あまりに唐突すぎたのが、逆に良かったのかもしれない。奥の自室へと戻りながら、審神者は広間でのことを思い出しそのように評価した。
その場に集まった全員に、病に冒され先が長くないことと、自分亡きあとは政府の決めた後継者に本丸を託すことを告げた。
自分が一番驚いているのだから、彼らが信じられないのも無理はない。何かの冗談だと思うものがいれば、不謹慎だの笑えない冗談だと怒るものもいて、反応はさまざまだった。
収拾できないくらい場が荒れかけたとき、山姥切の鶴の一声で静かになったものだ。
『信じられないものは信じなくていい。しかし今後は俺が審神者の代行をするから、そのつもりで。主がこの手の冗談をいう人間か今一度考えたうえで、今後の身の振り方を考えるんだな』
刀剣男士のなかでも最高権力者である初期刀の言葉に、反論するものは一口とていなかった。しんと静まり返った大広間が、静寂を通り越してお通夜のような雰囲気になるまで、さしたる時間は要しなかった。
呆然とする彼らを見るのが忍びなくて、疲れたことにして審神者はその場を辞した。誰も引き留める者はいなかった。
自室に戻ってから、審神者は布団を引っ張り出し倒れるようにして横になった。心の中はぐちゃぐちゃに取り散らかって、不快でたまらなくて、暴れそうになるほど荒れている。
それなのに、体は指一本動かせないほど疲れ切って、フラストレーションのやり場がない。広間を辞した言い訳は、あながち嘘ではなかった。
どうせ死ぬのなら――最後に一つくらい、わがままを言ってもいいんじゃないか。墜落するように眠りにおちながら、審神者は考えた。
強烈な、夏の日差し。
たとえるならそのようなものだった。強く鋭く突きさすようなそれは、ソハヤノツルキの瞳に似ている。
睨まれているわけでは決してないのに、揺るぎなく烈しいその眼差しは、いまだに五秒以上直視することができないでいる。
その理由は単純明快で、審神者が彼に心底から惚れぬいているからだ。
――本丸に入るとき、審神者は一つだけ自身に制約を設けた。それは絶対に、刀剣男士と恋仲にならないということ。初期刀の山姥切を相手に、彼が顕現されてすぐのころ、唐突に宣誓したものだ。
単純に職場内恋愛の気まずさを回避したいという理由もあったが、審神者として主として、公平を期すため一口だけに特別な思いを寄せるわけにはいかなかったからだ。刀剣男士との恋愛は、公に禁止されていることではなかったが、単純に偏らない自信がなかった。
しかしそれも、かの刀が顕現されてから大きく揺らぐところとなった。
ソハヤノツルキウツスナリ。当初は、新しく実装された刀の一口程度にしか思っていなかったが、彼と交わりその性質に触れていくにつれ、思いは募っていった。
特別な決め手があったわけではない。特筆すべきエピソードもない。けれども着実に、しずくが岩を穿つがごとくゆっくりと確実に、気づけば恋心は身内にとどめるのも難しいほどに育っていった。
しかし審神者には、自身がもうけた『刀剣男士と恋仲になるべからず』という制約がある。恋仲になれるかどうかというのも怪しくはあったが、そんな制約が却って、どうせダメなのだから――という言い訳の材料になって、都合がよくもあった。
これまでに何度か、彼に女の影を感じたこともあるし、そういう噂を聞いたこともある。その度に狂いそうになりながら、しかし制約を持ち出して心を慰めた。
自身は私情を捨てて使命のために戦う気高い主だと――。むなしい自己賛美に酔いしれることで、どうにか正気を保ち続けてきた。
そんなことを繰り返していれば、歪みが発生するのは無理からぬことで。
目が合って嬉しいとか、そばにいると鼓動が高鳴るだとか。そういった可憐な恋情は、いつしかこじれにこじれて、畏敬に近い痛烈な慕情へと変わっていった。
あるいは、主として――最期のわがままで、死ぬときは道連れにしたいとも。そこまで思いつめるほどになっていった。
冗談交じりに思っていたことが、しかし今、真実味を帯びてきた。嗚咽とともに飛び起きた審神者は、全身から噴き出す汗の不快感に顔をしかめ、汗とも涙ともいえぬものを手の甲で拭う。
なんて、……なんて身勝手な。
あまりにも自分本位な考えにめまいがして、顔を手で覆う。自己嫌悪で吐き気がするのに、一方では、やってしまえと騒ぎ立てる自分もいて。両価的感情が暴れまわり、身も心もぐちゃぐちゃに崩れていく。
ひとしきり泣いて喚いて暴れまわったあと、ぐったりとしながら審神者は心を決めた。絶対に未練は残すまいと。時間も相手の都合も迷惑も考えず、立ち上がる。ゆうらりと幽鬼のごとく頼りない足取りで歩み、目的地を目指す。
いない。声をかけても返答はなく、誰かいるような気配もしない。夜中のため人目がないのを幸いに、無人の部屋の前に座り込む。膝を抱え、膝がしらに額をつけて、部屋の主の戻りを待った。
「……主か?」
夜が終わりを告げ始める未明のことだった。驚いたような声が、まどろみかけていた意識を再浮上させる。
ゆっくりと顔を上げると、遠征帰りと思しきソハヤノツルキがそこに立っている。
立ち上がろうとして、しかしそれほどの気力がないのに気づき、審神者は座ったまま彼を見上げた。寝起きだとか、ひどい有様だとか、そういったことには一切頓着しない。その方が、いっそのこと哀れっぽくていいかもしれない、などという打算的な思いもあった。
驚きに満ちた赤い瞳。以前は五秒以上直視できなかったそれが、なぜだか今ではまじまじと見つめることができる。
「ソハヤのことがずっと好きだった。息を引き取る最期の瞬間まで、あなたのことを独占したい」
なにを、思ったわけでもない。計算したわけでもない。なにがしかの感情があったのは確かで、正体不明のそれが涙として出力された。
涙が、と思った瞬間には急激に悲しいような、どうしようもないような心持ちになった。
寄る辺もなく、この世にたった独りぼっちになってしまったような、寂寥感や孤独感、悲愴、悲哀、悲嘆……。こらえようもなく、あとからあとから涙があふれてやまない。
「……わかった」
固い声とともに、あたたかな温度に包み込まれた。鼻腔を満たしたのは、血と汗と男のにおい。――涙も流してみるものだと、審神者は思う。
自分のようなどうしようもない女の涙にも、一定の効果があったのだから。
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