現代編 1 - 3/5

 識の手首を握る夏油の手は、その強引さに反して優しい。研究棟から出ると、しばらく歩いたところで足が止まった。
「識」
 名前を呼ばれて、彼女はピクリと肩をゆする。そうしてどこかおずおずと、高い位置にある夏油の横顔を見上げた。
「……なんでしょう」
 おっかなびっくりした様子に、夏油はかるく息を吐いた。口元が緩みかけて、しかし甘やかすかとばかりに力をこめる。
「なんであんな無茶をしたんだ」
 問いかける声はやさしい。識はかすかに目を細めて、いやあ、と苦く笑ってみせた。
「さっきも言った通り。休日、邪魔されたくなかったから」
「だからって、……」
 さらに畳みかけようとした夏油だが、休日、という単語にそれ以上が出てこない。
 そう。――今週末は、同期で集まる予定があった。夏油もそれに出席する。もちろん、彼女も。それを思い出して、表情が曇った。心置きなく楽しむために、の暴挙だろう。内心は複雑である。
 それに気づいたように、識は微苦笑を浮かべて夏油を見上げた。
「みんなで集まるの、久しぶりでしょ。絶対の絶対に、呼び出されたくなかったんだよね」
「……気持ちは分かる」
 夏油も苦く笑うと、でしょ、と彼女は表情を明るくさせた。
「奮発して可愛い~ロングコートを買ったんだ。でもあんまり着れてなくて。最近寒いから、今度こそ着たいし誰かに見せたいなって思ったの」
 にこにこと語る識に、夏油の表情も柔らかくなる。
「へえ、どんなコート?」
「ベルト付きの、ダブルのロングコートだよー。真っ黒。傑くんの任務用のコートがかっこ良すぎてさ、似たようなのが欲しいなって思ってたんだ」
 夏油は自身の着ているコートを見下ろして、ふっと笑う。
「これでよければ貸すけど」
「傑くんのじゃ、裾がぞろびいちゃうよ。松の廊下だよー」
 殿中でござる~。明るくふざけた識に、夏油も声を上げて笑った。笑いが一段落すると、
「でも、マジな話」
 夏油は言葉を区切った。
「なぁに?」
 識が小首を傾げてみせる。すこしだけ、夏油の声に意地悪な色が混じる。
「今週末は、予報だと暖かくなるそうだ。近頃は異常気象だからね。ロングコートという気温じゃないかもな」
「えぇ?! うそ、そうなの?! やだー! コート着たいよ、タンスの肥やしになっちゃうよー」
 めそめそと泣くふりをする識に、どんまい、と夏油はあたたかい声をかける。
 それなら、今夜にでも――。喉の奥までこみ上げた言葉を飲みこむと、それなら、と夏油は続ける。
「雨でも降ればいいかな。そうすれば気温がぐっと下がる。ロングコートにはうってつけじゃないかな」
「雨か~。濡れるのもやだなぁ。でも着たいなぁ」
 さびしげに言った識に、夏油はくすりと笑った。
「複雑だな」
「複雑だよー。……あ、でも。雨が降ると、紅葉がもっときれいに見えるね」
 識はくるりと周囲に視線を馳せて、ほら、と指を差した。
「桜も真っ赤。春もきれいだけど、秋もきれい。桜はいうことなしだね」
「毛虫がつくけどな」
 茶化して言った夏油に、識は少しだけむうと唇を尖らせてみせる。悪かったと笑い含みに詫びると、いいけどーと識は素知らぬ顔をした。
「紅葉といえばー……。高専って、桜も紅葉もきれいじゃない?」
 高専は大きな山二つ分の敷地に、校舎と関連施設が建っている。桜も紅葉も銀杏も、その他に風光明媚なスポットは山ほどある。――学生時代は、息抜きがてらに穴場を散策したものだ。
「傑くんは、……」
 窺うように識が見上げてくる。言わんとしていることは分かっている。――仕事は山積みだ。本当はこんなことをしている場合でもないのだが。
 しかし、彼女の控えめなお誘いを、夏油傑は断れない。
 夏油は息をつめて様子を伺っている識に、ふっと苦笑を漏らした。
「その前に、上着を取ってくること。私のコートでは松の廊下なんだろう?」
 促すと、彼女は寒さで青ざめた顔に、にわかに生気をみなぎらせた。
「え、ホントにいいの?! じゃあ取ってくるよ、待っててよ、絶対行かないでよ?!」
「行かないさ。ほら、行っておいで」
「行ってくるー! ちょっと待っててね」
 識は何度か後ろを振り返って見て、夏油の姿を確認しながら研究棟へと戻って行った。
 その後ろ姿を見送りながら、夏油はその場に立ち尽くして待った。ぼんやりと、考え込む。

