夏油は外事室専用の官舎へ、識は術師専用の寮へ。
どちらも高専敷地内で、徒歩圏内で移動できる距離にある。必然的に、――否、そうした事情がなくとも――夏油は識を寮まで送り届けた。
門扉のカードキーリーダーに識のIDをタッチし、センサーに親指を当てる。かすかに呪力を流し込むことでセンサーが感知し、冷たい夜気を震わす軽快な電子音とともに、鉄製の門扉が開いた。
数年前に新設されたこの寮は、研究棟からもほど近く、識の憧れだった『一人暮らし』をやめるきっかけになった場所――それを思い出し、夏油の胸がほんのりと絞めつけられる。
アクセスがいい、新品できれい、寮費が安い。すべて聞こえはいいが、彼女が入寮を決意したのは、それだけ研究棟からの呼び出しが多いからだ。
入口のセンサーも監視カメラも、すべてはセキュリティのためだと分かっているが、管理された被験者を思わせるようで、少し息苦しい。――とはいえ、特異術式を持つ彼女が、呪詛師から狙われているのは事実で、守るためには必要な設備だ。
夜間の寮は、人の気配さえ感じないほど静かで、少しだけ不気味。照明の明るさと外装や内装の真新しさが、若干それを中和しているが、それでも。
静寂に包まれた廊下に、かつかつと二人分の足音が響く。
エレベーターで三階に上がり、二部屋分歩くと――彼女の部屋についた。無機質な、303号室の文字。けれども識の部屋と思えば、それだけで愛着がある数字に見える。
「傑くん、今日は本当にありがとう。楽しかった」
静けさに配慮するように、識の声はかすかだ。つぼみがほころぶような笑顔に、夏油の頬も自然とゆるむ。
「こちらこそ。……硝子と悟は残念だったが、また今度、みんなで集まろう」
「うん、絶対ね! そしたら、急患が入らないようにご祈祷でもしなきゃいけないなー。傑くんも悟くんも、任務が入らないように。精進潔斎して、よい行いをして。次は……新年会は無理そうだし……お花見かな?」
お花見シーズンはなぁ、急患多そう。
いたずらっぽく言う識に、夏油も笑いまじりに、そんな急患は硝子の手を煩わせるまでもないと返す。
ふたり顔を見合わせて、くすくすと笑い声を漏らす。
ふと――笑いがゆっくりと柔く、フェードアウトしていく。ためらいがちに、識が髪を耳にかき上げた。そろりと、伺うような視線が夏油を見上げる。
「ごめんね、引き留めちゃって。……お仕事、あるでしょ?」
少しだけ寂しそうな、しかし気遣うような表情が、ぐっと胸を押しつける。――実は、この直前にも電話やメールが次々に来ていた。
悟られたくなくてサイレントモードにしていたが、やはり彼女の目はごまかせない。
「傑くん、お仕事……。……の前に、体には気をつけてね。傑くんはそういうとこ、しっかりしてると思うけど、……心配だから」
「私なら大丈夫。悟ほど完璧ではないが、効率よく休息が取れる程度には、反転術式も使えるようになったから」
「えっ、そうだったの? さすがだね。……ってことは、傑くんも『清らかな心の持ち主』じゃなくなったの?」
飲み会の時のやり取りを思い出したのか、識が冗談交じりに言う。
「もともと、そんなもの持ち合わせがないのかも」
「ええっ」
さらに冗談めかして夏油が言うと、識は目を丸くし――そうして、おかしそうに笑った。
「そっか。だったら大丈夫……かもだけど、それでも、無理はしてほしくないな。あいや、……忙しいのは分かるけども」
どこかもじもじとして言う識に、夏油の眼差しはこれ以上ないくらい柔くなった。
「それは、識にも言えることだな」
「あっうん。がんば……いや、えっと……。が……んばりすぎないよう、頑張る」
頑張る。大丈夫。すべて彼女の口癖だ。
それがどれだけ夏油の心をかき乱すか、当人はつゆほども知らない。
「ほどほどにな。とにかく、――実験の前倒しなんていう無茶は、金輪際しないこと」
「傑くんのお仕事も増えちゃうしね」
自嘲気味に言った識に、夏油は思わず目を見張った。咄嗟に窘める言葉が口に出かけて、しかしそれを懸命に飲み込んだ。
「まあ……顔を見に行く口実は増えるが、ストレスで白髪が増えそうだ」
「え、」
識はぱっと目を見開いて、驚いたような焦ったような――しかし次の瞬間、どこか楽しげに表情をゆるめた。
「傑くん、白髪あるの?」
「悟みたいな頭の私を見たくなかったら、自分を労わってくれ」
「わかった。ほどほどに頑張るね」
識は鍵穴に鍵を差し込んで、解錠した。
「おやすみ、傑くん」
