思うように仕事が進まないことを自覚し、審神者は不思議そうに手を休めた。
執務机の上に積み上げられた資料に書類、モニターに貼られた無数の付箋、そうしてモニターにも次々に上がってくるポップアップ。アナログとデジタルの入り混じった無数のタスク情報を眺めて、深々とため息を吐き出した。
進捗を確認するためにひとつひとつの作業と期限を確認し、どれもこれもが中途半端になっていることに気づき、茫然とする。
ゆっくりと蟀谷をもんで血管をほぐすと、ひとまずはブレイクタイムを――と席を立った。
そうしたとき、近侍の南泉一文字と目が合う。
「ちょっと休憩しよう。お茶でも飲んでくるから、南泉もゆっくりしてて。二十分くらい休んでていいよ」
「茶なら俺が入れるぜ」
立ち上がろうとした南泉を制し、ちょっと動きたいからと言うと彼は一も二もなく了承し、「二十分後だな」と言いおいて執務室を去った。
審神者もそれに倣い、近場の休憩室にまで足を運ぶ。コーヒーサーバーから一杯分を抽出すると、立ったまま口をつけた。ほっと一息をつき、考える。―—なぜこんなにも作業が遅延しているのか。
あれがこれで、それがあれで……。
ぼんやりと考え込んだ結果、近頃どうにも調子が悪いことに気づく。重大なミスは今のところないものの、些細なミスが積み重なって、作業の進行を阻害しているような塩梅だ。
そして、小さなミスの積み重ねこそが重大なミスにつながりやすいため、注意を要する。このままではいけない。
一体なにが原因か。
体調面に問題はない。
ならば精神的に? 不安や怒り、悲しみ等の大きなストレスはないはずだが……しかししいて言うなら、なんとなく落ち着かない感じがある。
もやもやとして、なんとなくイライラして。ここ数日ずっと、名状できないぼんやりとしたわだかまりを抱えている。
といって、直近で何か事件が起こったという心当たりはなく、日常は平穏そのものだ。しいて言うなら仕事でミスを連発しているのは穏やかではないが、謎のもやもやこそがおそらく原因なのだ。
一体なにが――。
冷静に分析しながら、バスケットのなかの菓子をつまむ。糖分がしみわたるようだ、だいぶ疲れているらしい。
無心になって一つ二つと口の中に放り込み、甘ったらしくなった口腔内を苦いコーヒーで洗い流す。
結局原因らしい原因は分からぬまま、二十分の休憩を終え、審神者はとぼとぼと執務室へと戻った。すでに近侍は先に戻っていた。
「聞こうと思ってたんだがよ、」
作業机に戻った審神者に向け、南泉が控えめに声をかけてくる。
え、と顔を向けると、彼は一瞬だけ目を合わせてさっと視線を外す。一体何事かといぶかっていると、
「……怒ってんのか、にゃ?」
南泉は思い切ったように質問をぶつけてきた。
「え?」
審神者がきょとんとして目を見開くと、あ、いや、と南泉は慌てたようにしてみせる。
「いやその、なんていうか……顔が怖い、っていうか」
「え⁈」
「もうその顔が怖い、にゃ!」
「え……」
「あ……いや……。怖いは、……悪かった、にゃ」
「いや……。うん……。いいけど……」
「…………」
「…………」
南泉の告白に衝撃を受けて沈黙していた、ちょうどその時である。
「報告書の提出に来たんだけど、いいかな」
あけ放たれた障子の間から、ひょっこりと姿を現したものがいる。
源清磨―—平素ならいとおしく思う彼の姿を認めた瞬間、ふと――境界の不明瞭だった曖昧なものが、一気に固まったような。そんな奇妙な感覚にとらわれた。
自覚したのは、怒り。南泉の言ったことは正しかった。
さまざまな言の葉と映像の断片が脳内をよぎり、ぐるぐると駆け巡り、心の深いところに生々しく訴えかけてくる。
(ああ、そうか)
審神者は自身の本当の気持ちに気づいた。
日常に支障が出ると分かって、無意識的に封じ込めた感情。封じ込めたはいいものの、しかし己の未熟さゆえにそれを完璧にコントロールはできなくて。
南泉のようなまだまだ新刃の域を出ない刀剣男士に、看破されるほど滲みだしてしまっていた――。
それは明確な、怒り。
彼が手練手管で落とし込んだという、顔も名前も知らない、生きた場所も時代も違う、遠すぎるほどに遠い女に、嫉妬したのである。
自覚したのは一瞬のこと。それからの審神者の身のこなしは早かった。
「ごめん、体調不良!」
とはちっとも思えぬような声を張り上げ、審神者は逃げるようにして執務室を去った。声をかけられた気はしたが、一切振り向くことなく、視線も声も振り切るようにして一目散に逃げた。
