その場はなんとか切りぬけたものの、それが引き金になったのはいうまでもなかった。
仕事に集中せえよと自分にツッコミを入れつつも、暇さえあれば清磨のことを考えてしまう。それどころか、なにかと偶然に清磨と顔を合わせることがないかなぁ、などと不純なことも考えてしまう。
彼はつい先だって近侍を務めたばかりだから、順番が回ってくるのはまだまだ先になる。本丸は広大かつ遠征や出陣があるから、会おうと思わって行動を起こさない限り、特定の刀剣男士と高頻度で顔を合わせることなど不可能だ。
唯一知っている彼の趣味嗜好が、(意外なことに)喫煙。なんとなくを装って喫煙所の前を通りかかってみるが、そのいずれのときも清磨を見つけることはできなかった。
それでも、今日も今日とて審神者は繰りだした。屋外にある喫煙所を、喫煙者ではない(と思われている)審神者が頻回に通りかかるのは、かなり不自然だ。が、刀剣男士のだれそれを探しているんですが? という体を装って通りすがる。遠目にのぞき込んでみるが、――やはりその日も、清磨はいなかった。
「おや、主だ」
軽い声は大般若長光のもの。
顔を上げた彼が審神者に気付き、愛想のいい笑顔でひらひらと手を振った。審神者もそれに返す。
大般若の隣で、大きな背中を向けて慌てて煙草を消したのは、燭台切光忠だ。審神者が首を傾けると、小竜景光がなんとも言えない笑みを浮かべてみせた。意味は分からなかったが、OKサインを作って立ち去った審神者である。――長船大集合の喫煙所は、見渡すかぎり黒くて怖かったな、というのが率直な感想だった。
よしんば喫煙のために赴いたのだとしても、あの黒でひしめき合った喫煙所には、なかなか足を踏み入れられないだろう。そんなことも、思った。
その後も懲りずにチャレンジすること、数度。しかし都合のいいことは起こるはずもなく、審神者は諦めた。
偶然その日は、喫煙所に誰もいなかった。
時刻は昼過ぎ。このまま帰るのもなんだか癪だと思い、屋根の下に足を踏み入れ長椅子に腰かけた。
審神者はここを、早朝の誰もいない時間帯以外に使ったことがない。なぜかというと理由は単純で、タバコを吸っている姿を見られたくないし、喫煙者であるということ自体、余人に周知されたくないからだ。
しかし、吸いつづければいつかバレるかもしれないし、もうこの際だから、誰かに見つかったらカミングアウトをしてもいいだろう。大麻を吸ってるとかいうわけでもないのだから、特に罪悪感を持つ必要などないのだ。
それでも、少しはドキドキとした。どきどきとしながら、煙草をくわえて火をつける。昼日中に吸っても、特に味の違いは分からなかったが、早朝に吸うときのような特別感はなかった。
ぼんやりとしてしまうのは、喫煙によって脳血管が収縮するからか? とりとめもないことを考えていると、唐突に声をかけられた。
「嬉しい先客がいるね」
そんな声にハッとしてそちらを向くと――会いたいと思って、会えないと思っていた源清磨がいた。
夢か幻かと、審神者は数瞬だけ忘我した。しかしそれは本当に瞬く間のことで、次には、やっと会えた! と悲願達成に内心で沸き立った。
「おっ……ああ、清磨か。押忍」
若干挙動不審にさえなった。
「押忍? うん、僕も相席していいかな」
「ドーゾドーゾ。相席なんて、むしろ私がアウェイみたいなもんだから」
挙動不審な審神者に動じず、清磨はこの前と同じくはす向かいの位置に腰かけた。取り出した煙草は、缶入り。そういえばそうだったな、と審神者はいつぞやの記憶を掘り起こした。
「アウェイみたいって? ここは君の本丸だろうに」
適当に言ったことに食いつかれ、審神者はしばし言葉に窮した。
「ま、それはそうなんだけど……。いつもは奥でこそこそ吸ってるから」
「隠れる必要が?」
ないのは分かっている。個人的な理由だ。
「なんとなく恥ずかしいというか、……罪悪感っていうかね」
「罪悪感」
「体に悪いことは分かってるから」
なんだかやらかしを告白するみたいで、非常に気まずい思いがした。それでも訥々と思いを語っていると、ふっと――清磨が笑った。
