。華奢な背中と、細い手足。白衣の色は膨張色だというのに、その存在感を透明にするように、暴力的な白さが余計にか細く彩る。
女性の手が上がる。呪力を帯びたその手が、何かをつかんだ――ように見えた。瞬間、その呪力が青く迸ったのが夏油の目に映る。
計器がなにかを記録する。
女性の眉間にしわが刻まれる。苦悶の表情。食いしばった歯の隙間から、かすかな声が漏れたのが聞こえて、夏油は思わず声を上げた。
「やめさせろ!」
そんな声に、ぴたりと――呪力のほとばしりが消える。計器がぴたりと止まる。
「……傑くん」
かすかな声が聞こえたかと思えば、その視線が――研究員の無数の視線までもが、夏油に集まる。
それを意に介さず、彼は女性に歩み寄った。女性――識は、夏油の姿を認めて少し不思議そうにし、それから「あ、」と小さく声を漏らした。
「じゃなくて、夏油術師。どうし、……」
彼女は最後まで言葉にすることなく、ふらりと上体をかしがせた。それを危なげなく受け止めて、夏油は彼女の体に装着された測定器具をすべて外す。そうして、軽く支えながら椅子まで誘導した。
「夏油術師、いきなり困ります! この計器は手順を踏んで解除しないと、深刻なダメージが、」
白衣姿の研究員が敵意むき出しの口調で抗議するが、夏油の静かな一瞥で口ごもる。その他の研究員も、敵意まではいかなくとも歓迎ムードとは程遠い。
「それはすまなかった」
冷たい視線が他の研究員にまで波及すると、室内は一気に沈黙に包まれた。
それを見渡して、夏油は研究主任へ詰め寄った。
「実験は中止だ。結界に微細な揺らぎが生じていると報告を受け取った」
「一時的なものです。揺らぎが生じているなら、なおさらその原因と、因果干渉のパターンを計測しなければ、」
「研究運用規定第三条、第四条に抵触する。第七条、監督術師の立場から実験停止を求める」
異論はないな。冷たい声で夏油が言うと、主任は一瞬だけ顔をゆがめ、わかりましたと不承不承うなずいた。
返す刀で、夏油は本日の研究ログについて開示を求める。若い助手がやってきて、タブレットを手渡した。それを手にすると、夏油は内容を確認し、助手に突き返した。
嘆息をひとつ。
「今日だけで『中因果』に関する実験を三パターン。……術師を殺す気か? 日に一回までの取り決めではなかったか」
厳しい視線を向ける夏油に、主任は苦々しい顔つきをして黙り込む。
そこに、
「あのう……夏油くん。私が、」
被験者である秋月識が声を上げた。
「言ったの。今日はできるところまでやろうって」
思ってもみない言葉に、夏油は目を見開いた。そうして、つかつかと彼女のもとへと歩み寄る。識は、はた目にも「これから怒られる」といった顔つきで待っている。
夏油が眼前に立ちふさがると、彼女は目に見えて小さくなった。
「識。私は君を守るために研究規定を作ったんだ。当人がそれを破るというのか?」
「いや……その。今度の休日は……呼び出されたくなくて」
もじもじと指先をいじりながら、彼女が言う。
「土日に呼び出さない代わりに、実験の前払いというか……その……。ごめんなさい。私からの提案。だからみんなを責めないで」
そんな告白に、実験室内に微妙な空気が流れる。
夏油は半眼になりながら研究員たちを一瞥し、大きなため息を吐いた。
「だとしても、安全に運用するために止めるべきだろう。なんのためにこれだけの人数がいるんだ。それに、いくら研究のためといえど、休日に術師を召喚すべきではない。この件は上に報告させてもらう」
冷たい夏油の言葉に、研究員たちはしらっとした様子でいる。
怒りの矛先がそれたか、と安堵しかけた様子の識を、夏油は急に振り返ってどきっとさせる。
「ひぇっ」
「君もだ。とにかく今日の研究は中止。……行くぞ」
彼女の手を取って、夏油は無理くり研究室から連れ出した。
※コメントは最大10000文字、100回まで送信できます