現代編 4 - 5/5

 実験室まで続く黒い線。
 それにまとわりつく恐怖や焦燥を振り払いながら、識は歩いていく。
「秋月さん、今日はこちらへ」
 女性研究員に促され、識は地下深くへと降りていく。
「あの……。こっちって、特別区画ですよね。私が入ってもいいんですか?」
「本日から、実験室はこちらに移動になります」
 短い説明を受けて、識ははいと頷くしかない。心臓が異様に忙しなく動く。無意識に、識はポケットの中の携帯を握りしめた。
『干渉観測特別実験区画』
 見慣れない文字に、識は足を止めた。
 未使用と思しき区画は、何もかもが新しい。実験機器、机、椅子。通された部屋には、見慣れた研究員のほか、見知らぬ研究員の姿もある。みな一様に、無機物でも見るような視線を識に向けた。
 研究室に入った瞬間、おお来たね、と研究主任の声がする。
「秋月君、待ってたよ。今日から実験は新しい段階に進むよ」
 いつもは不機嫌で嫌味な主任が、今日はいつになく上機嫌だ。
 ねっとりとした視線と声。昨日今日の付き合いではないが、彼の存在がいつまで経っても受け付けない。――彼から自分へと伸びる、どす黒い線もまた。
「あの、……。……今日は通常の解析ですよね」
「通常?」
 主任は鼻で笑った。だが怒気はない。代わりに――妙な『嬉しさ』だけがあった。
「安心したまえ。危険ではない。ただ、きみには『横になって』もらう必要がある。ほら、そこだよ」
 主任が指さした先に、それはあった。
 識の知っている白い簡易ベッドではない。
 医療用のリストレイント――腕を通す金属枠、胸部固定ベルト、脚部の拘束、そして頭部に接触する電極つきのフレーム。すべてが異様でしかない。
「……これ、拘束、ですよね」
 喉がからからに乾く。
 わかりやすい恐怖。――しかし、逃げられない形をした恐怖だ。
「拘束じゃないよ」
 主任は笑った。人間の形をして、人間ではない別の何かの笑みだった。
「『転倒防止措置』だ。君の反応はいつも大きいだろう? 安全のための処置さ」
 言葉は穏やかなのに、表情がまったく笑っていない。
「そんな……。今まで、ここまでする必要はありませんでしたけど……」
「今までの段階ならね。」
 主任は淡々と言う。
「今日は『干渉強度変性フェーズ』だ。君がどれだけ耐えられるのか、正確なデータが必要でね」
 耐えられるのか。
 その言葉が妙に重かった。
「では秋月さん、こちらへ」
 女性研究員が声をかける。
 いつも優しかった彼女でさえ、今日は表情が固い。識を見る目が、どこか『引いている』。
 人ではなく『対象』を見る目。
 足がすくむ。
 それなのに、歩かされる。
 ベッドの横で待ち構えていた新人研究員が、すでに電極ジェルを持っていた。
「秋月さん、横になってもらえますか。頭部、腕部、脚部……固定は痛くありませんので」
(……固定って言ってるし。完全に拘束じゃん……)
 研究員は淡々として、体幹の固定ベルトを手に取った。
 識が反射で研究員の手首を掴むと――その動きだけで、周囲の研究員が一瞬ぴくりと反応した。
 それだけではない。識の『見えすぎる』術式には、彼が極度の緊張状態であることが、如実に読み取れる。
「秋月君、協力したまえ。データが取れないだろう」
 主任の声が低く響く。
 抵抗の余地はなかった。
 横たわった瞬間、ベルトが胸の上でギチッと耳障りな音を立てて締まる。
「……っ!」
 固定の強さに、一瞬識の呼吸が浅くなる。
 まるで、絶対に逃がさないという意思表示をするような。ここから一生逃げられなくなることを示唆するような――。
「大丈夫、大丈夫」
 主任は機嫌よく言う。
「今日は少し『長くなる』だけだ。慣れてしまえばどうということはない」
 慣れてしまえば――どうということはない。
 その言葉が、識の恐怖をいっそう煽った。
 視線だけをせわしなく動かしていると、なにか黒いものが近づいてくるのが見えた。黒い線。――別の研究員だった。手に何かを持っている。
「機材調整のために、鎮静しますね」
 鎮静。いままでに聞いたことのない単語に、識はぎょっと目を見開く。