「ああ。おやすみ、識」
ドアが閉まる直前まで識は手を振り、ゆっくりとドアが閉まった。ほどなくして、ためらいがちに内鍵とドアガードがかかった気配を感じると、夏油は踵を返した。
識を寮に送り届けたあと、夏油は対外戦術局棟まで足を延ばし、外事室オフィスへと立ち寄った。
廊下の端からでもわかる、皓々と灯りのついた不夜城。夏油傑の戦場。――識と別れた後のほのかな余韻が、完全に消える。
柔らかだった表情をさっと切り替えると、外事室副室長として夏油はオフィスへ足を踏み入れた。
「副室長! 遅いですよ!!」
夏油の存在に気づいて声を上げたのは、仲堅の術師だった。すまないと口にすると、島の上座に座っていた中年の男性――班長が、そう言うなと声を上げる。
「副室長は本来オフなんだ。来てもらっただけでもありがたいと思え」
窘めた班長はわざわざ椅子から立ち、すみません、と頭を下げた。いいんだ、と夏油はそのまま班長のデスクへと近寄っていく。
「状況は」
「呪詛師に関する未確定情報が三件、ほぼ同時に来ています。どれも内容があいまいで、確定するには至らず……」
体全体から表出する面目ない、というオーラに、夏油はモニターを覗き込んだ。
「借りるぞ」
夏油が前に出ると、班長は心得たように椅子から立って、すみやかに席を空ける。モニターに端から端まで目を通し、情報をインプットする。――ほどなくして、結論を出した。
「どれも緊急性は低い」
夏油の答えに、はい、と中堅術師が手を上げる。
「根拠を伺いたいです。今後の参考に」
「一件目、監視カメラの映像と残穢のパターン。映像は不鮮明だが、残穢はもともとそこにあるものだと判断できる。残穢のパターンについては情報があるから、確認すると分かりやすい」
揺るぎない夏油の答えに、班長は心の底から納得したようにうなずいた。残っていた新人は熱心にメモを取っている。
「二件目、匿名の通報メールだが。……文章の言い回しが、以前の虚偽通報と酷似している」
「IPは一致しませんが」
「偽装だ。文章の硬さと語尾の揺れが以前と一致している。通報内容のパターンも同じだ。捨て置いていい。まあ、気になるなら」
「すげ……」
感嘆の声を漏らす中堅を置いて、夏油は三件目についても所感を述べ、すべて緊急性なしと結論付けた。
「副室長、まじで神……!!」
中堅が手を合わせて拝む一方、新人は興奮気味の顔つきでメモを取り続けている。
「これから出動にならず済んで、よかったよ」
そうしておもむろに、夏油が次なる案件へと手を伸ばそうとした瞬間、班長がはっと気づいて慌てて止める。
「副室長、もう十分です! あとは我々で判断できます。お帰り下さい」
「えー、副室長がいれば秒で終わるじゃないっすか」
「バカモン! 副室長は本来オフなんだ!! 呼び出しただけでも非常識だというのに……まったく……」
班長は口の減らない中堅をにらみつけると、再度夏油へと視線を向け、深々と頭を下げる。
「私が至らないばかりに……。申し訳ありませんでした」
「いや、いいんだ。班長こそ、近頃は残業続きだろう。引き継げるものは引き継いで、早めに帰ってくれ。……高島はなんで残ってる? 当直補助だったか?」
メモを書きなぐっている新人に目をやって夏油が問うと、へらりとして中堅――水野が返す。
「いや、ちょっとミスっちゃって。振り返りをしようとしてたら、匿名の通報が来ちゃって。そのまま」
「振り返りはいいが……。あまり遅くならないうちに帰せよ」
「いえっ! 私が残りたいと希望したんです。水野さんに非はないです」
高島が椅子をひっくり返さんばかりの勢いで立ちあがり、頭を下げる。その横で、水野がうんうんと訳知り顔でうなずいている。そうか、と夏油は淡々とうなずいた。
「状況は分かった。急ぎの案件は片付いたから、早く振り返りを済ませて高島は先に帰すよう。あとのことは任せました」
「はい。責任を持って私が高島を帰します」
「え~一人は寂しいなぁ」
水野の軽口に、班長が今度こそ黙れと声を大きくした。怒られちった、と肩をすくめる水野の横で、高島はしらっとした目をしている。
夏油は荷物を手に取った。
「……では、お先に」
「お疲れさまでした」
静かな口調で挨拶をすると、三者三様の返事が返ってきて、夏油はかすかに微笑んだ。
そうして、本当の意味で本日の業務が終了した。
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