死の恐怖というのは、命絶えるその瞬間までつづき、余生は常に絶望で充填され、希望などは一つもないのではないかと。――そう思っていたが、あながちそれだけではないのだと、気づく瞬間があった。
秋が終わり、冬が過ぎ去り――どうにかつないだ命は、春の訪れを待っている。
よく晴れて暖かいその日、審神者は床から上半身だけを起こして、穏やかな日差しを浴びていた。
新年を迎えることができて、めでたい。椿を愛で、梅を愛で、四季の恵みを肌で感じることができて、喜ばしい。
心の揺れ動きは、やはりまだある。きっとそれはずっと続くのだろうとも思う。しかし腹はおおむね据わったと見える。けれどもひとつ――ひとつだけ、審神者にはいまだに決めかねていることがあった。
最期の瞬間まで、彼を独占したいと。
告白した。死ぬ瞬間を看取ってほしいと思っていた。けれども――。
自分亡きあと、彼はどうなるのだろう? 新しい主を迎え、それが自分と同じような女で、彼に恋心を抱き――そうして、ふたりが結ばれたら。
最後にこんな面倒ごとを押し付けたのだから。あるいは、心の底から惚れぬいた彼だからこそ、幸せになってほしいというのは本心だ。
彼が本気で愛した女と幸せになるということ――それが彼の幸せであるというなら、それをかなえてほしいと。
だけれど、それがたまらなく許せない自分がいるのも、事実で。いつだったか、ソハヤが過去を思いだして遠い目をしたとき――自分が入り込めない尊い間隙に、ひどく嫉妬したことを覚えている。
他の誰かにとられるくらいなら、道連れにしたい。誰にも渡したくない。自分一人だけのものにして、独占したい。
己の浅ましさを自覚して、軽く吐き気を覚えたとき。
どこからか、甘いやわらかな香りがして鼻腔をくすぐった。
「起きてたな」
そんな声とともに、ソハヤが寝室へ入ってきた。手には花瓶と、梅の枝。香りのもとはそれであるようだ。
「ソハヤ……。それ」
いい匂いだと審神者がいうと、ソハヤは布団のすぐ近くまでやってきて梅を花瓶へと活け始めた。
「蝋梅だ、庭に咲いていた」
「ろうばい……?」
「ほれ」
そっと差し出されたものに、控えめに手を伸ばす。鈍い光沢は蝋細工に似ている。なるほどだからか、と納得してうなずく。ソハヤはそれを見て目を細めた。
「いい香りだろ? 好きかと思って持ってきた」
「大好き。香りもいいけど、見た目もいいね。梅よりも花弁が多いし、ランダムでかわいい」
「普通の梅は花弁は五枚、蝋梅だとひいふう……十枚かそこらか。大和本草の貝原益軒は、花の容が不格好だと評していたな」
「不揃いなのがダメなのかな」
「かもしれねえ」
「几帳面な性格なのかな」
「内容もあれだけきっちりとまとめてるんだから、まあ、そうなんだろうな」
「そっか。見習いたいな」
軽く笑い合い、ふと――触れてみたいと手を伸ばす。感触も蝋細工のようなのだろうか、とひと撫でする。
「あっ」
さして荒っぽくしたわけでもないが、萼からポロリとこぼれ落ちてしまった。
「花やつぼみはとれやすいから気をつけろ、……と早めに言うべきだったな」
苦笑いするソハヤに、審神者は眉をハの字にする。落ちた花をそっと拾い上げる。より近くで感じられる芳香が、気分を落ち着かせた。
「もったいないことしちゃった」
「もともと取れやすいんだから、気にするな」
花瓶を審神者の目の届くところに置くと、しかしソハヤは、何度か角度を変えて一番いいポイントを探そうとする。枝を見栄えよく活けた手前といい、ソハヤはそういったセンスにまで恵まれているらしい。
「……蝋梅の花言葉を知ってる?」
何気なく聞いてみると、ソハヤは手を止めて背中越しにこちらを振り返った。さすがにそんなことまでは知らないだろうか。
しばし見つめ合っていると、彼はふっと薄く笑みを浮かべた。穏やかすぎるほどに穏やかで、やわく、やさしく、一言で表すならば、
「……慈愛」
それこそが、それのみが。ふさわしいものだった。
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