「ちょっと待ってください! 鎮静が必要な実験って……そんなの聞いてません。同意もしていません!! もっと説明があってもいいんじゃないですか?!」
 声を荒らげた識に、主任は冷たい目を向ける。
「君ね、この研究室に配属されたとき、ちゃんと同意書は取ったはずだよ。いかなる研究にも同意しますって」
「っいえ、それは従来通りの研究に関しての同意です。新しい実験でしょう? それならきちんとした説明をしたうえで、同意書を取得すべきです! っ……、」
 感情が逆立って、渦巻いて、識の声は上ずっていく。
「私はモルモットではありません!!」
 閉じた研究室にも、わんと響くほどの声量で絶叫した。
 水を打ったような沈黙が生まれたかと思えば、次の瞬間――はっと鼻で笑うような声がする。主任だった。
「モルモットだよ、君は。ここに……いや、呪術高専に入学したときからね」
 これ以上なく醜悪な言いざまに、識は激昂した。
「ッ……ざっけんなてめェ! 今すぐこれ外せ!! こんなこと外事室が知ったら、」
「そこは大丈夫だよ。あそこはもう君に関する権限がない。いや、……時期になくなる」
 主任は悪意に満ちた笑みをたっぷりと識へ向ける。顔を近づけ――たばことコーヒーのどぶ臭い呼気がかかる。識は顔をしかめた。
 しかしそれ以上に、信じられない。
「な……にそれ」
「言葉の通りだよ。都合の悪い事実は知らされない、知らされない事実はないも同然。ま、痛い思いをしても君、すぐ忘れちゃうでしょ。私にこんなこと言われた記憶も、されたことも、すぐ飛んじゃうから。鎮静、早く打て」
 冷淡な主任の声に、男性研究員がずいと前に出る。
 あまりの出来事に、識の理性は戻ってくる余地がない。
「やめろっつってんだろボケ、触んなクソハゲ!!」
「あーらら、君の本性激しいねぇ。外事室の彼の前では、猫かぶってたんだ」
「るっせえよマジでぶっ殺すぞ!!」
 絶叫に近い声は、しかし哀れなほどに震えている。恐怖と怒り。そのどっちが本当なのか識にも分からない。
「元気元気。その虚勢もいつまでもつかな」
 主任はその震えすらも、新しい玩具でも見るような目つきで見ている。
「暴れると血管貫通するよ。痛いよぉ、こう見えても薬は強いからさ。ほら、押さえて。こう見えても一応術師だから、力強いよ」
 暴れる識の元に、男性研究員が二人、三人と押し寄せる。
 一人目の手は、振り払って逃げられた。二人目は顎に掌底を打ち込んで沈めた。しかし、体幹が固定されて逃げ場がない。
「っこのクソ女が!」
 頭を殴られて――しかし識は寸でのところでヒットポイントを外す。これは日ごろの訓練の賜物と、術式由来の反射の良さだ。
「コラ、頭殴るな! 実験に支障が出る!! さっさと手足を固定しろ! もっと来い、男全員で抑え込め!!」
 主任の声で、群がってきた男たちが腕と足を、それぞれ二人がかりで抑え始める。
 術師として腕力も技術もある識でも、体格差と人数には敵わない。上腕が縛られ、肘の内側にひんやりとした感触がしたかと思えば、すぐさま針が打ち込まれる。テープが貼り付けられる感触と、何かが流れ込む感覚。
 ちくりとしたのは一瞬で、徐々に頭がぼんやりとしだした。
「っ……こんなこと……傑くんが知ったら、」
「だからぁ、」
 主任はどこまでもいやらしい声を出した。
「その『傑くん』はなにもできないんだよ。ご愁傷様」
 じゃ、実験始めて。
 軽い言葉とともに、端子が肌に貼られた。
「レベル1、入れます」
 次の瞬間――体の奥で『何か』が勝手に折れた。
「……っ、や……」
 瞬間、呼吸が止まりかける。猛烈な吐き気と頭痛が襲い掛かるが、強烈な負荷は止まらない。
 主任の声だけが無機質に落ちる。
「はい、良好。次」
 研究員が機械を操作する。――今度はより激しい違和感が、さらなる痛みを伴って識を襲う。
 意識を失うと、薬で強制的に覚醒させられ、実験が再開される。
 すべての実験が終ったとき、識はぐったりと身じろぎひとつできなくなっていた。

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