心は、いつまで経っても決まらなかった。
けれども、心が決まるよりも肉体の朽ちる方が先だろう。結局のところ結論など出ずに死んでいくのか、その時の心がどちらなのかも分からない。まるで箱のなかの猫が、生きているか死んでいるか分からないのと同じように。
――慈愛を、注いでくれている。
全力でひたむきに、自分ひとりだけのために慈しみをくれている。それでいいではないか、という自分がいる。慈しみ、それは尊い感情だ。たったひとりのかけがえのない主に、記憶に強烈に残る主にはなれなくたって、慈しみを注いでもらえる主だったって、いいではないか。
慈愛――。
清潔な香りの蝋梅に手を伸ばす。指先がひっかかると、ボロボロと花やつぼみが手の動きに合わせて軒並み落ちてしまう。花ごとぼとりと落ちてしまうさまは、まるで首のようでもある。
慈愛――。
落ちた蝋梅を握りつぶした刹那、審神者の心は決まった。待っていてもだめなのだ。それでは遅すぎるのだ。
後悔したくないと、思いを告げた。
未練を残したくないと、踏み出した。
みっともなさや浅ましさに目を背けて、恥も外聞もすべてかなぐり捨てて、縋りついたのだ。
もうこの後は猶予がない。まるでない。今でないと、いけない。
床の間に飾られた脇差を、手に取る。審神者として手入れをしていたときは、大太刀や槍も軽々とはいかずとも、どうにか持つことができた。それなのに、今はこの短く頼りない脇差でさえも途方もなく重く感じる。
こんな体で果たして成し遂げるだろうか。やり遂げなくてはならない。――否、失敗したっていい。敵襲とでも間違えられ、却って彼の手にかかって死ぬならば、それも幸せであろうから。
ふらつく体を気力で支え、隣室へと続く襖を開ける。ソハヤノツルキは寝ていた。忍び足をするほどの体力はない。不躾に布団を踏んで、胸の上に馬乗りになった。起きない。よほど深い眠りに入っているのか。
首に手を触れ、筋肉の走行を触知する。胸鎖乳突筋より内側に存在する頸動脈、狙いはそこにある。
震える手で刀を構えながら、今一度、眠る彼へと視線を落とした。
綺麗な顔をしている。意志の強そうな眉と、幅広で薄い唇。思ったより小づくりな鼻と、広いとはいいがたい額とが、なんだか可愛らしく映る。――この顔に、触れてみたかった。
いつか口づけしたかった。額を寄せ合ってみたかった。
――やはり、自身のエゴには勝てなかった。
誰にも、盗られたくないのだ。もう二度と、だれかに奪われたくないのだ。
最期の瞬間に強烈に、記憶に残る存在でありたい。たとい憎悪であろうと、特別な感情を抱いてほしかった。
鋒をのど元に当てる。荒い呼吸を繰り返し、上から体重を込めて押し込もうとした――その瞬間。
横から伸びた手が審神者の手の上から柄を握りこみ、強い力で下へと引いた。あっと思ったときには遅い。
その力と重力に従い、よく研がれた刀の鋒は皮膚を破りぞぶりと肉も筋も切り裂いて、その奥――命の本流まで到達した。
驚愕に目を見開く審神者の前で、ソハヤの目がゆっくりと開いた。苦悶の表情を浮かべた次には、視線を合わせてにっと笑ってみせる。
「やっと……素直に、なったな」
してやった、とでもいうような――場違いなほど晴れやかな笑みだった。
審神者は呆然としている。まるで自分が刺されたかのように。
予想外の出来事に、脳内が混乱し、ついにはショートし、もはやなんの思考作業もできない状態となっていたのだ。
「……同情じゃねえとは、……言い切れねえんだがな」
語尾は吐き出した血霧に消えて、はっきりとしない。長くはもたないことを察し、どうせ聞こえてもいないだろうと、ソハヤはそれ以上の言葉を飲んだ。
電池が切れたように、魂が抜けたように脱力した女の細い首へと、ソハヤが手を伸ばす。初めて触れたその肌は、やわく温かかった。
あるいは、この肌に口づけし愛撫するような未来も、ありはしなかったか。もしも――だなんて。考えても詮無いことで、刀剣男士こそ最も考えてはならぬことであるが。
最期の力を振り絞って、指に力をこめる。ミシミシと軋み、ひときわ硬く鈍い音が鳴り響いた。
しばらくして首を支えていた手がぽとりと落ちると、それにつられるようにして審神者の上体がふらりと傾ぐ。
折り重なった体は、まるで陸み合っているかのようだった。
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