なーちりーってバブみ感じない? - 2/3

 やわらかくて、あたたかくて、優しい。
 あの日からずっと、審神者はそんなことばかりを考えてしまう日々がつづいた。
 なにかとあれば思い出すのが、北谷菜切の掌だった。
 額をつつみこんだその小ささと、しかしそれとまるで相反する、おおいなる安堵感。ずっと触っていたいし、触られていたい。気づけば目を閉じて、思いを馳せてしまう。
 その正体はなにかと考えたとき、はじめは、
「……赤ちゃんの手、みたいなんだよなぁ」
 しかし、それは言い過ぎかとかぶりを振る。
 小さいとはいえど乳幼児とは程遠い、何度もいうが、刀をもって敵と戦う立派な戦士だ。刀を扱うほかにも、炊事や洗濯も率先してする家庭的な刀で、本来は硬くなっていたり、手荒れしていてもおかしくない。
 しかし刀剣男士の妙か、はたまた手入れで元通りになるせいか、そういった瑕疵はまるでひとつもなく、だからこそ「赤ちゃんの手」と評したくなるほどきれいなのだ。
 だとしても、赤ちゃんみたいな手に幸福感を覚えこそすれ、安堵するというのは少し、否だいぶん違う気がする。
 不可解な感情を抱えたまま、仕事に打ち込むともなしに打ち込んでいた審神者は、――あるときついに、魔が差した。
 それは、虎を撫でていた五虎退を目にしたとき、唐突に訪れる。
「ごめん、今から変なことを言う。よかったら聞いてほしい」
 唐突に表れ唐突に声をかけた主に、五虎退はきょとんとした表情をみせた。けれどもすぐに笑顔になって、なんですかあるじさまと柔らかい声でこたえた。
 腰をおとしたついでに、一体何事だとでも言うような表情の虎の喉元を一つ撫で、もう片方は五虎退のまえに差し出す。
「ちょっと手を握ってもいい?」
 唐突にもすぎるほどの申し出に、しかし五虎退はこだわりなく手を差し出して彼女の掌にのせた。きゅっと握りこむと、ほっそりとしているがその手はやわくあたたかい。けれども、ちがう。
 ああでもないこうでもないと、無心になってその手を揉んでいる審神者が、目を細める五虎退の姿をみとめることはない。そうして、結局なにも分からずじまいだった。
「……ごめんね、変なことをして」
 できれば内緒にしていてほしいと思ったが、さすがにそこまで頼むのは恥知らずかと思い口を噤む。かすかに恥じ入ってぶっきらぼうにする審神者に、五虎退は満面の笑みでいいえと返した。

 

