早朝の外事室オフィス。
出勤時間よりもかなり早いということもあって、そこにはまだ夏油以外の姿はない。
自身のデスクで、夏油は書類整理の傍ら、ちらちらと個人用の端末の画面を確認している。
確認書類二枚目で、画面が光って通知をしらせる。『秋月識』の名がみえると、夏油はすぐに通知をタップした。暗証番号を入力すると、すぐさまアプリの画面に飛ぶ。
『いつもありがとう!
傑くんもすでに出勤してるのかな
私は大丈夫、いつも通り適当にやるから
傑くんも頑張ってね』
語尾についた絵文字――笑顔や汗マーク――に、感情豊かな彼女の様子が思い出される。夏油は少しばかり目を細めて、端末を机に置いた。
「なにが適当だよ……」
かすかな呟きには、呆れと諦観が混じっている。
適当にやると言いつつ、医務室に運ばれるほど頑張るのは一体どこの誰か。それが『適当』というのなら、もはや言葉はない。
返信に安堵しつつ、しかし――なにか払拭しきれない違和感を、夏油もまた覚えていた。識ほど直感が強いわけではないが、それでもこれは――小さな違和感の積み重ね。
小出しにされた情報の断片から、夏油傑の脳が異変を察知している。
――突然NOを叩きつけられた、黒塗りの書類。
――近頃頻発している、呪詛師の目撃情報。そのほとんどがデマ。
――予定外の、識の『実験』内容の変更。
そうしてこれは今朝方得た情報だが、――研究室の機材が大幅に一新されているということ。これには尤もらしい理由付けがあったが、なにか釈然としない。
夏油は考え込んだ。
しかし、そのどれもが直接的に結びつくものではない。夏油が個人的に識へ思い入れがあるから、すべてを結びつけてしまうだけかもしれない。早計に過ぎないと分かっている。
机に置いた端末を手に取った。
ひとつ、念のための保険をかけることにする。
識のIDナンバーを入力し、内部監視システムにアクセスする。
本来、外事室には『観測レベル3』までの閲覧権限があるが、今回は特例として『4』へ。
(今日は長時間の拘束になるらしい。……何かあれば、すぐに分かるように)
指先で承認ボタンを押した。
通常ならこの瞬間、識の生体データ――
心拍、血中呪力量、体温、脳波の簡易チャートが表示されるはずだった。
しかし――。
画面に現れたのは、淡々とした電子音と、見覚えのない赤い文字列だった。
――【Error:該当センサ非対応(code: 412)】
――【権限照合エラー:アクセス拒否(code: A19)】
――【セッションIDが一致しません】
「……は?」
一瞬、夏油は読み違えたのかと思った。
もう一度、識のIDを入力する。
結果は同じだった。
システムが識の新リストバンドを『存在しないもの』として扱っている。
つまり――外事室の端末が、識の個体情報を読み取れなくなっている。
こんなことは、今まで一度もなかった。
眉間に皺を寄せ、夏油は別ルートから追加情報を呼び出す。
最低限のログ――外事室でも見られる、旧型センサーの残存データだ。
そこにはかろうじて、識の『位置情報だけ』が記録されていた。
「……研究棟、第三実験室?」
いや、違う。
表示された座標は、確かに第三実験室の内部を指しているはずなのに――
地図上のレイアウトと噛み合っていない。
まるで、部屋の内部構造が書き換えられているかのように。
夏油は目を細める。眉間にしわが寄る。
(今日、研究棟の機材が大幅に入れ替わった……そういうことか)
外事室の監視システムは、旧仕様のまま。
一方、研究棟側は『外事室の監視が届かない』ような仕様そのものに更新されている。
――意図的に。
胸の奥で、冷たいものが音を立てた。
(……何をしている)
深く息を吸う。
焦りは表に出さない。しかし、彼の眼差しは鋭く研ぎ澄まされていた。
識が自分に寄越したあの言葉――『大丈夫、適当にやるから』。
それが急に、胸の奥をひどくざわつかせる。
(これは偶然じゃない)
夏油は椅子から静かに立ち上がった。
外事室の職務としてではない。夏油傑、個人として識を守るために。
そうした瞬間、夏油の業務用の端末に連絡が入る。
――【外事室 緊急連絡】
――【特級術師 夏油傑 至急執務室へ】
――【呪詛師出現の可能性:危険度B】
――【指定地域:千代田区・一般人多数】
その文面を目にして、眉間のしわが寄り深くなる。
(このタイミングで……?)
しかし、呪詛師に関する任務は外事室の最優先事項だ。行かないという手はない。一切ない。しかも、危険度がBならばなおのこと。
逡巡は一瞬。外事室の副室長として、優先順位を考え――目を閉じた。気持ちは識の方にしかない。しかし、優先すべきは彼女ではない。
夏油はこぶしを握り締める。
そろりと視線を斜め上にあげた。――外事室に設置された、監視カメラの方向。
無性にいやな予感を覚えつつ、夏油はコートを羽織ってオフィスを出た。
外事室の廊下を歩きながら、夏油の端末が短く震えた。
――【識・生体ログ:正常(最終更新 07:41)】
それは、旧式システムによって最後に取得された断片的なデータだった。
それらを読み取ると、正常値。異常なし。危険なし。
夏油は小さく息を吐いた。
(……大丈夫だ。今は、こっちを優先するしかない)
そう自分に言い聞かせる。
しかし、画面に残ったわずかなノイズに、夏油は気づかなかった。
――そのログは、識が『新しいリストバンドに切り替える直前』のものだということに。
外事室区画へと通じる自動ドアの閉まる音が、まるで審判の鐘の音のように静かに響く――。
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