なにせ、今まで感じたこともないような強い感情だ。
それを出力してしまったら最後、どんなふうになってしまうのか想像もつかない。仕事中に私的な感情を爆発させるなど、言語道断だ。
咄嗟の判断は間違っておらず、自室まで駆けこんだ後、審神者の内心は大荒れに荒れた。
誰もついてきてはいないことを確認し、自室の障子をぴしゃりと閉める。障子を背にずりずりと座り込み、
「いや分かってるけど!」
一喝した。
分かってはいるのだ。
任務のためには情報が必要で、その情報を集めるために、情報を握る女を篭絡するのが最も手っ取り早い方法だったということを。
その結果、任務は最短の道のりで最大の成功を収めた。なんの問題があるのか、あるはずがない。
なにより時系列から考えると、その任務が遂行された期間というのは、審神者と清麿は深い仲になる前だった。浮気でさえない。審神者にとやかく言う権利など、まったくもってない。
「分かってるんだけど……」
複雑なことには変わりない。
知らなければそれでよかったのだ。周知しない事実などないも同然だから。知ってしまったから、苦しいわけで。
どうにも気持ちを処理しきれず、高ぶる気持ちを抑えることを諦め――審神者は声を殺して泣いた。きっとこれこそが、ストレスを発散する最良の手段と分かって。
時刻を告げる電子音を聞いて、審神者は目を覚ました。
しばらく眠っていたようで、障子から差し込む光には茜色が混じり始めている。畳の上に寝転がっていた審神者は、軽く寝返りを打って時刻を確認しようとした。
億劫そうに時計を見やると、すでに夕刻。まっとうに仕事をしていたら業務を終える頃合いとなっており、――純然たるさぼりだな、と審神者は深く反省した。
泣いたことで気分はかなり落ち着いた。落ち着きすぎるほどに落ち着いて、それゆえに変に冷静になっている。なにをあんなに熱くなっていたんだ? と羞恥心さえ覚えるほど。
どの面を下げて執務室へと戻ろうか――。
主がいないのでは、近侍もいつ退勤したらいいか分からず困っているかもしれない。古参の者なら、適当に見切りを主がつけて上がりそうだが、南泉にはまだまだそのあたりを推しはかるのは難しいだろう。
戻りたくはないが、戻らねばなるまいか。
とりあえず上体を起こすが、そこでもうだうだとしてしまう。あと五分、あと十分――といよいようだうだする時間が伸びてきたころ、わざとらしい足音が聞こえてきた。
奥という審神者の私的空間まで来る刀剣男士は、ほとんどいない。恋人である清麿を除いて。
『僕だよ』
と、いう柔らかな声に、やはりか……と審神者は音を出さずにため息をはいた。
一瞬、さまざまな葛藤があった。
顔を合わせるのが非常に気まずく、なんだかんだ理由をつけて下がらせようとも考えたが、―—仮病を使ってさぼったという後ろめたさのために、結局通してしまうのだった。
「体調不良って言ってたけど、大丈夫?」
流れるような動作で清麿の手が額や頬に触れる、あるいは顔を覗き込む。熱はないね、顔色も悪くはないかな。そんなことを言いながら体調を確認していく。
そのたびに審神者は、ああ、とか、うう、だとか歯切れの悪い声を出すばかりで。
「……えっとあの……南泉は、」
彼に聞くことではないと分かっていながら、尋ねてみる。審神者不在となった後の執務室が、どうしても気になるのだ。
阿るように上目遣いになった審神者に、清麿はとっぷりと視線を合わせて微笑んだ。若干だが、その笑みは意地が悪い。
「決裁でやってきた山姥切に相談して、執務室を閉めて行ったよ。心配してると思うから、一声かけた方がいいかもね」
「あーその……。実は仮病で……」
笑みの性情を見るに、なにがしかを悟られていることは明白で。審神者は思わず白状した。――といって、あんなにバレバレの嘘、清麿どころか南泉にさえ気づかれていようが。
「そっか」
恐ろしく緊張して、恐ろしくばつの悪い顔で告げた審神者に対し、しかし清麿の返答は極めてあっさりとしている。
「いつも頑張ってるから、そんな日が一日くらいあってもいいかもね」
などと、甘やかすようなことさえ言ってのける始末で。
審神者が呆気に取られていると、清麿はにこにこと平素の笑みを崩さずに相対する。そうすると段々と心苦しくなってきて、――ついには試すようなことさえ言ってしまう。
「……聞か、ないの?」
「なにを?」
相変わらず清麿はあっさりとしている。あるいは、きょとんと。何も分からないみたいな顔で、何も気づいていないような雰囲気で。