 結局、答えは実物からしか得られなかった。
 寝ても覚めても北谷菜切のことを考えていると、その思考が現実の行動にも影響を与えてしまったのかもしれない。あるいは、その強い思念が彼にも伝播したのか。
 その日も、審神者は遅くまで執務室に残って業務を片付けていた。
 長引いた軍議や手入れのせいで残業になるのは、もはや恒例というか一種のルーティンだ。どうせ奥に戻ってもすることなんてないのだからと、さまざま諦めが先立つせいで、早く終わらせる気概もなくだらだらとしてしまう。
 黙々と仕事を片付けようとしていたとき、出入り口の方にだれかの気配がした。
『……主、まだ残ってるのかい?』
 おさない響きの声にはっとして、その名前を呼ぶ。すると、控えめに戸が開いて北谷菜切が姿を見せた。
「どうして……」
 こんな夜遅くにこんなところにいるのか。驚いて審神者が目を白黒させていると、彼は眠そうな目をこすりながら、ゆっくりと歩いて近づいてきた。
「おれは厠のついで。なんとなく……なんでだろうね。主がいるような気がしてこっちに足をむけたら、執務室の電気がついてるじゃないか。こんな遅くまでお仕事してるんだなー、心配になるよ」
 ちゃんと休めてるか? ごはんは食べてるか? 立て続けにアレコレと気遣われ、――瞬間、審神者はなにかが脳裏でひらめいた。はやく仕事を終わらせなければならないのに。そんな考えは一切合切打ち捨てて、審神者はデスクから抜け出した。
「ごめん、」
 彼のまえに両膝をついて、口先だけでことわりをいれてその手を握る。ふっくりと柔らかな手を取ると、それを額に当てて――目を閉じる。
 そう、これだ。この安らぎ。まるで母の腕(かいな)に抱かれたような、大海に身を任せたような。懇願するようにその手に額を擦り付けると、審神者はいよいよ大胆になった。
「頭、なでて」
 なんの脈絡もない言葉に、北谷菜切はふしぎそうにしながらも頷いた。
「いいよー、おれでいいならいっぱいよしよししてあげる」
 どこか笑いを含んだあたたかな声。次の瞬間、審神者の頭を小さな掌が包み込んで、よしよしとやさしく撫でてくれた。つまり、これは……。審神者は分析する。疲れ切ってぽんこつな頭は、しかしなかなか妥当な線をつく。
「バブみ……」
 明確な声で、はっきりとした声量でもたらされた言葉に、北谷菜切はまたしてもふしぎそうな顔つきをした。個人差はあれど、刀剣男士は横文字に弱いが、それと同時にその時代特有の――時の流行語やオタク用語にも疎い者が多い。彼もまたそのうちの一口で。
 バブみ。そう理解した瞬間、審神者の理性が月の裏側まで吹っ飛んだ。
「恥も外聞も主としての威厳尊厳すべてを捨て、北谷菜切、貴殿を刀のなかの刀と見こんで一つお願い申し上げたき儀がある。なにも聞かず王とだけ答えてほしい」
 よどみなく詰まることなく一息にさらりと口上を述べた審神者に、北谷菜切はふしぎそうにしたまま、どこか照れ臭そうな笑いを浮かべてみせる。
「刀のなかの刀ではないけれど、主の頼みならなんでも聞くよー」
 あ、でも頭を使うこととか、機械のことは難しいかもしれないけど。かすかに付け加えられた言葉は、審神者の耳に入らない。入れる必要がないからだ。
「北谷菜切に甘えたい。いっぱいやさしくされてよしよしされて甘やかされたい。それで私の命が助かるんです。なにとぞ」
 真顔で頼んだ主に、彼は一瞬目を丸くしてみせる。けれども、審神者がなにかものを思うよりも先に、にこりと笑って、
「そんなことお安いご用だよー」
 おれはどうしたらいい? そう言って全面的な肯定を示したのだった。許しを得た審神者の行動は速かった。頼むより先に、
「抱きしめさせてっ!」
 膝立ちのまま、小さな体に両腕を回しめいっぱい抱きしめた。そうして小さな肩に鼻先をうずめ、スーッと深く息を吸い込む。吸い込んだそれがなんだか甘くやさしいような気がする。原理は分からない。
「んっはぁ~~~~~~~~~ヒーリングゥ――――――ッ!!」
 甲高い奇声を発して悶える審神者に、北谷菜切はくすぐったそうに体をゆすった。
「こんなことでいいの?」
「次! 私のこと、ぎゅーってして抱きしめて!!」
 恋人にもねだったことのないようなことを、審神者は恥じらいもなく口にする。
「え、いいの?」
「いいなんてもんじゃあない! 骨格がゆがむくらいぎゅーってして!!」
 すこしだけ躊躇する空気をかもした彼に、審神者は必死に食らいつく。こうだよこう、と見本を示すと、北谷菜切はくすくす笑って嬉しそうにした。その笑顔にまた、くらりと脳髄までひびく何かがひそんでいる。北谷菜切、一身これ麻薬なりか。
「えへへ、役得だなー」
 照れ笑いを浮かべつつ、北谷菜切はそっと小さな腕を審神者の体に回した。体格差により、体を包み込むことは到底できない。抱きしめたというより、彼が審神者にしがみついているといっても過言ではない状況だ。
 しかし――その、体から伝わる安堵感、幸福感、泣きたくなるような郷愁。これがものの見事に審神者の理性どころか涙腺までも崩壊させる。
「ん、ぁぁあああああ……」
 審神者は静かに涙を流した。泣こうと思って泣いたわけではない、気づけば目の奥が熱くなり鼻の奥がつーんとして、涙腺から熱いものがにじみ出てとめどなくあふれた塩梅だ。審神者は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を、北谷菜切の薄い胸に押し当てた。
「尊い……尊いよぉ……癒し……癒しだよぉ……」
 ぐずぐずと鼻をすすり、あまつさえひぃんとかうえぇんとか子供みたいに泣く審神者に、北谷菜切は目を見開いた。
「主、泣いてるのかい?」
 ぽんぽん、と後頭部をなでられ背中をさすられ、いよいよ審神者の嗚咽が激しさを増す。
「それはたとえば……敬虔なクリスチャンが奇跡を通して神の存在を肌で感じたときのような……そういった類の非常に尊く幸福な、うっ……感謝感激雨あられ」
 しかし言葉は饒舌になっていく。どうにもお笑いとしか思えない発言に、しかし北谷菜切は真面目に付き合ってくれる。
「なにか辛いことがあったのか?」
「の世は辛いことばかりよ。でもこうして北谷菜切という存在に癒されることで、辛さが少し浄化される。アガペー。神の愛はここに。北谷菜切、ちゃたんなーちりー、いいやこの際愛しのなーちりー。お前だけにフォーエバー、わが身を捧ぐ」
「よしよし。でも簡単にそういう約束したらいけないよー」
 潮騒の音を聞くような――波に抱かれるような――大いなる安らぎと幸福に抱かれ、審神者はそのまま目を閉じた。

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