といって、私もしぶとい。完全にあきらめたわけではなかった。
泣き腫らした目で登場した私に、岩清水さんはだいぶん心配してくれたが――いやもう、覚悟はとっくに完了している。
最短で済ませて高専へ戻ろう。そう画策する私は、これ以上なく燃えていた。
そう、普通の調査であれば――半月やひと月かかるかもしれない。しかしこの因果律を観測する目。私にはこれがあるのだから、調査にかかる時間は、大幅に短縮できるはず。
あとは、最短で呪霊の祓除を済ませるだけ。
しかし、これが大誤算だった。
いわくつきの土地に、いわくつきの呪霊。……問題の成り立ちも、起こりうる未来も、対処方法も。すべて分かる。すべて見える。しかし――。
「マヨイガ……厄介だ……」
牧歌的な風景を前に、私は座り込んだ。
任務概要は、以下の通りだ。
岩手県のとある山間部、山菜取りや林業関係者の行方不明が断続的に発生。
事件が起きた際の共通項目は、単独行動・天候良好・地図や無線ともに問題なし・遺体はなく痕跡もほぼないという点。
高専の判断としては、高く見積もって中級呪霊の可能性だが、調査次第では準一級認定あり。……だから、私が行くことになった。
行方不明の頻発する地点から山へと分け入ると、すぐに正体が分かった。
マヨイガ。さすがはこの地方らしい呪霊だ。
突如として山の中に現れる「家」。いかにも田舎の大きな屋敷で、誰もいない。しかし妙に居心地がいい。人の気配があるのに、誰もいない。
生還者もいる。彼らは口々にこう言うそうだ。
『(マヨイガは)怖くなかった。むしろ落ち着いた』
『帰ろうと思ったのに、なぜか足が動かなかった』
因果律の線に『潜った』結果、分かった。むしろ、この術式なしでは、絶対に判明しないものだったとも言える。
呪霊の正体は、土地でも祠でも呪物でもなんでもない――状況が作り出したものだった。
疲れたから、少し休もうと思った。
霧が出たから、晴れるまで待機しようと思った。
――引き返せば、助かるのに。あえてその選択をせず、先延ばしにした。結果として帰ることができずに、死亡した。
あの時引き返していれば。判断を誤った。そうした後悔や自責の念が積み重なり、呪霊化したものだ。
自殺者や他殺者、様々な怨念から生まれる呪霊とは全く異なる、初めて見るタイプの呪霊だ。
だから、呪霊は一定の場所にとどまらない。
この山に根を張っているわけでも、祠に縛られているわけでもない。
――正確には、「留まる」という選択を、常に先送りにし続けている。
人が道に迷うのではない。迷うべき地点で、引き返すという判断を、しないだけだ。
因果律の線をなぞると、それがよく分かる。
この呪霊は、何かを「引き寄せて」はいない。足を止めた人間に対して、「まだ大丈夫だ」と囁き続けているだけだ。
霧は、すぐ晴れるはずだった。
体力も、まだ残っていた。
日没まで、時間はあった。
――帰れると思った。もう少し休んでから、動こうと思った。
どれも、間違いではない。どれも合理的だ。だからこそ、人は立ち止まる。
この呪霊が生まれるのは、そこから先だ。
引き返さなかった結果、帰れなくなったと理解した瞬間。選ばなかったという事実が、選択だったと気づいたとき。
その遅れが、後悔に変わる。
――あの時、戻っていれば。
――判断を誤った。
その思考が、呪力として残る。強い怨みでも、怒りでもない。
ただ、「終わらなかった判断」だけが、山の中を彷徨い続ける。
マヨイガは、人を襲わない。呪霊自身にも、明確な悪意はない。
それでも人は死ぬ。
判断を保留したまま、時間を失い、体力を失い、最後には――選ぶ力そのものを失う。
居心地がいいのは、そのためだ。
ここにいれば、決めなくていい。動かなくていい。今すぐ結論を出さなくても、責められない。
この呪霊は、人を襲わない。
だからこそ、人は死ぬ。「殺す」のではなく、決断を奪うのだ。
「……どうやって払うんだ、これ」
その対策が、一向に思い浮かばなかった。
出くわしたマヨイガは、まったく弱い手応えのない「線」をしていた。これを払ったところで、なにも問題は解決しない。
これを払っても、また別の誰かが「引き返さない」判断をする状況が発生すれば、別のマヨイガが出現し、取り込んでしまう。
かといって――。
この呪霊が発生する大本、判断遅延を生む線――これは生死を分ける線だから、ここを断ち切るとなると、その代償はどストレートに「死」だ。
のどかな、田舎の、大きな屋敷。私はそこへと足を踏み入れる。
人の気配が、ある。けれども誰もいない。畳のにおい、土間の香り、作り立ての食事が膳に乗っていて美味しいそう。……とても、居心地がいい。
畳の上に寝ころんで、目を閉じた。
そっと腰に手を伸ばし、短刀を鞘から払う。脆い「線」をすっと切ると、ぐにゃりと空間が歪んで――泣き出しそうな空が、視界いっぱいに広がった。
結局。……どう転んだって覆せないことが、世の中にはある。
むっくりと体を起こして、私は山を下りた。
出張に来て、半月後のことだった。
夏油傑から、電話が入ったのは。もしかしてなにか起きたのかと、泡を食って携帯を取ると。
『今、沖縄にいるんだ』
彼は穏やかな声でそう告げた。――沖縄。これで、はっきりと概要がつかめた。
ならば――。震えそうになる声を、懸命に飲み込んで。相槌を打った。
「いいね。青い海、青い空。こっちはなんか、どんよりした空だよ」
『岩手だったね。任務の方はどう?』
「……全然。ちょっと特殊な呪霊で、解決に時間がかかりそう」
きっと、高専に帰り着くころには――。
ぐっとこぶしを握り締めて、心を静める。気取られるな。
『難しい任務なんだね。こっちは明日、高専に戻るよ』
「そっか。……夏油君、」
今は、辛くなんてないよね。きっと。でもこの後。
『……雪名?』
「いや、ちょっとホームシック。高専が懐かしくて」
『意外とそういうところ、繊細だよね。硝子が待ってるよ』
「うん、……早く帰りたい。夏油君、……頑張ってね」
『ああ。雪名も』
本当に、他愛のないやり取りだった。
電話を切ったあと、嗚咽が漏れるほど泣いた。
なんでこんなに、息が苦しいんだろう。
――けれども、腹は決まった。
一応、第二、第三の策はぼやっと練ってある。あとはそれに賭けるばかりだ。
そうして。
最高に冴えた――とは全く言い難い、泥臭い対策を考え突いたのは、本当に、きっかりその半月後だった。
無論、高専では星漿体護衛の任務に失敗し――
私が戻った頃、五条悟は現代最強の呪術師として覚醒し、その隣で夏油傑は。
明らかに、「線」の色を濁らせていた。
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