穏やかな気持ちで待つ夏油の仕事用の端末に、無粋な通知が何件も入る。一瞬だけチラ見して通知を消していると、次には着信が。画面には「室長」の二文字。
「……はい」
夏油が応答すると、
『夏油副室長、あなた。……自分が何をしたか分かってる?』
電話の向こうの声は、若い。今年室長に就任したばかりの芦屋は、夏油よりも年少の女性だ。
前任の室長退職に伴い、本来なら副室長を務めていた夏油が昇進するのが筋だったが、こういった問題から政治的圧力がかかったのだろう。
『研究に干渉したそうですね』
芦屋の声は、氷点下を観測しそうなほど冷たい。
夏油は目元にうっすらと不快なものをにじませて、しかし毅然とした態度で返す。
「被験者の安全確保こそが最優先です」
『優先ではあっても、あなたの独断で実験を止めていいとは言ってません。そんな裁量、あなたには存在しない』
「しかし、結界に揺らぎが、」
『研究員が一時的な誤差と言ったのでしょう。なぜその判断を信用しないんですか?』
「……識の状態を見れば、十分な理由になるはずです」
『秋月術師。被験者。名前で呼ぶ必要があります? あなたの立場は監督術師。研究対象に肩入れしてどうするんです』
冷たい声に、夏油は閉口した。――思わず感情が高ぶってしまった。苦い顔つきで黙り込む夏油に、芦屋はため息交じりにいう。
『研究棟から正式に苦情が来ています。”夏油術師が研究の進行を妨害した”と』
「妨害ではありません。安全確認です」
『あなた個人の判断で? とんだ驕りですね。あなたは術師で、研究員じゃありません。勘違いしないでいただきたい』
しかし、研究者は術師ではない。術師ではないからこそ、彼女の呪力の流れや結界に生じた揺らぎ――密度や流れの変化など、微細な呪力環境の変化に気づくことができない。その結果が、彼女を摩耗させているとも知らない。
夏油は奥歯を噛んだ。しかし、芦屋の言はすべて『正しい』。それが組織としてあるべき姿だ。
『この件におけるあなたの職務は“監督”です。研究棟と衝突してどういうつもりですか。もう一度言います。……次、同じことをしたら監督員からも外します』
そう。外事室の副室長・夏油傑にできることは、術式研究の監督。しかしそれはあくまで、事故が起きないようにするための最低限のストッパーでしかない。
現場の研究員が安全と判断し、それに足る証拠を出したというなら、夏油の行動は越権行為もいいところだ。
押し黙る夏油に、芦屋は続ける。
『ご理解なさいましたでしょうか。……返事は?』
――納得はいかないが、筋は通る。夏油は眉間にしわを刻みながら肯定を示した。
「……はい」
『分かったなら、すぐに戻ってきてください。結界管理局が“原本提出”を求めています。あなたの黒塗り報告では、もう通らないそうです』
「……ありえません。彼女の術式情報は……」
『いいから来てください。総監局の検閲が入ります。今行かないと、あなたの”大事な識”が総監局直轄扱いに移されますよ』
電話が切れた。手の中の端末が、やけに重く感じる。
行けば、また彼女の術式が政治の卓に載せられる。
しかし行かなければ、その政治に彼女ごと呑まれる。
どっちを選んでも、選ばなくとも。夏油にとってはどちらも苦しいことになる。
――そうしたとき。
「すーぐる。なにしてんの」
軽い声とともに、音もなく現れた者がいる。夏油をしてこう呼ばしめるのは、ひとりしかいない。
「悟か。……任務帰りか?」
同じく、特級呪術師の五条悟。夏油の同級生にして、唯一無二の親友だ。
手にお土産を持った姿を見てそう言うと、そ、と五条は軽く返した。
「お、言うなよ。当ててやる。その顔からするとー、室長に怒られたな」
「悟、黙ってろ。私はたった今機嫌が悪くなった」
「図星かよ。おーこわ」
「図星だよ」
あっさりと認めた夏油に、五条はふーんと呟き、で、と続けた。
「なんだよ、識と逢引か? 待ち合わせ中?」
「逢引きって……。随分古風だな」
「それなのに、あの女からお叱りの電話かメールをもらって、むしゃくしゃしてたってところか。どんまい! 通りもん食う?」
ずい、と土産袋を押し付ける五条に、夏油はいい、と手を振った。しかし。
「いらない。……あ、いや。それなら識にあげてくれ。甘いものなら彼女も好きだろ」
「いいけど。……なに、戻んの?」
「仕事が入った」
「忙しいな」
踵を返した夏油に、五条が肩を竦めながら言う。
「互いにな。……識がもうじき戻ってくる。私の代わりに、紅葉狩りに連れて行ってくれないか」
じゃあ、と夏油は高い靴音を響かせて、足早に管理棟の方へと戻っていく。――まるで、逃げるように。
「ったってよぉ……」
その場に取り残された五条がつぶやく。
ほどなくして、息せき切った識が戻ってきた。黒いシックなロングコートを着て、手にはペーパーカップの飲み物をふたつ、ドリンクホルダーに入れて。
そうしてすぐに、待ち人が違うことに気づいて目をしばたいてみせる。
「あれ、悟くんだ。傑くんは?」
「識ちゃん、悪ィ。俺が傑に無理言って代わってもらった~。さ、デートしよデート。通りもんあるよ」
五条が、ほれほれ~と土産袋からお菓子を取り出してみせると、識は一瞬目を丸くして、――次いで、薄く微笑んだ。
「そっか。悟くん、そんなに私のこと好きだったの。しゃ~ね~なぁ~。通りもんもらう、ありがと」
識が手を出すと、五条は掌に三つ四つお菓子を乗せた。そうして、ドリンクホルダーから紙カップを受け取る。「ま、たまにはいいだろ」
カップに口をつけよう――として、その動作が止まった。
「ってこれ、無糖?」
「ごめん、砂糖もミルクもないんだ」
夏油も識も、無糖派だ。五条はそれに気づいたようで、しゃあねえなと呟いて、お菓子の個包装を破った。
「通りもん食うしかねえか……」
「悟くん、行儀悪いよ」
「共犯だって。お前も食え」
そうして、二人並んで歩く。
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