高専敷地内、外事室専用官舎。
厳重なセキュリティを潜り抜けると、夏油は自身の部屋に帰り着いた。
夏油傑という男の性質を表すかのごとく、そこはシンプルの一言に尽きる部屋だ。入居して二年になるが、私物は少なく極端に生活感に乏しい。――ただ一つだけ、仕事机の斜め上の一画。そこに飾られた写真を覗いて。
黒いシンプルなフレームに飾られた写真の中には、四人。
まるでどこぞの城郭、大手門のように立派な石垣と門扉の横に、『平成二十年度 卒業式 東京都立呪術高等専門学』という看板。
その隣に並ぶのは、高専の制服を着た大切な仲間たち。
みんな一様に余所行きの顔をして、ぴしゃりと背筋を伸ばして立っている。
その次のシーンは、今でも目に浮かぶ。――次は笑顔で、とカメラマンが提案すると、すぐさま五条が夏油の首に腕を回し、ヘッドロックをかけた。
窘めようとした識もまた巻き込まれ、五条に小脇に抱えられて。識が家入に向かって手を伸ばし、家入もまた苦笑を浮かべながらその手を取って。
懐かしい、そして二度と戻れない青い春。
胸を絞めつけつような、いとしさの切なさの塊。――しかしそれこそが、今の自分をなんとか保たせてくれる、拠り所でもあった。
夏油は立ち止まって写真を見つめた。
口元に、自覚もないまま薄い笑みが浮かぶ。しばらくそれを見つめたあと、ただいまと口にする。
もう、彼女は眠っただろうか。時計を見ては、思いをはせた。
その足で風呂場へ直行すると、体に気をつけてね、という識の言葉が思い出される。浴槽を軽くシャワーで流すと、湯を張った。普段はシャワーしか使わないが、今日くらいはゆっくりしたいと思ったからだ。
髪を洗い、体を洗い――浴槽にゆっくりと体を沈める。思わず安堵の溜息がこぼれた。
目を閉じると、今日一日の場面が脳裏によぎる。
『思ってるだけじゃ届かない』
痛烈な家入の言葉が、再び夏油の心を刺す。
『その気がないなら、さっさとあの子を解放してやれば』
『引導を渡せってこと』
ぐるぐると何度も同じ問いかけをして、思い悩んで。うるさい言葉を脳内で反芻する。そのうるささに耐えかねて、夏油のこぶしが水面を叩く。派手に湯が飛び散った。
――焦り、がある。しばらく前から、確然として胸の内に。
予感でしかない。しかしその予感は、戦場にも身を置く術師としての夏油の不安を煽るものだった。
研究棟の妙な動き。――直近になって増えた、実験回数とその強度。いたずらに識を疲弊するだけのそれを、夏油は外事室を通して何度も是正を求めてきた。しかし、上はのらりくらりと理由をつけて改善しようとしない。
あるいは上層部。――これまで平然としてスルーされてきた、黒塗りの報告書に関するペナルティ。積み重なったものだと思えば自然だが、だとしても、このタイミングである理由が分からない。
なにか、大きなものが動いているのではないか。
得体のしれない潮流を感じて、不快な気分になる。
不明なものに対する恐怖。しかし恐怖という感情は、戦場に身を置く者として、飲まれてはならないが、絶対に看過してはならない感情だ。
湯を掬い上げて、それを見つめる。
そこに映るのは、外事室副室長、特級呪術師の夏油傑。組織の中の、歯車の一つでしかない。しかし、不安の芽はひとつでも除いておきたい。できる範囲で、知れる範囲で。
――探りを入れるか。
夏油はひとつ心に決めて、風呂から上がった。
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