柔らかくて、穏やかな、あの笑み。しかしよくよく見てみると、それは可愛くも幼くもなくて、どこか余裕のある――異性の、笑みだった。
すかさずそれにどきりとし、不自然にならない程度に目を逸らして逃げる。
「でも、今日はここで吸ってる」
清磨の指摘に、審神者はさらにどきりとした。――まさか、あなたに会いたかったからですとは口が裂けても言えない。
「まあ、……たまには、いいかなって」
そこで会話が途切れた。視界の端で、清磨が取り出した煙草を口にくわえたのが分かった。火をつけると、甘ったるい香りが立ちこめる。くらりとする濃厚なにおい。酔いそうだ。
「僕以外に、」
清磨が口をきいた。
「え?」
「君が喫煙者だってことを知ってる者がいる?」
何気ない問いだった。すこしだけ回らない頭で、ぼんやりと審神者は考える。
「いない、んじゃないかなぁ。毎日吸わないし、吸うとしたらシャワー浴びる前が多いし。見つかったのも、清磨が初めてだよ」
この後シャワーを浴びて執務室へ戻るか、それとも早々に店じまいとするか。
そんなことにつらつらと思いを馳せていると、――再び。清磨は笑った。今度は目を細めただけ。
「そっか。じゃあ、僕たちだけの秘密なんだね」
ちらりと向けられた視線の、挑戦的なことといったら。まさか彼がそんな表情をするとも思わなかったし、それを向けられて平気なはずもない。
どきんと激しく心臓が跳ね上がって、非常に落ち着かなくなって、審神者はアハハそうだねと空笑いして返した。
「きききき清磨は、なに吸ってんの?」
話題を逸らそうとして振ってみるが、その直後に、そういえば初めてここで会ったとき、彼の方から銘柄を口にしたことを思い出した。が、名前までは憶えていない。
ふふふ、と清磨が笑ったのは前にも言ったよ、ということなのか。それでも彼は丁寧に答えてくれた。へぇーそっかぁ! という返事がやけに大きく響く。その不自然さがたまらない。
「っ……えと、ずっとそれ?」
「ううん。いろいろ吸ってみて、これに落ち着いたかな。僕は甘い吸い口のが好きだな」
「そんなもんなんだ」
「初めて吸ったのはもらい煙草だったんだけど、それが甘くって。初めてがそれだったからか、苦いのはちょっと苦手なんだ」
甘い煙草……。考えてみると、少し興味がわいた。審神者はへえと呟きながら、しげしげと清磨の太もものそばに置いてある、缶の容器を眺めた。
「主は?」
「私は最初からコレ……って、まあほんとここ最近だけどさ」
「どうして吸い始めたの? どうしてそれ?」
ゆったりとした口調ながら次々に質問されて、少しだけ審神者は圧倒された。目を丸くしていると、清磨は少しだけ恥ずかしそうに、興味があるんだと答えた。――成人して随分経ってから吸い始める理由は、確かに気になるかもしれない。そう納得し、審神者は考えた。
が、どう考えてもかっこいい理由などなかった。
「吸い始めた理由は、特にない。本当になんとなくなんだ」
「銘柄は?」
「はね、知り合いが吸ってたから。……やっぱり、特に意味はないね」
審神者候補生時代に研修に行った本丸で、師である審神者が吸っていたものだ。その煙草に対して、特別な思い入れなどはありもしない。ただ、なんとなく吸ってみようと思ったときに思い浮かんだのが、それだった。
「……女性?」
清磨が問いかける。
「ううん。男性。審神者の先生」
「特別な人とか」
間髪入れずに清磨が畳みかける。その響きもまなざしも、どことなくほんの少しだけ鋭くなったような気がして。審神者は違う意味でどきりとした。
「いやいや。師として尊敬はしてるけど、それだけだよ」
「そう。良い師に恵まれたんだね」
そう返した清磨に、ほんのりと感じた鋭敏さはまるでなかった。ゆえに、気のせいだということで審神者は片づけることにした。それと同時に――清磨も人並みに(?)ゴシップに興味があるのだろう、というところで手を打った。
それで清磨も納得したのか、二人の間に沈黙が流れた。