 ――もう、十年。

 彼女はずっと、この地下で世界と切り離されてきた。
 十年前、あの日――。
 あの判断、、、、がなければ、識はここに閉じ込められることはなかった。夏油はその事実を、明確に自身の罪として認識している。

『縁脈操術』と名付けられた彼女の術式の研究が、本格的に始まったのが十年前だった。
 縁脈操術。もっとわかりやすく言えば、因果律改変術式。
 元々は呪術界に存在しなかった、完全に識オリジナルの術式だ。名付けに深い意味はない。高専入りの際、仮称として付けられたものがそのまま正式名称になったにすぎない。
 現状分かっていることといえば、ごく断片的な事実ばかりだ。十年も研究してなお全貌は掴めず、その不可解さこそが、彼女をここに縛りつけている。
 現在判明しているのは、
・森羅万象に「因果」の「線」が存在し、
(生物・無生物を問わず“結果を持つ事象”すべてに走る線)
・因果の線は術者のみに視認、干渉できる
(識以外には“存在しないもの”として扱われる)
・因果の線からはあらゆる事象の「原因」と「結果」が視認でき、(未来へ伸びる分岐のラインが示される)
・「干渉」することで、本来あるべき「結果」を変えることができる
・術者が干渉できる「因果」には三種類あり、弱・中・強の「強度」に分けられる
・因果の線に干渉すると、強度によってさまざまな代償が生じる
 ――そうしてもっとも重要なのが、
・因果への干渉時、天元の張り巡らす結界に“揺らぎ”が発生する
 ということだ。
 結界の揺らぎ──。
 天元が張り巡らせている結界網は、常に一定の呪力密度と流量を保っている。その均衡が一瞬だけ崩れたときに検知される異常値──それが『揺らぎ』とされる。
 数値は誤差の範囲に見えるが、研究者に言わせるとそれは、結界、ひいては世界の均衡そのものを崩壊させる引き金にもなりうると。
 因果の線に触れることは、いわば『世界の記録を書き換える行為』だ。
 彼女の術式は、ありていに言えば「未来を変える」。本来起き得たはずの事実が消失し、起き得なかったはずの事実が誕生する。その歪みが、天元の結界に揺らぎを生じさせるのだ。
 結界の揺らぎが偶然なのか、識の術式の本質なのか。しかし、それすら判別できないまま時が過ぎている。
 どういう条件で結界が影響を受けるのか。
 どういった影響が世界にもたらされるのか。
 呪術界の根幹を揺るがしかねない事態であるため、高専側も実験には慎重を期している。一刻も早い解明を望まれているが、あまり進捗がないのが現状だ。
 秋月識は、呪術師としては一級。
 それに見合う実力も実績もある。
 しかし、未知数の術式は結界への影響が大きいとされ、彼女は日がな一日を研究室に閉じ込められ、実験に使われている。
 滅多にない任務への出動要請がかかる場合は、必ず特級術師の同伴が必須となる。
 識が現場に派遣されるのは、無下限ほか分析能力に秀でた術式を使用しても解析できない「謎」がある場合のみで、その能力は、因果の線を読み取り、種々の分析をすることにのみ使われる。
 そうして、絶対の条件として存在するのが、その「因果」の線には干渉しないこと。――彼女に術式を行使させないために、特級術師の監督が必要というわけだった。
 とはいえ、特級術師のうち二人は同級生で、友人である。それだけが救いともいえるが、だからこそ、結託を恐れてか上層部の許可が下りづらい。
 ほんとうなら――夏油は思う。息の詰まる研究室に閉じ込めるよりは、外に連れ出してやりたい。
 しかし、それがかなわない。
 だから、つかの間の休息――どんな形でも、すこしでも彼女に、外の世界を見せたかった。

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