「いきなりその、……仮病、とか。幼稚なことをした……理由、……とか」
「気が乗らない日だってあるよね」
「ううん……」
あまりにも白々しくされるため、一周回って本当になにも気づいていないのか? とさえ思えてくる。
審神者がひとり俯いて苦悩していると、おもむろに清麿は上体をかがめ、彼女の視界のうちに入ってきた。
「聞いてほしい、」
ずばりと内心を言い当てられ、ドキリとする。目を丸くした審神者を見て、清麿は唇の端をふんわりと緩めて目を細めた。
「……ってことかな?」
審神者は頷きかけ、……そうして「いや!」と声を張り上げてかぶりを振った。ついでに視界から彼を追い出すように顔を背け、それだけでは飽き足らず顔を手で覆う。
「見苦しいから、やっぱりなしで。忘れて」
「どうして?」
「私は自制の利かない女ですって、自己申告するようなものだから……」
苦り切った声で審神者が告白すると、視界の外で清麿がくつくつと笑い声をあげたのが分かる。
「なんで笑うの」
憮然として問うと、
「可愛いなあって思って」
彼の返答は少しも悪びれない。しかもその声色から、笑みがますます深くなっているのが窺える。本当に、意地の悪い。
審神者はため息を吐いた。
「嘘、全然可愛くないしめんどくさい。ああもう、本当にっ! めんどくさい‼ 余裕ないしかっこ悪いし、本当に嫌になる……」
もはや頭を抱えて懊悩すると、肩にそっと暖かなものが触れた。掌。持ち主が誰かと言うと、清麿以外にいない。
「水心子から聞いたよ」
すぐ真後ろに彼の体温を感じ、審神者はぎょっとして顔を上げかけた。が、耳元のすぐうしろに清麿がいることを察し、済んでのところで動きを止める。顔は、手で隠したまま。
「……な、なんのこと」
「いつぞやの任務で、僕がどうやって情報を抜き出したか。お酒の席で聞いたんだってね」
「あああ……」
「水心子のことは悪く思わないであげて。きっと、君が気にしてると思って相談したんだと思うから」
「水心子は悪くない……」
彼の性格を思えば、ひとりで処理しきれずに当事者たる清麿に打ち明けてしまうだろうことも、なんとなくわかる。きわめて実直で真摯、それこそが水心子正秀という刀剣男士だ。
「嫉妬、」
耳元で甘く清麿の声がささやいた。
「してくれたんだね」
「っ」
ふうっと耳朶に暖かな吐息がかかり、審神者はびしっと背筋を凍りつかせた。やにわに逃げ出そうとするが、掴まれた肩を引き戻されて阻止される。
手負いの獣みたいに暴れかけた審神者を、清麿は笑い混じりにかるくいなした。
「つまりそれほど、僕が好きってことだよね」
いけしゃあしゃあと突き付けられた事実に、これほど反感を覚えたことがいまだかつてあっただろうか。
この男、一体どんな顔して言ってんだ。
審神者の負けん気に火がついて、きっと勢いよく背後を振り返る。指の隙間から除いた彼は、それはもう――息も止まるほど、艶めいた顔をして。
細められた瞳の、弧を描く口元の。瞼を縁取るまつ毛の一本一本にさえも、匂いたつような色香を纒って、誘うようにこちらを見ていた。
どきんと跳ね上がった心臓が、勢いを殺さず爆裂な鼓動を奏で始める。徐々に頬に熱が上ってくるのを感じて、審神者はたまらず前方に転がって、畳の上にうつぶせになった。
少しでも清麿から距離を取ろうとしての行動だったのだろう。
「〰〰〰〰っ反則! 卑怯‼」
もはや自分でも何を言っているのか理解していない。
両手で頭を抱え、はあはあと荒い息をつきながら息を整え――呼吸が落ち着いてくると、段々腹が立ってくるのを自覚した。なぜこうも、翻弄され続けなければならないのか。
文句の一つでも言ってやらねば、とうつぶせの状態から顔を上げようとする。上げようとしてすぐ、背中にとんと軽い衝撃を感じて肩越しに振り向く。振り向いて、失敗したと気づくのだが、もはや手遅れだ。
待ち構えていたように、清麿の体が降ってきた。重力に逆らわず、審神者は流れに身を任せる。畳の上にやんわりと再着地できたのは、背中に回った彼の腕が支えてくれたから。
こうなると、行きつく先は一つしかない。
「正解」
目の前の薄い唇が、にんまりと弧を描いた。僕は卑怯なんだ、とひっそりとした言葉が耳に残る。
きっと未来永劫、彼に勝てる日は来ないだろう――と審神者は自覚したのだった。
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