とにかく、清磨の煙草は甘い匂いがする。甘い匂いと、外見に不釣り合いな男っぽい所作が、たまらなくセクシーだ。こんなことを刀剣男士相手に思うのは、いけないことだろうか。こんなふうに盗み見てよいのだろうか、と悶々としているうちに審神者はとうとう吸い切ってしまった。
しかしどうにも離れがたく、審神者は手元を眺めた。もう一本吸うか。原則として一回につき一本と定めているから、自分のルールを破るのは忍びない。吸おうか吸うまいかと考えていると、
「もしかして主、気になる?」
清磨がきわめて鋭い指摘をし、審神者を青ざめさせた。もはやこうなると声も出ない。驚愕に身を固くしていると、清磨は缶を開けて、中身を一本取り出した。
「さっきからじっと見てるから、気になるのかなと思って」
「あっ……」
そういうこと。盗み見ていることには気づかれたが、その真意までは看破されていないらしい。ほっとして、そういうことにしておこうと心に決める。
「あ……じゃあ……もら、」
しかし、もらい煙草とはいかに。この時代、このテの煙草はかなり高額な嗜好品だ。交換という手がよくないか? しかし、いかにも重そうな煙草を吸っている清磨が、ライトでスースーするものを好むか? 喫煙者の間ではもらいタバコってどういうかんじなんだ? などと思い悩む。
「僕はいいよ、まだ吸ってるから」
「あ……。はい、いただきます」
「どうぞ」
ははーっと頭を低く受け取ると、審神者はさっそく咥えて火をつけようと――して、くすくすと笑う声に気付き、動きを止めた。
清磨は視線に気づくと、ああごめんごめんと軽く詫びる。
「なんだか、君の考えてることが手に取るように分かるよ。可愛いな、まるで煙草を覚えたての若者みたい」
「っ……ま、まあ、当たってるけどさ」
しかし、自分より見た目年齢の若そうな彼から「若者」と言われるのも変な感じだ。
気を取り直して、火をつける。そうして――直後に、後悔した。
むせて、むせて、むせた。この場合、どんなもんかと警戒して細く吸ってしまったことも良くなかった。とにかくむせて、煙草を取り落としそうになるほどむせて、――咳が落ち着いたとき、審神者は軽く絶望感を覚えた。
「これは……なんていうか……これは……」
阿呆みたいにそんな言葉しか出てこなかった。が、せっかくもらった煙草だ。涙目になりながら、もうひと口トライしてみる。が、結果は同じこと。三口目に差し掛かろうとしたとき、清磨からストップがかかった。
「なんだか……ごめん。初心者には向いてなかったね」
「いや……興味を示したのは、私だから。しかしごめん。これ以上吸える自信がない」
がっくりと肩を落とす審神者に、そうだよね、と清磨は優しい。
「どうだった?」
問いかける彼は、申し訳なさの裏で、すこしだけ悪戯っぽい雰囲気だ。審神者は少しだけ考え込み、この際だから素直になろうと決意した。
「なんていうか……こう……吸いながら……気管の中で痰が分泌されてるのがわかるみたいな……。これを平然と吸ってるのも、すごいね」
「慣れると、これ以外はなんだか物足りなくて」
その時ちょうど、清磨が一本吸い終わった。
「はい、」
手を差し出されて、審神者はきょとんとする。
「タバコ、もらうよ」
そこまで言われて、ああと審神者は納得する。何も考えず清磨へ引き渡すと、直後に彼は口をつけて吸いはじめた。
何も考えずにその様子をぼんやりと見ていた審神者だったが――にわかに、間接キスだと気づいてぎょっとする。が、もともとは彼の持ち物だし、煙草を吸える年齢の大人が、それしきのことでギャアギャア言うのも大人げない。審神者はソワソワするのを必死になって堪え忍んだ。
――そんな出来事があったからかは、分からない。その晩審神者は夢を見た。
清磨とキスをしている夢。
行く手をふさがれ、頬を撫でられ、気づいたら甘い香りが近づいてきて、唇に生暖かい湿った感触が触れて、それで。
「……む、無理だ……」
飛び起きた審神者は、半ば恐慌状態となった。ひどい罪悪感と、相反する劣情とにひどく苛まれた。なんと罪深い――。
それ以後、彼女は清磨と顔を合わせることができなくなった。
※コメントは最大10000文字、100回まで送信できます